サイエンスとしての経済学

 今、世界経済がすごいことになっている。こういうときは、経済学者のはしくれとして、経済の現状に何かコメントすべきかもしれない。でも、ぼくには自信を持っていえることは何もない。
 20世紀初頭の世界大恐慌との比較が、新聞にもネットにも溢れている。でも、それはみんな、ぼくには「後解釈」に見える。後解釈は、少なくともサイエンスではない。サイエンスとは、ポパーのいうように、「現象の抽出→理論の構築→予言をする→予言が当たる」というプロセスを持ったものだと思っている。じゃあ、「歴史学」かというと、ぼくはとことん歴史音痴ではあるが、(実際、高3のとき、日本史の定期テストで23点をたたき出して、卒業が危ぶまれた)、でも、歴史学は「後解釈」とは違うように思える。あさはかな門外漢のぼくなりにも、歴史学とはカーのいうように、「過去との対話」なんだと思うし、もっと今風にいうなら、「内部観測に漸近すること」なんじゃないだろうか。
 こんな今、ぼくは、ゲーム理論の共著論文と胃の痛くなるような緻密な取り組みをしている。それは学者としてダメダメの証しになってしまうだろうか。ぼくはそうは思ってない。宇沢先生の『近代経済学の展開』岩波書店にこんな話が載っている。

戦争直後、世界の経済学者たちがどのような状況に置かれていたのか。それをもっとも端的に表した一つのエピソードがある。1944年8月、パリは連合軍によって解放されたが、イギリスの経済学者ジョン・R・ヒックスはパリ入場の第一陣のなかにいた。パリに入った最初の夜、ヒックスはフランスの経済学者の集まりがあると聞いて参加したのであった。屋根裏のような薄暗い部屋に案内されたヒックスは、そこでモーリス・アレーのセミナーを聞くことになる。それは、モーリス・アレーが数理経済学に関する抽象的な論文を長い時間かけて説明するというセミナーであったことにヒックスは意外な感じがしたのであった。パリ市内こそ戦火を免れたものの、フランス全土、さらにヨーロッパ全体がまさに灰に帰したような状況のもとで、抽象的な数理経済学の議論を聞こうとはまったく予想外のことであった、とヒックスはのちになってから述懐している。

こんなエピソードを紹介したうえで、宇沢先生は、このように書きつないでいる。

パリ解放の夜、アレーとヒックスのかいごうは、戦後の経済学の発展をそのまま象徴するようなものであるように思われる。経済学はあくまでも現実の経済制度をその分析の対象とし、表層的な経済現象の底にある実体を、透徹した視覚と冷徹な論理をもって解明しようとするものである。戦後の荒廃にあって、近代合理主義の立場を貫きながら経済学に立ち向かうというこの二人の姿勢のなかに、戦後の経済学の特徴とその発展の方向をみることができるといったら言い過ぎになるだろうか。(色での強調はぼくによるもの)

宇沢先生が、このエピソードを、自戒のなかでいっているのか、ひどい皮肉で言っているのか、本を読む限りでは微妙だ。でも、ぼくには、色で強調したところが、とても勇気づけられる。サイエンスであろうとするなら、「表層」に拘泥して、「本質」を追求する手綱を緩めてはならないだろう。
もちろん、「政策選択」というのは、それこそ大事な分野である。けれどもそれはサイエンスではなく、「医学」に近いものだといっていい。医学では、患者の苦痛を緩和し、生命を救済するのが第一の使命で、それがどの程度の精緻なサイエンスに裏打ちされているかは二の次だといっていいからだ。
でも、経済学がサイエンスたろうとするなら、やるべきことは別にあるはずだ。それは2千年先を見据えることだ。人類は、「物質が原子という最小単位の構成物であること」や「物体の自然落下が等速運動ではなく、等加速運動であること」を発見するのに2千年以上の歳月を費やした。でも、それは、ギリシャ時代の学者が問題にし、真摯に考えたことから始まり、それこそ気の遠くなるようなコツコツとした努力の末に得られたものだ。ケインズは、「長期的には皆死んでしまう」といったが、サイエンスにとっては、皆が短期で死んでしまうことなどどうでもいいことなのだ。
現代思想』2008年8月号で、松井彰彦さんと討議したとき、ぼくの「松井さんの貨幣理論の研究から言って、サブプライム問題はどのように見えるのですか」という質問に対し、松井さんは、「貨幣のミクロ的基礎をやっている立場からすれば、語ることは多くはありません。そこまで話が進んでいませんから」と答えてくださった。ぼくは、これこそがサイエンスとして経済学をやっている人の誠実な答え方だと思って、溜飲が下がった。松井さんもぼくも理系から来たことの共感なのかもしれない。松井さんもきっと、2千年先を見据えて、地道な小さな努力を積み上げているのだと思う。

世界を読みとく数学入門

 明日あたりから、ぼちぼち、ぼくの新著が並び始めるので、ここで告知しておこう。
タイトルは、『世界を読みとく数学入門〜日常に隠された「数」をめぐる冒険』角川ソフィア文庫

これは、2003年に刊行された『数学の遺伝子』日本実業出版の文庫化で、ぼくにとっては、単著の初の文庫である。(監修本ならすでに文庫がある)。
文庫化といっても、相当に筆を入れてあるので、かなり違う読後感を与えることと思う。「そうやって騙して、元本を読んだ人間にも買わそうとしてるな」とかんぐってると思うが、そりゃ、まあそうで、下心みえみえなんだけど、でもそういわず、ちょっと聞いて欲しい。
ぼくは、元本を書いたとき、執筆人生でただ一回のきょーれつなスランプに陥った。その経緯は、文庫のあとがきで読んでもらいたいが、とにかく、あれほど原稿が書けなかったのは初めてだった。だから、元本のほうは、内容には自信があったんだけど、文章とか構成とかではいろいろ失敗をしていた。何より、全体に、「スランプだよ〜ん」という暗いムードが漂いまくっていたのが嫌だった。( 読者は気づいてなかったかもしれないんだけど)。だから、今回の改訂では、思いっきりリベンジをしたかったのだ。そんなわけで、単なる文庫化とはレベルの違うめちゃめちゃ大変な改訂作業を行った。時間が限られていた中でだから限界はあったけど、とにかくそこそこに納得できるまでがんばって書き換えたのだ。そして、その改訂作業に、東大物性研究所准教授の加藤岳生くんが真摯に助っ人をしてくれた。おかげで元本でのいろいろな誤りや解釈違いを修正することができ、その上、新しいエピソードを付け加えることができた。例えば、ゼータ関数の話では、カシミール効果という物理現象との関係を導入することができたし、最後の量子コンピュータがRSA暗号(ネットのパスワードとかに利用されている暗号)を打ち破る、という「ショアの定理」のおおざっぱな証明方針も、元本よりずっとわかりやすく改良できた。(加藤くん、ありがとう、持つべきものは物理学者の親友だ)。そういうわけで、今回の文庫化で最も嬉しかったのは、「スランプでない自分」で書けた、ということなのだ。
 しばらくは、このブログで、この本のキャンペーンを張っていく予定だけど、第一弾の今回は、まずは序文をさらしておこう。実は、元本は台湾版と韓国版がすでに刊行済みなんだけど、この序文は韓国の読者向けに書き下ろした序文をアレンジしたもので、元本とは完全に異なるもの。

    数ってスゴイ! だって、数を使えば、世界をナビゲートできるのだ。
 もしかして、あなたは、数とか数学というものに、これまで相当に苦い思い出をお持ちじゃありませんか?「分数でつまずいた」、「無理数が悪夢だった」、「虚数に出会うまではなんとかしのいで来たのに」・・・ はい。その気持ちよくわかります。そんなトラウマのせいで、あなたが数とか数学といったものに対して、すこぶる印象を悪くしてしまった不運には、心から同情いたします。だって、これは「学校数学」という特殊分野の弊害なんですから。
 現代の学校数学は、人間生活にとっての基礎的な知識を育む、といった本来のあり方を逸脱して、子どもを競争させて甲乙をつけるための熾烈な競技場と化してしまいました。そのせいで多くの人は「勉強というのは受験のためだけのもの」と思いこんでしまい、数学を、「ひどく面倒な操作を忍耐強く覚え、いかにそれを素早く正確に実行できるかを競うゲーム」だと誤解してしまっていると思います。そういう人は、受験が済んだら、数学を忌々しい過去として忘却のかなたに葬ってしまう(しまった)ことでしょう。でもそれはとても残念なことです。なぜなら、数学は、人間の日常生活や思考様式から切り離すことができないくらい、人間に密着したものだからです。数学は怖いものでも、難解なもの、無用の長物でもないのです。むしろ数学は、この世界を豊かでファンタスティックに見せてくれるパノラマなんです。
 私たちは、ものごころついたときはすでに「数」を知っていて、「数」を操作しています。それは、「数」が私たちにプレインストールされている証拠です。そうして、学校で教わる中で「数」は、「整数」、「分数」、「無理数」、「複素数」と、着々と進化を遂げていきます。ともするとこのことは、「だんだんゲームの難度を高めて、負けた子どもを振り落としている」、と受けとられ、気分を滅入らせる原因となるでしょう。でも、これは正しい受け取りかたではありません。そうではなく、次のように受けとるのが正しいのです。つまり、「数」の進化は、人間のコミュニケーションの道具が、「会話」、「手紙」、「電話」、「eメール」、「携帯メール」という風に進化して来たことと全く同じ、ということです。
 これらは、ことばを伝えるメディアの技術進歩を表しています。人間に本来備わっている「ことばでコミュニケーションする能力」を活かすべく、ことばを伝える新しい道具がどんどん開発された、ということです。技術そのものは難しく高度になっていっていますが、それは人間の持つ「人とコミュニケーションしたい」という本来的な欲求をかなえるための必然であったのです。「数」の進化も、実はそれと全く同じなのです。人間に生来備わっている「数認識」というものを上手に活かし、人間の「自然界の営みを理解したい」という本来的な欲求をかなえるために、「数」は必然的に進化して来た、といえるわけです。「数」は、自然界や社会と私たちをつないでいます。私たちは誰もが、現代生活の中で、常に「数」にアクセスしているといえるのです。そう考えれば、「受験に成功するために仕方なくつきあうもの」という拒否感から脱出することができると思います。
 この本のウリは、「数」の進化と人間の認識の進化をオーバーラップして語ることです。整数の章では、コンピュータ・テクノロジーと、分数の章では、不確実性のコントロールと、無理数の章では不確実性を一歩進めたカオスや複雑系と、そして虚数の章では、ミクロの物質・量子たちの力学と、オーバーラップさせます。「数」がわたしたちの世界といかに活き活きとリンクしているかわかることでしょう。この本のもう一つのウリは、最初の章と最後の章に暗号技術の話を配置していることです。具体的には、現代のIT技術欠かせないRSA暗号とそれを打ち破る量子コンピュータの仕組みの解説です。現在のインターネット上のさまざまな情報交換やネットビジネスにおいては、RSA暗号は欠かすことのできない日常の道具になっています。これはまさに「数」のテクノロジーで成立しているのです。でも、近い将来、量子コンピュータが開発されれば、これらの暗号はすべて破られてしまいます。その原理もまた、「数」のテクノロジーなのです。
 この本によって、読者の皆さんが、人間が生まれつきもっているはずの「数を使って世界をナビゲートする」という感覚を思い出してくだされば本望です。