確率は観測可能なのか?

ぼくの新著『確率を攻略する ギャンブルから未来を決める最新理論まで』ブルーバックスが、そろそろ店頭に並んでいる頃なので、販促の追い打ちをかけておこう。
「まえがき」については、前回(来週に新著が出ます! 確率の本です! - hiroyukikojimaの日記)に晒したし、それは『現代ビジネス』(数学者もギャンブラーも投資家も超夢中 世界は確率で動いている!(小島 寛之) | ブルーバックス | 講談社)にも掲載されたので、今回は、もうちょっと、この本に込めたぼくの「個人的想い」のようなものを綴ってみようと想う。

この本でぼくが問題提起したかったのは、「確率は観測可能なのか?」ということ、もっと煽っていうなら、「確率は実在概念なのか?」ということだ。
例えば、「サイコロを1回投げて1の目の出る確率」というは、6分の1であることを、みんな信じて疑わない。でも、その「6分の1」という数値は、どこかで観測可能なのだろうか?あなたが、いま、サイコロを投げたみたとする。そこで「4の目が出た」としよう。さて、その確率「6分の1」というのは、どこにあるんでしょうか?どこで観測できるのでしょうか?もちろん、それは、運良く「1の目が出た」という場合だって同じだ。どちらにしたって、「6分の1」はどこからも演繹できない。ここで、よく考えてみてほしい。「サイコロを1回投げて1の目の出る確率」というのは、「次の1回の試行」について語っている。でも、「次の1回」の実際の試行の結果では、その「語っている」ことの検証のしようがないではないか。つまり、「サイコロを1回投げて1の目の出る確率」は、観測不可能なのである。
そこで、数学者たちは、それを「多数回の試行の頻度」に求めようとした。それが、いわゆる「頻度主義」という考えかたである。
そう、「サイコロを多数回投げる」と、「おおよそ6分の1の頻度で1の目が出る」という検証の仕方である。これは、実際の実験報告もあるし、コルモゴロフの公理系の下で数学的に論証できることだ。でも、冷静に考えてみよう。どうして、「多数回の試行における頻度」が「次の1回の確率」なんだろう。それは、単に、そういうふうに解釈しようとしているのにすぎないのではないか。なぜ、多数回の試行の頻度と次の1回の確率が結びつくのだろうか。
この疑問は、ぼくが塾で中学生の確率教材を作っていたときに思いっきり悩んだ問題である。でも、単なるぼくの世迷い言ではない。フォン・ミーゼスという確率論の先駆者の一人も、同じ批判を繰り広げている。正直、彼の批判を読んだとき、ぼくが塾時代に迷い込んだ迷宮は、本質的なものだと確信した。フォン・ミーゼスの批判については、このエントリーでは詳しく説明しないので、新著『確率を攻略する ギャンブルから未来を決める最新理論まで』ブルーバックスでみてほしい。
 頻度主義への批判を、「難癖」「言いがかり」だという人も多かろう。「サイコロを多数回投げると、1の目が6分の1の頻度で出る」なら、それは一回一回の「可能性」が6分の1だから、それでいいではないか、と。了解、その気持ちはわからないではない。では、違う訊ね方をしよう。あなたが仰りたいのは「大数の法則」であろう。つまり、「多数回の試行の頻度」を「次の一回の確率」と見なせばいいではないか、ということだろう。しかし、「大数の法則」を用心深く読み込んでほしい。サイコロについて言えば、「大数の弱法則」は次のようになっている。すなわち、「サイコロを膨大な回数投げると、1の目が出る相対頻度が、6分の1から微少量イプシロンより離れる確率は、いくらでも小さくなる」。さて、この言明の中に、「確率」という言葉が入っていることを見逃してませんか? 今、あなたは、「多数回の試行における相対頻度」で「次の1回の出現確率」を代用すればいい、と考えている。そこに「観測可能性」があると。でも、それを正当化する「大数の弱法則」の言明の中には、「6分の1とは別種の確率」が混入してるよね? つまり、確率を定義しようとしているその枠組みの中にすでに確率概念が利用されておるではないか。これは自家撞着、堂々巡りではないだろうか?これは、「大数の強法則」でも同じだ。この法則は、「サイコロを無限回投げると、1の目の出る相対頻度の極限が6分の1である事象の確率は1である」ということを述べている。やはり、堂々巡りから逃れてはいないのである。
 ぼくの新著のテーマの一つは、この「確率概念に潜む循環論」なのだ。そして、確率というのが、数学という形而上学を超えて、どうやって「現実」との整合性を自演するのか、ということなのだ。
 そういう意味で、本書では、確率理論の生成の歴史をある程度きちんとなぞっている。パスカルフェルマーの発端までさかのぼって、そこに置き去りにされた「何か」を見いだそうとしたのだ。そう、不思議なことに、発端・初心にさかのぼると、最新の理論が見えてくるのである。それこそが、本書のメインディッシュである「シェイファーとウォフクのゲーム論的確率論」なのである。この理論は、21世紀に提出された、最新の確率論である。これは、ぼくの勝手な解釈なのだけれど、シェイファーとウォフクは、先ほど述べた「確率の循環論法」が許せなくて、この最新理論を作ったのではないか、と推測している。実際、彼らの理論は、「確率」という概念を用いずに、「大数の強法則」と類似の定理を証明しているのである。しかもそれは、実際のギャンブルで大金持ちになるチャンスさえ秘めた実践性のある法則なのである。
 長くなったので、シェイファーとウォフクの(金持ちになれるかもしれない)ゲーム論的確率論については、次回に触れたいと想う。
まあ、何が言いたいか、というと、「確率はいまだにナゾだらけ」ということである。あなたが、いまも、「確率ってよくわからんのう」といぶかっているなら、その感覚は全く正しいのである。逆にいうと、「確率がよくわかってる」と納得している人は、どっかで詐術にかかっているのである。
 本書は、そんな想いを込めて書いている。