社会的共通資本を考える シリーズ1第2回『自動車の社会的費用』を読む、に登壇します。

京都大学社会的共通資本と未来寄附研究部門が主催する公開講座シリーズ、社会的共通資本を考える シリーズ1第2回『自動車の社会的費用』を読むに登壇します。来週、3月28日(火)19:00~20:30です。興味あるかたはふるってご参加ください。以下は、京都大学社会的共通資本と未来寄附研究部門のサイトからの引用です。

社会的共通資本を考える シリーズ1『自動車の社会的費用』を読む 第2回のゲストは帝京大学経済学部教授・小島寛之さんです。

小島さんは、宇沢最後の弟子で、『宇沢弘文の数学』を上梓されています。数理経済学者の視点から『自動車の社会的費用』を解説していただきます。

日時 2023/03/28 (火) 19:00 - 20:30 

会場参加とオンライン参加が選べます。申し込みは、以下のサイトからどうぞ。

https://scc-reading20230328.peatix.com/

 

これは、宇沢弘文先生の名著『自動車の社会的費用』岩波新書をいろいろな専門家がリレー的に読み解くもの。さまざまな立場や感受性による読解が聞けて有意義だと思う。

 ぼくがこの本を読んだのは、宇沢先生に指導を受けた30歳前後のことだったと思う。自動車が社会にもたらす弊害を勇気を持って断罪した内容に、非常に大きな衝撃を受け、人生観が変わったと言っても過言ではない。大事なことは、この本が単に著者の持つ自動車への選好のありかたを押しつけたものではなく、経済学の観点から冷静に功罪を論じ、それをバネにして「経済理論自体の不備」をも明らかにしたものだ、という点である。だから、「新古典派経済理論への批判」の書としても、また「新しく有効性のある経済理論の模索」の書としても読める。

今回は準備にあたり、この本の前段階にあたる論説や後日談にあたる論説もサーベイした。この本は1974年に書かれたものだけど、1970年にはすでに構想が完成していたことがわかった。そして、その思索を追ってみると、新古典派経済理論の天才であった宇沢先生が、経済学の意義に疑問をもち、それに煩悶しながら、新しい経済理論を模索していた姿がひしひしと伝わってきた。初読のときは、まだぼくは経済学の素人だったので気づかなかったが、今回はプロの経済学者として読み、この発見は大きな収穫となった。レクチャーでは、そういう観点からも語るつもりなので、興味ある人は是非参加してほしい。

再読して印象的だった部分をひとつだけ引用しておこう。

新古典派の理論は、以上述べたような前提条件をみたす一つの虚構の世界をつくりあげて、そこでの経済循環のプロセスが現実の世界におけるメカニズムを描写するという方法をとってきた。このような理論的前提にもとづいて構築された一般均衡モデルにかんして、その数学的・形式的な面について、一般化・精緻化がこの二十年間にわたってつづけられてきた。この目的のために、多くのすぐれた知的能力をもつ経済学者たちが精力的な努力を試み、この分野における貢献は、戦後の経済学の展開においてもっとも重要なものとされている。サミュエルソン、アロー、ハーヴィッチ、デブルュー、ソロー、スカーフ、ラドナーなど、この分野で活躍してきた経済学者は枚挙のいとまがないほどである。

 これに反して、一般均衡理論の経済学的前提条件に光を当て、現実の市場経済の制度的な要因を抽象して理論化しようという試みは、ほどんどなされてこなかったといってよい。

 このような傾向は、戦後、世界の経済学研究の中心がイギリスの大学からアメリカの大学に移っていったことと無縁ではないようである。そこでは一種のプロフェッショナリゼーションともいうべき現象がみられ、現実の問題と関わりのない研究が許されるようになっただけでなく、逆に若い有能な経済学者の興味をそのような研究に向けるということすらおきている。新古典派理論の虚構性に対して真摯な反省を加えるというより、逆に、理論をもともと虚構の世界における演繹的・論理的演算としてとらえてきたともいえる。このことは、デブルューのような公理主義の立場にもっとも端的なかたちであらわれている。(pp111-112)

この部分は、初読のときはピンとこなかったが、今回は身震いするほどの感動を持って受けとった。ぼくが経済学を研究し始めてから抱いてきた感慨そのものだったからだ。ぼくもほぼ同じようなことを、拙著『経済学の思考法』講談社現代新書『世界一わかりやすいミクロ経済学入門』講談社に書いている。宇沢先生が70年代にたどりついていた問題意識に、ぼくもいつの間にか到達していたのだった。

上記の引用における「プロフェッショナリゼーション」という表現は、皮肉・揶揄のたぐいであろうと思われる。経済学者として活動してきてたびたび驚いたのは、経済学を研究している若い研究者には、「信じられないほど頭の良い人たち」がいる、ということだった。これは皮肉や悪口では全くなく、彼らは、本当にとんでもなく頭がいいのだ。そんな彼らは、その知的能力を存分に発揮して、嬉々として難しい経済理論の論文を書き、ベストいくつと称される学術誌にばんばん公刊している。凡人のぼくは、そういう異例に賢い人たちを見るにつけ、羨望と嫉妬を感じる一方、心の中で密かに思うのは、「なんでこの人たちは、数学や物理に行かないのだろう」ということだ。理論的な難しさと面白さが抜群なのは、数学と物理だと思う。何より「意義」がある。そんなに頭が良いんだから、数学や物理でその知的能力を存分に発揮したらいいのに、と。そういう疑問に対してたぶん、彼らは口を揃えてこう言うだろう。「自分は社会現象に関心があるのだ」。でも、そうなると、ぼくの疑問は宇沢先生の上記の言説に舞い戻ってしまう。そう、それならなぜ、彼らは宇沢先生の言う「現実の市場経済の制度的な要因を抽象して理論化」に向かわず、「虚構の世界」で遊んでいるのだろう。それこそ、知的能力の無駄遣い、経済学でいうところの「社会的非効率性」じゃないのかと。

でも、ある意味では理解できるのだ。

宇沢先生のお弟子さんに、サミュエル・ボウルズという非常に優れた学者がいる。彼は、ハーバード・ギンタスと共著で『アメリカ資本主義と学校教育』という大変ラディカルな本を1976年に書いた。宇沢先生のこの本と同じ頃である。この本こそ、まさに、「現実の市場経済の制度的な要因を抽象して理論化」しようという試みであった。でも、その後、ボウルスもギンタスも、「ゲーム理論」の専門家に転向した。宇沢先生のように「けもの道」に分け入らず、舗装された登山道を歩んだ。これを見ると、宇沢先生の上記の言葉はそんなに簡単なことでも、妥当性のあることでもないかもしれないな、とも思う。