ラマヌジャンはどうしてあんな変な数式を思いつくのか?

 今回は、ぼくの新著『ラマヌジャンの数学』ブルーバックスを書いているときに思案した「ラマヌジャンはどうしてあんな変な数式を思いつくのか?」について、つれずれなるままに論じてみようと思う。

その前に、来年2月に、早稲田エクステンションセンターというカルチャースクールで行うレクチャーについて宣伝しておきたい。内容は、以下のようになっている。

開催場所 早稲田エクステンションセンター 中野校

講座名 340701 世界は数でできている

講師名 小島 寛之 

日時  2026年 02月06日~02月20日 金 15:05~16:35 全3回

講義概要 皆さんは、ルート2(2の平方根)やπ(円周率)やe(ネピア定数)などの無理数をご存じでしょう。しかし同時に、これらの無理数は私たちの生活とは無縁なものと思っておられるでしょう。この講義では、これらの無理数が実は、現実世界をつかさどっていることを解説します。例えば、株価は日々、乱高下します。その動きはでたらめのように見えますが、ある程度法則があり、そこに無理数が関わっています。また、火事や機械の故障などの突発的なできごとにも法則があり、ここにも無理数が出現します。このように、無理数は世界を読みとくカギになるのです。最後には、カオス理論という数学の先端理論にも足を延ばします。

(2025年2月に行った同名の講義を少しだけリバイズした講義であることに注意)。詳しくは、下記のリンクを参照してほしい。 

世界は数でできている | 小島 寛之 | [公開講座] 早稲田大学エクステンションセンター

さて、ラマヌジャンの話だ。ぼくの新著ラマヌジャンの数学』では、ラマヌジャンのさまざまな発見を紹介している。

有名なところでは、入れ子平方根

3=\sqrt{1+2\sqrt{1+3\sqrt{1+4\sqrt{1+\dots}}}}

とか、円周率を計算できる無限級数

\frac{1}{2 \pi \sqrt{2}}=\frac{1103}{99^2}+\frac{27493}{99^6} \cdot \frac{1}{2} \cdot \frac{1 \cdot 3}{4^2}+\frac{53883}{99^{10}} \cdot \frac{1 \cdot 3}{2 \cdot 4} \cdot \frac{1 \cdot 3\cdot 5\cdot 7}{4^2\cdot8^2}+\dots

とか、ナゾの5乗和

\frac{1^5}{e^{2\pi}-1}+\frac{2^5}{e^{4\pi}-1}+\frac{3^5}{e^{6\pi}-1}+\dots+\frac{n^5}{e^{2n\pi}-1}+\dots=\frac{1}{504}

などだ。これらの等式のおおざっぱな導出方法は拙著ラマヌジャンの数学』に書いてあるので参照してほしい。

ぼくを含む多くのラマヌジャン・ファンが興味を抱くのは、「ラマヌジャンはいったいどこからこんな奇妙な等式を思いつくのか?」ということだ。裏返していうと、「優秀な数学者たちでさえ、どうしてこのような式を思いつかないのか?」ということでもある。

 これについて一般的に言われているのは、ラマヌジャンが最初に触れた数学書ジョージ・カーという数学者が刊行した『純粋・応用数学基礎要覧』だったから、というものだ。これは2巻本として1880年1886年に出版された。この2巻本は数学の公式を証明抜きで列挙した事典のような本で、6165個の定理が整然と配列されているそうだ。この「証明抜き」というところがたぶんポイントで、ラマヌジャンはそれらの数式の「理屈」を自己流で編み出したんだと想像される。それらの中には「通常の数学的証明」も含まれるけど、多くはそれらから逸脱した「独自の思考様式」だったのではないか。そして、それは言語化不可能なたぐいのものだったのではなかろうか。そのため、ラマヌジャンはハーディに等式の出所を尋ねられたとき、「女神が夢枕にたって教えてくれる」と答えるしかなかったのだろう。音楽家絶対音感があるように、ラマヌジャンには「絶対数感」とでも呼ぶべき何かがあったのだろう。

 「知識」はもちろん、発見のための有力な武器だ。だから、多くの学者は学習と鍛錬によって多くの「知識」を吸収してそれを「五感的な」能力に変換し、研究を発展させる。でも非常に稀だが、「知識の欠如」や「五感的な障がい」がかえって発見に有利に働くことがある。

有名な例では、ベルナール・モランという目の見えない幾何学者の話がある。「目が見えない」と「幾何学」との取り合わせは我々に驚きを与えてくれる。ぼくはかつて、そのことを「文學界」という雑誌に寄稿した「暗闇の幾何学」という村上春樹論に書いた(『数学で考える』、『数学的思考の技術』に所収)。このモランさんは「球形を切り口を入れずに裏返す方法」を考えついたことで知られている。(この裏返し方は、ネットで探すといくつかの動画がアップされている)。「球形を切り口を入れずに裏返す」なんて奇想天外なことをモランさんが考えることができたのは、「外界が見えない」ことがかえって有利に働いたのだろうと思う。つまり、「五感的な障がい」がかえって武器になったというわけなのだ。ラマヌジャンの場合で言えば、「通常の論理的推論の欠如」がかえって特殊な洞察力の源になったに違いない。

同じ路線の話ではないだろうが、ぼくには将棋の藤井聡太さんが想起される。彼は、棋士の中で異次元的と言える「読み」の力を備え持っている。「読み」の速さ・深さ・特異さは例をみないレベルらしい。とても興味深いのは、藤井さんがインタビューの中で「手を読んでいるとき、頭の中の盤面で駒を動かしているか」と問われて、「盤面は思い浮かべてない」と答えたことだ。以前に羽生善治さんが同じ質問をされたときは、「頭の中で盤面が展開していく」と答えていた。藤井さんと羽生さんは明らかに頭の中で「読み」をする様式が異なっている。その証拠に、「盤面を数秒眺めて記憶してもらって、それを駒の置かれていない盤面上に再現する」という実験をしたとき、羽生さんは完全に再現できたのに、藤井さんはちょっと間違ったのだ。

藤井さんは、「それでは頭の中に何を思い浮かべいるのか」という問いに対して、「記号のようなもの」といった感じの驚くべき回答をした。ぼくはそれを聞いて、藤井さんの頭の中にあるのはプログラム言語のような(アセンブラみたいな)記号列じゃあるまいか、と想像した。もしそうだとしたら、それが構築されたのは幼少期の詰め将棋の鍛錬のときだろうと思うのだ。藤井さんが詰め将棋においても異次元的な能力を持っていることは有名だ。詰め将棋選手権ではぶっちぎりの成績で優勝している。彼は幼少期から膨大な詰め将棋の問題を解いて、その能力を開花させたのだ。藤井さんについてのテレビの特集で、藤井さんが子供のときに解いた詰め将棋の解答をノートにびっしりと記録したものを観た。本当に何冊ものノートに詰め将棋の解答が記載されていた。まるでラマヌジャンじゃん、と思った記憶がある。藤井さんはそういう記録をしながらいつしか、「独自の推論の記号化」を編み出したのではなかろうか。

さらに興味深いのは、藤井さんが「将棋AIが示した手を暗記するのか」というような質問をされたときのことだ。彼は「一般化できないかを考える」と答えたのだ!まじでラマヌジャンそのものやん。

この推論が当たっているなら、ラマヌジャンも藤井さんが詰め将棋で培ったのと同じような「独自の推論の記号化」を達成したのではないかと思えてくる。藤井さんが他の棋士たちと何か違う思考様式を持っているように、ラマヌジャンも他の数学者とはまるで違う思考様式を持っているのだと思う。

最後にぼくの経験を書こうと思う。もちろん、ラマヌジャン藤井聡太さんと比肩するなんて気持ちは毛頭無い。逆に、凡人にも小規模ながら似たようなことがある、という意味で話そうとしている。

ぼくは高校生になった頃には、簡単な数学の証明なら理解したり自分でやったりできるようになっていた。ただそれは、中学のときに先生から指南されたからではなかった。中学では普通に文字式の計算や因数分解を教わっただけだった。どうして証明が理解できるようになったかというと、数学書を何冊か読んだからだと思う。あとで気づいたことだけど、ぼくは「どうしてそれが正しいのか」は理解していなかったし、それを問題視したりもしなかった。きっと読んだ数学書に現れる推論規則をそのまま受け入れていたのだと思う。例えば、「AならばB、というのは、AからBが導けることだ」とか、「AまたはBが成り立っていて、Aじゃない、とわかれば、Bを結論していい」とか、「Aでない、を仮定して、いろいろ推論していって、何か矛盾が生じれば、Aを結論していい」とか、数学的帰納法とか、鳩ノ巣原理とかだ。これが証明に出てくればわかるし、自分でも操作できるようになった。「間違った推論」はなんとなく「それは違うな」と気づくようにもなっていた。でも、それは見よう見まねで習得しただけで、「どうしてそれでいいのか」はわかっていなかった。それが理解できたのは、拙著『証明と論理に強くなる』技術評論社を執筆するために50代で数理論理学を猛勉強したときだった。そのときにやっと、「命題が正しいとはどういうことか」とか、「なぜ、数学の推論規則は正しい命題から正しい命題を導くのか」とかをちゃんと理解したのである。つまり、ぼくはいわゆる「伝統的な数学の証明の規則」を読書によって感受し、無批判に(猿まねのように)自分の思考法にしていたことになる。

ラマヌジャンのような天才でなく、普通の凡人であっても、なにかの学習経験で推論の方法を会得するのだろう。そして、たいていの場合は、伝統的な教育を受けるか、伝統的に書かれた本を読むから、伝統的な推論方法を会得するのだと思う。だから、それが「どうして正しい推論なのか」は往々にして気にしていないのだと思う。ラマヌジャンは、伝統的な教育や伝統的な記述の本でないもので勉強した。実際、カーの『純粋・応用数学基礎要覧』を数学者ハーディは全く褒めていない。そのため、それで勉強したラマヌジャンは伝統的な数学の論理的推論においてあたかも「目がみえない」状態になったのだろう。でもそこで奪われた「視力」は逆に別の感覚をもたらしてくれることになったのだ。

 

すごすぎるラマヌジャンのデルタ

新著『ラマヌジャンの数学 無限を掴んだ数学者』ブルーバックスの発売が来週となったので、前回に続いて、もう一度宣伝をしておきたい。

 

今回は、まえがきをさらすことにする。以下のようになっている。

             まえがき

ラマヌジャンは、インドから彗星のようにあらわれた数学者です。英才教育を受けたわけでもないのに、他の数学者が舌を巻くような式を膨大に発見しました。例えば、円周率を計算できる次の式もそのひとつです。

\frac{1}{2 \pi \sqrt{2}}=\frac{1103}{99^2}+\frac{27493}{99^6} \cdot \frac{1}{2} \cdot \frac{1 \cdot 3}{4^2}+\frac{53883}{99^{10}} \cdot \frac{1 \cdot 3}{2 \cdot 4} \cdot \frac{1 \cdot 3\cdot 5\cdot 7}{4^2\cdot8^2}+\dots

左辺は2 \sqrt{2}を掛けて逆数にすれば円周率になりますから、右辺の途中までを計算して、それに2 \sqrt{2}を掛けて逆数にすれば円周率の近似値が得られます。なんと、右辺の第2項までの計算だけで小数第15位まで一致する円周率の近似値が得られます(詳しくは第6章)。この式をどうやって思いついたのかを聞かれたラマヌジャンは「夢で神様が教えてくれた」と答えたそうです。このエピソードを聞くと、ラマヌジャンが「数学の魔法使い」のように思えます。そのせいか、ラマヌジャンの数学史上の扱いは「異端の数学者」というものでした。果たして本当にラマヌジャンは「異端の数学者」なのか? この本の目的は、数学者ラマヌジャンの実像に迫ることです。

ラマヌジャンは自分の見つけた数式を日記のようにノートに書いていました。本当にそれはまるで日記で、つれづれなるままに記され、膨大な量にのぼります。中にはよく知られた数式も混じっていますが、多くは数学者たちがそれまで目にしたこともない類いのものでした。誰かに説明するために書いたものではないので、証明も導出のプロセスもなく、他の数学者にとってさえも真偽不明で奇々怪々な数式たちでした。それはラマヌジャンが伝統的な数学教育を受けず、また当時のインドが数学文化から隔絶した状態にあったことに起因したのでしょう。しかし、イギリスの数学者ハーディは、ラマヌジャンから手紙で送られてきた数式たちを一目見ただけで、それが尋常ならざるものであることを看破し、ラマヌジャンをイギリスに招聘しました。その後、ラマヌジャンの数式たちは多くの数学者を魅了することになります。

とりわけ、ラマヌジャンが愛した2つの保型形式(\DeltaF)は、ラマヌジャン予想という魅力的な予想を生み出し、それが数学の大きな進化を促しました。本書は、そのラマヌジャン予想を主たるテーマとして、それにまつわる保型形式・ゼータ関数オイラー積・楕円曲線・モジュラー曲線などをできる限り易しく解説することを目指しました。それらの理解に必要になる複素数、モジュラー変換、フーリエ級数などのアイテムも、一般の読者が読み進む上で高い壁にならない程度に準備しています。

本書の構成は次のようになっています。序章でラマヌジャンの数奇な生涯を描きます。第1、2、3章では彼の初期の発見である、高次合成数、分割数、発散級数をそれぞれ説明します。第4、5章では、50年以上にわたって数学者を虜にした「ラマヌジャン\Delta」に関するラマヌジャン予想について一般の読者にもわかるように解説します。第6、7章では、ラマヌジャンが夢中になって研究した保型形式というものが何であるかを初歩から解説した上で、保型形式「ラマヌジャンF」と楕円曲線との深遠な関係をお見せします。クライマックスの終章では、ラマヌジャン予想を解決する数学者たちの悪戦苦闘が、結果的にフェルマーの最終定理の解決に結びついた、その道程を概説します。この終章を読めばラマヌジャンが異端の数学者どころか、数学を変革した立役者のひとりであることがわかってもらえることでしょう。

それでは、ラマヌジャンの数学がどのようなものだったのか、彼の残した数式をもとに、その思考と発想の奇跡を見ていくことにしましょう。

ここで「ラマヌジャン\Delta」というのは、1916年の論文に現れる次の関数のことだ。

\Delta=q(1-q)^{24}(1-q^2)^{24}(1-q^3)^{24}\dots(1-q^k)^{24}\dots

この式をqの(無限次の)多項式として展開して、q^nの係数を\tau(n)と定義する。すなわち、

\Delta=\tau(1)q+\tau(2)q^2+\tau(3)q^3+\dots+\tau(n)q^n+\dots

この数列\tau(1), \tau(2),\tau(3), \dotsが、あまりにもすばらしすぎる性質を備えていることをラマヌジャンは見抜いたのだ。

例えば、\tau(2)=-24\tau(3)=252\tau(6)=-6048に注目してみよう。-24\times252=-6048となっている。つまり、\tau(2)\times\tau(3)=\tau(2\times3)が成立している。もうひとつ確認してみよう。\tau(3)=252\tau(7)=-16744\tau(21)=-4219488に対しても、\tau(3)\times\tau(7)=\tau(3\times7)が成り立っているのだ。ラマヌジャンは、一般にabが互いに素のときに、\tau(a)\times\tau(b)=\tau(ab)が成り立つと予想した。面白いことに、互いに素でないときには成り立たない。例えば、\tau(2)=-24\tau(4)=-1472\tau(8)=84480からそれはわかる。じゃあ、何も関係性はないのかというと、もっと驚くべき法則が潜んでいることを彼は見抜いたのだ。それは、引き算をしてみればわかる。すなわち、\tau(2)\times\tau(4)-\tau(8)=-49152となるのだが、-49152=2^{11}\tau(2)となる。これは偶然ではなく、任意の素数pに対して次の法則が一般に成り立つのだ。\tau(p^{k+1})=\tau(p)\tau(p^k)-p^{11}\tau(p^{k-1})

無限次多項式\Deltaの係数をいじっていれば、ラマヌジャンならすぐにこれらの法則を見抜いたことだろうとは思うが、問題はどうして\Deltaという式をいじったか、ということだ。とりわけ、「24乗」というのは一体何なのだろう。今回の本を書くにあたって、ぼくはこの「24乗」がどこから来たのかを一生懸命調べた。わかったことは、ラマヌジャンが唐突に\Deltaを思いついたのではなく、オイラーデデキント、ヤコビと続く研究から由来する、ということだった。どういうことかはぼくの新著『ラマヌジャンの数学 無限を掴んだ数学者』で読んで欲しい。

ラマヌジャンはこれらの法則を見抜いただけで、厳密な証明はしていない。しかし、これらの法則を駆使して、ラマヌジャンゼータ関数

\frac{\tau(1)}{1^s}+\frac{\tau(2)}{2^s}+\frac{\tau(3)}{3^s}+\dots

が「2次のオイラー」を持つことを発見した。これは、オイラーの発見を真に拡張する(超える)ものだった。奇跡的な発見としかいいようがない。上記の2つの法則を翌年1917年にモーデルが証明することで、2次のオイラー積の成立も一緒に解決された。

一方ラマヌジャンは、同じ論文で評価式、|\tau(p)|<\sqrt{p^{11}}、も予想している(ただし、p素数)。この不等式の証明は困難をきわめ、「ラマヌジャン予想」と呼ばれる難問となった。解決にはおよそ60年の歳月とグロタンディークによる代数幾何学の革新が必要だったのだ。この本を書くにあたって、ぼくはそのあたりの経緯を理解することにチャレンジした。ラマヌジャンに端を発する数学の進化はエクサイティングそのものだった。ぼくの興奮が新著から伝わってほしいと願っている。

新著『ラマヌジャンの数学』が刊行されます!

ぼくの新著『ラマヌジャンの数学 無限を掴んだ数学者』がもうすぐ刊行されるので、宣伝したい。

この本は、数学者ラマヌジャンの業績を多面的に紹介する内容となっている。ラマヌジャンは、インドから彗星のように現れた数学者だが、その業績はあまり正当には評価されていないように思う。かくいうぼくも、80年代に学部の数学科で勉強していたが、ラマヌジャンのことはほとんど知らなかった。講義でも紹介されたことはほぼ無かったように思う。なのでこの本では、ラマヌジャンの発見した数学への正当な評価が一般の数学ファンに少しでも広がることを目指した。

ぼくがラマヌジャンに興味をもつきっかけとなったのは、数学者の黒川信重さんと共著を作成する過程で、黒川さんのラマヌジャンに関する本を勉強したことだった。そこでぼくは、ラマヌジャンの数学が「フェルマーの最終定理」の解決のきっかけとなったことを知ったのだ。ぼくが数学に目覚めたきっかけは、中学生のときに「フェルマーの最終定理」に出会ったことだった。だから、このことは衝撃だった。「フェルマーの最終定理」が解決したとき、ぼくはその報道に関わった。そのときの取材で、楕円曲線と保型形式がカギであることを理解した。また、フライ曲線という特殊な楕円曲線が重要であることもわかった。でも、それらの出発点が「ラマヌジャン\Delta」「ラマヌジャンF」と呼ばれる保型形式であることまでは知識が及んでいなかった。黒川さんの本で勉強して、今頃になって、その事実を知ったのである。だから、ラマヌジャンの数学 無限を掴んだ数学者』ではこのことをメイントピックに据えたのだ。

今回はまず、目次をさらしておこう。以下のようである。

まえがき

序章:数奇な運命をたどった数学者ラマヌジャン

第1章:初等的とはいえ、きわめて独創的

第2章:ラマヌジャンと分割数

第3章:ラマヌジャンゼータ関数

第4章:ラマヌジャン\Deltaと2次のオイラー積の発見

第5章:リーマン予想ラマヌジャン予想

第6章:ラマヌジャンの愛した保型形式

第7章:保型形式と楕円曲線の奇跡の関係

終章:ラマヌジャンがいたからフェルマーの最終定理が解決した

あとがき

これらのラインナップの中から、序章で解説したラマヌジャンの公式を紹介しよう。それは、次のような「入れ子平方根」である。

\sqrt{1+2\sqrt{1+3\sqrt{1+4\sqrt{1+\dots}}}}

ラマヌジャンは自分の発見した膨大な数の式を日記のようにノートに書いていたが、これは『第1ノート』の第14章に書かれている(ラマヌジャンの自筆ノートを掲載しているサイトのchapterXIVの左側のアイコンをクリックすれば観ることができる)。第1ノートだから初期の結果で、1911年以前(24歳になる以前)に発見したものだ。なぜなら、「この数値がいくつであるか?」という問題を1911年の『インド数学協会誌』で出題しているからだ。解答は「3」なのだが、読者は誰も解けなかったそうである。さもありなんで、これは平凡な発想では解けない。ラマヌジャンの非凡な解答法は拙著で読んでほしい。解法自体は優秀な中学生なら理解できる。

実はぼくはこの問題(入れ子平方根)はかなり昔から知っていた。1985年刊行のニューマン『数学問題ゼミナール』シュプリンガーに掲載されていたからだ。当時アルバイトしていた塾の中学生向けの教材にラマヌジャンの問題として入れた記憶がある。ニューマンの本にはラマヌジャンの発見とは記されていないので、ラマヌジャンの結果だと知ったのは、別の本か友人から教えてもらったのだろう。ちなみに前掲のニューマンの問題集は現在は版切れみたいだが、初等的な問題なのに傑作揃いなので、中高の数学教員の皆さんはどこかで入手して利用したらいいのではないかと思う。

最後に、ぼくがラマヌジャンについて学んだ黒川さんの本の1冊にリンクをはっておく。

 

緑地と文化ー社会的共通資本としての杜

今回は、石川幹子『緑地と文化ー社会的共通資本としての杜』岩波新書を紹介しよう。

この本は、神宮外苑の再開発事業において、樹林の伐採が行われたことに対して、反対の意を唱え、その理由を明確に提示した書である。ちなみに「杜」は「もり」と読む。

序章「問題の根源はどこにあるのか」において、著者がまずこう始めている。

2024年10月、神宮外苑において文化資産である樹林地の伐採が強行された。「神宮外苑地区市街地再開発事業」によるものであり、施行を許可したのは、東京都である。都市計画公園明治公園が、3.4ヘクタール削除され、現在の秩父宮ラグビー場神宮球場を取り壊して超高層ビルを建設し市街地とするための再開発事業が開始された。

このことを著者がなぜ問題視しているかということを前書きから引用すると次のようである。

明治神宮内苑・外苑の杜は、伊勢神宮における内宮と外宮の伝統を踏まえ、連絡道路(裏参道)で結び創り出された世界にも類例を見ない「社会的共通資本としての緑地」である。本来、文化を護り育てていく使命を有する東京都が、市民の預かり知らぬところで、様々な制度をつくりだし、国際記念物会議や国連人権委員会からの警告さえも無視し、事業者が白昼堂々と樹林を切り倒し、文化遺産を破壊することが、何故、可能となるのであろうか。ほかならぬ神宮外苑で、このような破壊行為が合法化されれば、全国の公園緑地は、その歴史的・文化的意味が抹殺され、市街化の波の中に消えていくこととなる。

ここに登場する「社会的共通資本」という専門用語は、ぼくの師匠である宇沢弘文先生が創出した思想概念だ。ぼくは、『シン・経済学~貧困、格差および孤立の一般理論』帝京新書や宇沢弘文の数学』青土社でこの概念について詳しく解説しているので、読んでみてほしい。このブログでも、こことかで解説している。

東京都の再開発の意図はなんだろうか。著者によれば、

何のために、百年前に創り出された「公衆の優遊の場」が複合市街地と化するのであろうか。東京都は次のように回答している(「神宮外苑地区まちづくりを進める意義等について」2023年4月14日)。

①老朽化したスポーツ施設を更新し、世界に冠たるスポーツクラスターをつくる。

②歩行者ネットワークを強化し、新たな複合型のまちづくりを推進する。

③広域避難所としての防災性を高める。

これらの「目的」に対して、著者は次のように反論している。

①のスポーツクラスターの整備は、2014年7月に、サブトラックの建設が困難とされ、すでに頓挫している。かわって登場したのが②の複合型まちづくりであったが、外苑は市街地ではなく公園であり、論理は当初より破綻していた。超高層ビルの建設により、昼間の人口が増大し、一人当たりの避難有効面積も減少するため、③の広域避難場所の機能は大きく損なわれる。公的機関である東京都が目標を理路整然と説明することができないという、危機的現実が横たわっている。

このように地方自治体の説明が二転三転するときは一般に、その背後にある思惑が「私的利益の創出への加担」である。公共的利益が本願でないから、「理屈」が変容するわけだ。

ぼく自身は、自然環境第一派ではない。アウトドア・レジャーは嫌いだから、一切行かない。文明の利器の恩恵に浴して暮らしていたい。それでも、卒業した大学のキャンパスの樹木や池や並木道は好きだったし、勤務する大学のキャンパスの桜などの木も嬉しい。生活空間の中の緑地には、知らず知らずのうちに効用を得ているのだと思う。

また、通っていた高校が御徒町にあったため、住んでいた日暮里まで歩いて帰ることがときどきあった。そのとき、上野公園を歩くことは気持ち良かったし、都美術館や科学館や国立博物館にも寄り道したこともあった。これは高校生としてはリッチな経験だったと思う。

そんなこんなで、自然環境を有無も言わさず守るべきだという傲慢な環境派には与しない一方、自分の都市緑地に関する嗜好も押しつけるつもりはない。ただ、この著者の言うことはとてもよくわかる。東京都の再開発計画は、どう割り引いても、公益のためにではなく、私的利益の誘導に思えるからだ。

経済が不況に陥ると、たいていの場合、「公的領域の私的利用化」が行われる。要するに、「公共財」というみんなが目に見えない形で効用を得ている存在を、私的財に変換して、目に見える金銭的な利益(言ってみればGDP)を生み出そうとするのである。

現在の日本経済の低迷は、金持ちがその金銭欲のために購買力を消費に回さず資産に積み立てるために起きている。しかし、その不況による被害を最も被っているのは資産を持たない貧困者だ。にもかかわらず公的部門が、公共財を私的財に変換して金持ちの懐を暖め、貧困者から公共財の生み出す効用を奪いとるのであれば、それは反社会的な所業というしかないだろう。

著者は、神宮外苑の価値について、次のように語っている。

誕生した神宮外苑の最大の特質は、日本に存在しなかった「広場」を中央に創り出したことにある。陽光の降り注ぐ芝生に深い緑陰を落とす疎林が配され、林間を流れる小川に沿って、絵画館、音楽堂が計画され、四列のイチョウ並木は堂々たるエントランスとして植栽された。

そう。「広場」という言葉は、日本では特別な意味を持たないが、本当は重要な概念なのだ。宇沢先生の下で勉強していたとき、ルドフスキー『人間のための街路』を輪読した。この本には、「広場」の意義が大きく扱われている。ヨーロッパ社会において「広場」は重要な意味を持っていた。それは、市民の憩いの場であり、露天商の市場であり、野外演劇場であり、集会の場でもあった。非常に多様な機能を持っている、ということなのだ。

神宮外苑という「広場」もそういう意義を備えていたであろう。それを「私的財」として払い下げることになれば、それは単なる「単一機能」の資本と化し、金銭では評価できない大きな損失を生み出すことになる。

本書『緑地と文化』は、古地図や写真がふんだんに掲載された、東京の都市としての歴史を知ることができる本だ。読むだけで楽しい。だから、再開発に賛成でも反対でも是非読んで欲しい本である。

 

 

 

 

全微分公式を正当化する数学

微分にまつわる公式の中で、「全微分公式」というのがある。

df=\frac{\partial f}{\partial x}dx+\frac{\partial f}{\partial y}dy \dots(1)

みたいなやつだ。ちなみに、\frac{\partial f}{\partial x}関数f(x, y)x方向の微分係数を意味しており、いわゆる「偏微分」である。この公式を教える人にはいろいろな立場がある。「形式的な表現にすぎない」とか、「微小量での近似公式を無限小で理想化したもの」など。

せっかくだから、物理学者の畏友・加藤岳生さんの近著電磁気学入門』裳華房を眺めてみた。最初の章「電磁気学を理解するための大事な一歩」の「A.スカラー場とベクトルの微分」のところに解説してある。その説明では、微小量\varDelta x,\varDelta yに対する関数f(x, y)変化量の近似公式

\varDelta f \simeq\frac{\partial f}{\partial x}\varDelta x+\frac{\partial f}{\partial y}\varDelta y \dots(2)

の極限として説明している。この近似公式は、z=f(x, y)の3次元グラフ上の1点において、曲面を微小な平面(平行四辺形)と見なせば、簡単に出てくる式である(知らない人は拙著『ゼロから学ぶ微分積分講談社勉強してほしい)。大学の微積分のほとんどの教科書はこのように説明しており、また、それで問題はないし、読者もそういうふうに理解すれば良い。実際、ぼくの書いた教科書『ゼロから学ぶ微分積分講談社でもそう説明している。ただ、用心深い人、疑り深い人、頭が厳密な人は、「(1)式は等式やん。近似式(2)を等式に書き換えるのはインチキやん」と思うことだろう。加藤さんは、脚注に「実際、この方針で全微分公式を厳密に証明できます」と書いているけど、「この方針」というのは、たぶん、多変数のテーラー展開のことを言っているのかなと推測されるが、そもそも「記号dfの定義」「等号の定義」がきちんとなされていないのだから、どうやって「厳密に証明」するんだろうといぶかってしまう。

ここまで加藤さんの電磁気学入門』をまるで批判してるっぽく書いてしまったので、そんなことないよ、ということを付記しておく。この本もいつもの加藤さんの本と同じで、非常に良く書けており、「電磁気学を勉強したいならまずこの本」と押せる本だ。この本が工夫されているのは、使う数学を最初の章でまとめて解説し、そのあとに静電場、電流、静磁場、電磁誘導、マクスウエル方程式、という順にアイテム別に講義する形式となっているところだ。これなら、「数学と物理を同時並行的に学ぶ」という多くの学習者が溺れ死ぬちゃんぽん地獄に落ちなくて済む。 

話をもとに戻すと、ぼくは非常に長い間、全微分公式を「単なる形式的なもの」で、「ちゃんとした等式ではない」と思い込んでいた。それが最近になって、そうじゃないことを知ったのだ。それは、小木曽啓示『代数曲線論』朝倉書店を読んだときだった。この本については、このエントリーで紹介しているので読んでほしい。『代数曲線論』では、「微分公式がちゃんと等式となっている」のだ。それは「微分形式」という概念による。そこで大事になるのは、線形代数における「双対空間」というものだ。双対空間というのは、「実数上(複素数上)の線形空間から実数(複素数)への線形写像たちを線形空間と見なしたもの」で、元の線形空間と同型になる。ぼくは遠い昔に線形代数を勉強したとき、この双対空間がいったい何の役にたつのか、といぶかってたけど、今になって「ここで役に立つんか!」と膝を打った次第。

しかし、小木曽さんの本では微分形式の説明がスピーディすぎて頭に入ってこないので、若い頃に購入して読んでなかったスピヴァック『多変数解析学(斎藤正彦・訳)東京図書を数十年ぶりにひもといた。そうしたら、なんと!この本はとても良く書けており、微分形式をけっこうな程度で理解できてしまったのだ。どうして理解しやすかったのかというと、この本では、第4章「鎖体上の積分」という章で、「テンソル積」「交代テンソル」などの線形代数を十分に準備したあとに、微分形式の説明をしているからだ。しかも、その説明がとんでもなくクリアカットなのだね。しかし、ここでは、この全体を説明するわけにはいかないから、「微分をどうやったら、きちんとした等式として定義できるのか」にしぼって解説する。

 まず、1変数の微分を解釈し直すことから始めよう。y=f(x)微分可能であるとは、極限

\lim_{h\to 0}\frac{f(a+h)-f(a)}{h}

がある数\alphaに収束することだ。この\alpha微分係数f'(a)と定義される。この定義を次のように書き換えることができる。

\lim_{h\to 0}\frac{f(a+h)-f(a)-\alpha h}{h}=0を満たす1次関数\alpha(h)=\alpha h が存在すること」。

(ここでは、関数記号と比例定数を同じ\alphaと記述してる)。このように微分可能性の定義を1次関数を用いて行うことは2変数以上になると大きな効力を発揮する。例えば、2変数関数f(x. y)微分可能性

\lim_{|(u, v)|\to 0}\frac{f(a+u, b+v)-f(a, b)-\lambda (u, v)}{|(u, v)|}=0を満たす2変数1次関数\lambda (u, v)が存在すること」

と定義される。ここで、2変数1次関数\lambda (u, v)とは、\lambda (u, v)=\alpha u+\beta vという形式の関数で、|(u, v)|はベクトルの長さ\sqrt{u^2+v^2}のこと。スピヴァックでは、この2変数1次関数\lambda (u, v)=\alpha u+\beta vを「導値」、その係数を抜き出したもの(\alpha, \beta)を「ヤコビ行列」と呼んで、 f'(a, b)=(\alpha, \beta)と記している。上記の極限では点 (u, v)をどう近づけてもいいわけだから、v=0として近づければ、x方向の偏微分となり、\lambda (u, v)=\alpha u+\beta vについて、\alpha=\frac{\partial f}{\partial x}がわかる。同様にして、\beta=\frac{\partial f}{\partial y}となる。スピヴァックの本では、次のことを証明している。すなわち、

f(x,y)微分可能のとき、2変数1次関数\lambda (u, v)は唯一である。また、(a, b)において偏微分係数\frac{\partial f}{\partial x}\frac{\partial f}{\partial y}が存在し連続なら、f(x,y)(a, b)において微分可能となり、\lambda (u, v)= \frac{\partial f}{\partial x}  u+\frac{\partial f}{\partial y} vとなる。

この定理のスピヴァックの証明は非常にみごとであり、一読の価値がある。

以上の準備をもとに、いよいよ全微分の「等式化」の説明に入ろう。大事なことは、微分微分係数偏微分係数として理解するのではなく、(1変数ないし多変数の)1次関数、つまり、線形写像として理解する、ということだ。

いま、点(a, b)を始点とする2次元ベクトル(u, v)の作る線形空間Vを考える。この線形空間Vから、実数への線形写像k(u, v)=pu+qvという2変数1次関数となる。このような線形写像は、k_1(u, v)=p_1u+q_1v, k_2(u, v)=p_2u+q_2vに対して、和k_1+k_2と実数倍rk_1をそれぞれ、(k_1+k_2)(u, v)=(p_1+p_2)u+(q_1+q_2)vrk_1(u, v)=rp_1u+rq_1vと定義することで、線形空間V^{*}となる(これが双対空間と呼ばれる)。線形空間V^{*}の基底は、明らかに、e_1(u, v)=ue_2(u, v)=vである。なぜなら、任意のk(u, v)=pu+qvpe_1(u, v)+qe_2(u, v)と表されるからだ。

ここで微分(導値)というのが2変数1次関数\lambda (u, v)だったことを思い出そう。つまり、これは線形空間V^{*}の要素になっている。この線形写像スピヴァックの本ではdfと定義している。上で説明したように、\lambda (u, v)= \frac{\partial f}{\partial x}  u+\frac{\partial f}{\partial y} vだから、df(u, v)= \frac{\partial f}{\partial x}  u+\frac{\partial f}{\partial y} vということだ。

特に、f(x,y)=x、つまり、x座標を抜き出す関数を考えれば、df(u, v)= \frac{\partial f}{\partial x}  u+\frac{\partial f}{\partial y} v=1uという線形写像だ。この線形写像dxと記すのが自然だ。すなわち、dx(u, v)=uである。この線形写像はすぐ上で考えた基底e_1(u, v)そのものだ。同様に、dy(u, v)=vで、基底e_2(u, v)となる。したがって、f(x, y)微分を意味する線形写像\lambda (u, v)= \frac{\partial f}{\partial x}  u+\frac{\partial f}{\partial y} vdf= \frac{\partial f}{\partial x}dx+\frac{\partial f}{\partial y}dyと書き換えることができるわけだ。これは「ちゃんとした等式」となっている。ただし、両辺ともに線形空間V^{*}の要素であり、この線形空間での等式となっていることに注意しなければならない。もう少し詳しく言えば、「両辺の線形写像でベクトル(u, v)写像した結果が任意のベクトルについて一致する」という意味での「等式」なわけだ。このように線形空間V^{*}で解釈し直すことで、全微分は「ちゃんとした等式」なのだ、と理解することが可能となる。

スピヴァックの本は、この準備の下で、高次元のストークスの定理

\int_{C}d \omega=\int_{\partial C}\omega

を証明している。(ここで、\omegak形式 f dx^{1}\wedge dx^{2}\dots\wedge dx^{k})。前述した通り、スピヴァックの本では「テンソル積」「交代テンソル」などを丹念に準備してくれているおかげで、定義そのものが難しいk形式についてのこの見事な定理を、たいしたストレスなく理解できる。ちなみに電磁気学ではストークスの定理は重要らしく、加藤さんの電磁気学入門』にも登場する。「アンペールの法則」で出てくるみたいだが、電磁気学に全く興味がないぼくはあんまり真面目に読んでない(笑)。

 

鬼門だった国際経済学を克服できた

ぼくは、経済学者としての本業はゲーム理論、とくにその中の意思決定理論という分野だ。査読付きの国際学術誌に公刊した論文はすべてこの分野。でも、経済学の教員という仕事の上では、いろいろと知識がなくてはいけなくて、いろいろと勉強した。ミクロ経済学、契約理論、マクロ経済学統計学計量経済学などなど。どれも「薄く」だけどそれなりに理解して講義に活かした。

でも、ひとつだけ鬼門があって、それが「国際経済学」だった。これがどうにも腹オチしなかった。けっこう、いくつもの教科書を勉強した。例えば、伊藤・大山『国際貿易』、浦田・小川・澤田『はじめて学ぶ 国際経済』、そしてクルーグマン他『クルーグマン国際経済学』まで。でも、どれを読んでも勘所がよく掴めなかった。たぶん、その原因は、どの教科書でもアイテム別に解説されていたからだと思う。「為替」「資本」「金利」などが別個の章で扱われるので、それらの相互の関係がこんがらがってしまう。そもそも国内の2種類の市場での話とどこが違うのかが判然としなかった。

そんな中、最近、前から買ってあって読んでなかった小野善康『国際マクロ経済学岩波オンデマンドを初めてひもといた。その動機は、例の「トランプ関税」だ。これが何を意味し何をもたらすかを推測するには、鬼門だと逃げていないで国際経済学を学ぶしかない、と腹をくくった。

そうして読んでみたら驚いた。なんということか、とてもよくわかる。これはものすごい名著だと気づいた。面白くて、結局、300ページ以上あるこの本を読破してしまった。最初からこの本に取り組むべきだった。

このブログをよく読んでくれている人はこう言うことだろう。「また、小野善康かい」と。それはわかる。ぼくは小野さんのマクロ経済学に心酔していることを何度も書いた。「小野教」という宗教の信者としてまた布教しているんかい、と笑っているんじゃないかと思う。まあ、そういう一面があることは否定しない。実際、この本をスルスル理解できたのは、小野さんのマクロ理論をちゃんと理解した経験があるからだ。でも、それを割り引いても、この本の優良さは余りある。「信心」がなくても、この本は勉強に値する。

ぼくが国際経済学をこの本で克服できたのは、先ほど言った「為替」「資本」「金利」などの相互の関係が、ひとつのモデルの中で記述されているからだ。しかも、ちゃんと動学モデルにおける通時的最適化の結果として与えられるからだ。もちろんそれだけに、この手のモデルに慣れていない人には障壁が高いと思う。経済学の専門家でない人は経済学の数理モデルの簡単なものを勉強してからにすべきだ。でも、経済学の専門家でぼくのように国際経済に苦手意識のある人は是非、この本を勉強してみてほしい。

第1章「伝統的な国際マクロ経済学」では、古典的なマンデル・フレミング・モデルやドーンブッシュ・モデルを解説している。でもここは読まなかった。不備のあるモデルを勉強しても仕方ないからだ。

第2章「国際経済の構造と家計・企業行動」は、経済主体のミクロ的基礎付けを解説している。ここでいつものように、流動性プレミアム(貨幣のもたらす効用)が導入される。これは小野理論に固有のものであり、(たぶん)国際経済に共通のものではない。そのあと「時間選好率」について、ケインズ・ラムゼー公式を導くが、いつもとはちがって、瞬間的限界変換率(変分原理)を使っている。この章で国際マクロモデルにとって重要になるのは、為替についての次の式だ。

R=\frac{\dot{\varepsilon}}{\varepsilon}+R^{*}

この式は、円建て資産の金利(R)が、ドル建て資産の金利(R^{*})に為替レート\varepsilon[円/ドル]の単位時間あたりの変化率\frac{\dot{\varepsilon}}{\varepsilon}を加えたものであることを意味する。なぜ成り立つかというと、「1円を円建て資産で運用してもドルに替えてドル建て資産で運用しても収益は同じになる」という均衡条件だからである。日本の金利よりアメリカの金利が高い場合、つまりこの等式でRよりR^{*}が大きい場合、\dot{\varepsilon}が負となり、円が高くなっていく。マスコミなどにはこの式を「逆」だと感じる人が多い。なぜなら、アメリカの金利が日本のそれより高く、その差がさらに開くと、ドル高・円安になるからだ。テレビニュースなどでは、「日本からアメリカに資金が移動した」と説明する。しかし、この等式が説明しているのは、「金利が開いた瞬間」のことではなく、「その後の動き」のことだ。もしも、「その後に円高になる」ことがないのであれば、円での運用はドルでの運用に「完全に」不利であり、だれも円を保有しなくなる。「その後に円高になる」のであれば、円での運用は金利に為替での収益が加わることで、ドルでの運用と同じ水準になり、バランスがとれるのである。ぼくもこのことを理解するのに苦労した。

第3章「2国経済の市場均衡経路と閉鎖体系での不況過程」では、主に、小野不況動学の基本的解説が行われる。すでに小野不況動学に馴染みのあるぼくはこの章は流し読みで済ませた。小野不況理論についての簡易的な解説は、

資本主義の方程式 - hiroyukikojima’s blog

を参考にしてみてほしい。あるいは、拙著『シン・経済学』帝京新書を読んでもらうのも良いと思う。

第4章「2国貨幣経済の経済動学」が本書の最も基本となる章である。まず、動学的に主体的均衡が解かれ、その後に市場均衡が解かれる。J国の変数を普通の小文字アルファベットで、A国のそれをアスタリスク付きアルファベットで表しており、フローの予算制約式(自国)は、

\dot{a}=ra+wx-c-Rm

であり、A国はこれにアスタリスクをつけたものとなる。この予算制約式は小野さんのどの本にも共通(というか動学マクロの定番)なので例えば『金融』岩波書店で勉強してほしい。J国のストックの予算制約は、a=m+b、A国のはこれにアスタリスクを付けたもの。さらに、J国の家計の最適化行動は、

\rho+\eta(c)(\frac{\dot{c}}{c})+\pi=\frac{v'(m)}{u'(c)}=R

であり、A国のものはこれにアスタリスクをつけたものになる。これも基本の式で、第2章で解説されているが、『金融』の解説のほうがわかりやすい。

2国の市場調整で重要なのは、購買力平価PPP(Purchasing Power Parity)の仮定だ。これは「同一の商品は為替を通じて同じ価格になる」という性質である。これはJ国の物価をP、A国の物価を P^{*}として、次の式になる。

P=\varepsilon P^{*}

この式の両辺の対数をとって時間微分すれば、\frac{\dot{P}}{P}がインフレ率\piとなることから、

\pi=\pi^{*}+\frac{\dot{\varepsilon}}{\varepsilon}

この式を上で書いたR=\frac{\dot{\varepsilon}}{\varepsilon}+R^{*}から引き算すれば、R-\pi=R^{*}-\pi^{*}が得られ、これの両辺は実質金利(物価の影響を除去した利子率)になるから、

r=r^{*}

が得られる。要するに、PPPの仮定の下では実質的な意味では資産運用の差はない、という(当たり前と言えば当たり前の)結果が出てくる。まあ、市場調整というのはそういうものだが、これぞ経済学の醍醐味とも言える。これらから、完全雇用成立条件と失業発生条件を導く。

第5章「対外資産の国際的分布と失業の可能性」では、J国の対外資保有bに対応して、両国で失業や完全雇用がどのような組み合わせで発生するのかが検討される。要約すれば、対外資産が大きく偏在していれば、大きな対外資産を抱える国は失業に直面し、大きな負債を抱える他方の国は完全雇用を実現する傾向がある、という結論が導かれる。このとき、失業を抱える豊かな国から完全雇用にある貧しい国への資金援助は、援助を受ける国だけではなく、援助を与える国でも消費が増え、景気に良い効果を持つことが示される。これはとんでもなくパラドキシカルに見える性質だが、小野不況理論を理解していれば「なるほど」なものである。

第6章「マクロ経済政策の効果」では、政府部門を導入して、最適化を再構築したあと、経済政策の影響を分析する。経済政策とは、財政支出と貨幣的拡張政策だ。その中でさらに、資産がドル預金、インデックス・ボンド、ドル債券の3種類の場合分けで分析する。これらの場合分けにおいて、それぞれに違いが生じることには驚かされる。

第7章「為替管理と内外価格差」では、為替介入について論じる。そして、不胎化政策をともなわない為替介入でも、実質対外資産に瞬時的変化が起こらなければ国際波及効果はないことが示される。この辺こそが、経済学者と政治家との認識の違いであろう。

第8章「資本蓄積と経済動学」では、実物資本を導入して、資産蓄積について分析する。第9章「2財モデル」では、この後の章のために、J国とA国で異なる財を生産している場合のモデル化を行う。そして、第10章「2財経済におけるマクロ経済政策」を再構築をする。

ぼくにとって最も面白かったのは、次の2章だ。

第11章「貿易政策」では、2財モデルをもとにして関税の効果の分析を行っている。この章末の「まとめ」から引用しよう。

ある国が外国財輸入に関税をかけると、輸入が減少して経常収支が黒字となる。第9章で明らかにしたように、両国が失業状態にあれば、外国財の相対価格の上昇は自国の経常収支を悪化させるため、輸入関税によって黒字になった自国経常収支の均衡回復のために、自国通貨の価値が瞬時的に下がって自国財の相対価格を下落させる。これが自国財の需要を引き上げ、雇用とともにそのインフレ圧力によって消費も上昇する。一方、外国財価格は相対的に高くなるため、外国では雇用が低下し、それによるデフレ圧力によって消費も冷え込んでしまう。

このように輸入関税は、自国財の需要を増加させて雇用を引き上げると同時に、外国財への需要を引き下げる効果も持っており、そのため外国の雇用を悪化させる近隣窮乏化政策となる。

他方、両国が完全雇用であれば、伝統的貿易理論が示すように、輸入関税は外国財の輸入を抑えることによって自国財の相対価格を引き上げ、公益条件が有利化することによって所得が増大し、消費全体が増加する。反対に外国では交易条件が不利化するため、消費は減少する。

このように、雇用状態に関わらず、輸入関税は自国を有利にするが、そのメカニズムはまったく異なる。失業のもとでは自国財の価格が下落して雇用が増大し、消費が増えるが、完全雇用のもとでは自国財価格が上昇することによって収入が増え、消費が増えるのである。

最後の第12章「固定相場制のもとでの景気」も、すごくためになった。固定相場制と変動相場制を同じ構造のモデルで比較することによって、その性質がよくわかる。

 

 

 

 

 

D加群と触れあえる本

柏原先生がアーベル賞を受賞した。数学の伝統的な賞であるフィールズ賞は日本人3人が受賞しているけど、賞金額がノーベル賞に匹敵するアーベル賞は日本人では初めてなので大変めでたいことだ。

受賞理由は「D加群という理論を構築し、数学の新しい道を切り開いた」とのこと。さて、「D加群」とはなんだろうか。今回は、それと「触れあえる」本を紹介しよう。あくまでも「触れあえる」だけで理解できるとは言ってないことに注意してほしい。

紹介する本は、堀田良之『加群十話』朝倉書店だ。この本は奇遇にもつい最近読んだ。動機は、代数幾何コホモロジーの理解のためには加群は避けて通れないから。

このところ、ぼくは新しい本を執筆中で、その作業が佳境に入っているので、ブログをじっくり書く時間がとれない。それで今回のこの本の紹介は簡易的なものにしたいと思う。詳しい説明は、余裕ができたら書きたい。

この本は、「加群」のことを啓蒙的に説明する本だ。ただし、前提知識はめちゃくちゃムラがあって、丁寧に解説しているところもあれば、かっとんだところも多い。きちんと読解したい人は線形代数を一通り勉強してからのほうが良いと思う。

圧巻なのは、第3章「行列の標準形」、第4章「行列を楽しむ」だ。

第3章では「ジョルダン標準形の基本定理」の「加群」と「完全系列」を使った証明を行っている。そこで必要になる「単因子論」は第4章で補充される。「行列をジョルダン標準形で表すことができる」という定理は多くの線形代数の本に書かれているけれど、ぼくが読んだどの教科書も、非常にまわりくどい証明をしていて、腹の底からわかった気がしなかった。そんなぼくは、本書で初めて溜飲が下がる証明に出会った。そればかりではなく、ジョルダン標準形に応用されたことで、初めて「加群」と「完全系列」という概念を使う意義を悟ったのだ。

ただ、この証明がすとんと腹落ちしたのは、ぼくがこれまで何冊かの教科書で加群の勉強をして来たからに他ならない。いきなりこの本で加群を理解するのは厳しいと思うから、少し準備をしたほうが良いと思う。

この本の大団円は「D加群」を紹介する第9章「微分方程式加群と思う」と第10章「常微分方程式特異点」だ。詳しい丁寧な説明があるわけではないけど、加群の雰囲気を掴んでいれば、「ああ、そういうものなのか」という感触だけは得られる。少しだけ引用しておく。

このように、微分方程式の研究を、D加群の構造の究明ととらえ、徹底的に発展させたのは、佐藤幹夫氏を中心とする京都スクールである。

柏原先生ももちろんだけど、佐藤幹夫先生は本当に偉大だなあ、と実感させられた。

 書きたいこと(書く時間がとれること)はこれだけなんだけど、物足りないので、おまけとして最近行ったライブのことを書いておこう。コロナ感染症パンデミック以来、ライブに行くことは封印してた(もう、一生行くまいと誓ってた)のだけど、遂にその禁を破ってしまったのだ。

3月には2つのライブに行った。ひとつは、a子ちゃん、もうひとつはアザミちゃん。

a子ちゃんは、このエントリーでも紹介した。昨年にファンになって以来、ずっとa子ちゃんの音楽しか聴かなかった。(あ。ずとまよは聴いてたな)。そのゾッコンのa子ちゃんのライブを遂に観ることができた。最高のライブだったけど、ライブを観ていて感じたのは、「ああ、これはYUIを初めて観たときの感覚にそっくりだな」、ということ。a子ちゃんは、非常に新しい多様な音楽(たぶん、洋楽)を旺盛に取り込んで、新しいJpopを切り開いてて、そういうところに惹かれているんだと思ってた。でも実は、自分にとってはYUIちゃんと同じくアイドル的存在なんだな、と。つまり、音楽だけはなく、フォルムも大事なんだと。もちろん、ライブはどちらも満足させてもらえる最高の演出だった。

a子ちゃんのライブ風景をyoutubeからリンクしておく。

https://www.youtube.com/watch?v=oAcDIycezM0

次に観たのは、アザミちゃんのライブ。アザミちゃんは、ほんとについ最近に好きになったシンガーソングライター。深夜の音楽番組でたまたま観た1分ぐらいの映像で気になって、検索して、めちゃくちゃ好きになった。とにかく、音楽の才能がほとばしっている。たまたまソロライブが渋谷クアトロであったので、勇んで観に行ってみたのだった。いやあ、すごかった。どうしてこんなミュージシャンを知らずにいたのだろう、と悔やんだ。もう5枚ぐらいアルバムを出している。アザミちゃんも、いろんなタイプの音楽を貪欲に取り入れているミュージシャンだけど、ぼくにとって大事なのは、「エモっぽさ」を感じるということだった。ライブは全身全霊で演奏するすばらしいものだった。こんなすごいライブには数年にいっぺんしか出会えないと思う。観てよかった。アザミちゃんの最近の代表曲をyoutubeからリンクしておくね。斬新さとかっこよさをとくとご覧あれ。

https://www.youtube.com/watch?v=k2Hvyju7qzQ