数学は遠きにありて想うもの

 実は、また、数学者たちと鼎談をすることになり、そのお題のために、リーマン面・層・コホモロジー群・スキームの勉強を再開した。
 リーマン面というのは、ごく小さい部分だけを局所的に見ると「複素平面」と同一視できるような空間のこと。逆に言うと、複素平面の原点付近の円をたくさん貼り合わせて作り出せる空間のことだ。例えば、リーマン球面は、二枚の円をお椀のように丸めて反対向きにはめ込んで球形にしたリーマン面の一種である。ドーナツ型(トーラス)も円を湿布薬のようにぺたぺたと貼っていけば作れるからリーマン面だ。
 リーマン面コホモロジー群は、小木曽啓示『代数曲線論』朝倉書店で勉強している。この本は以前にも、続・続・堀川先生とキングクリムゾンの頃 - hiroyukikojimaの日記のエントリーで紹介したが、もう一度最初から読み直した。ちなみにこの本は、「代数曲線」と題するより、「リーマン面」と題するべき本だということを書き添えておこう。

講座 数学の考え方〈18〉代数曲線論

講座 数学の考え方〈18〉代数曲線論

 実は、前に読んだときは、「知りたいことと関係が希薄そうで、めんどくさそうな部分」をはしょって読んでいた。具体的には、第3章「リーマン面微分形式」をまるまる飛ばし、そのために第4章の「いろいろなリーマン面」が部分的に読めなくなり、そこも飛ばした。でも今回は、前回飛ばしたところを含め、順を追ってきちんと読んだ。そして、最初からそうすべきだったことに気づき、安易なはしょりをしたことを猛省した。
 多くの数学書は、メインディッシュに対する最短経路で書かれているわけではなく、余計なことがいろいろ書いてある。もちろん著者は、「それが重要である」ないし「知っていたほうが良い」という親心から導入しているのだろう。でも、その「刺身のつま」のせいで、たいていの読者が理解の辛さから脱落することになってしまうことに著者は気を遣うべきだと思う。だから、ぼくはいつからか、そういう「刺身のつま」を箸でよけて読むようになった。
 一方、小木曽啓示『代数曲線論』には、そういう「刺身のつま」がほとんどなかった。導入されているすべてのアイテムは、メインディッシュをより良く吸収するために必要不可欠のアイテムだったのだ。
 たとえば、第3章「リーマン面微分形式」は、「」という数学概念を豊かにイメージするために重要だった。「層」というのは、単純に言えば、リーマン面上の複素関数を思い浮かべればいい。リーマン面は局所的には複素平面の小さい円と同じだから、そこで定義された複素関数のことだ。「層」というのは、「局所で0と一致すれば全体で0、局所的な関数族は貼り合わせて全体の関数にできる」という性質を持つ空間のこと。正則な複素関数は、この性質を備えている。
ただ、それだけをイメージしていると「層」ってそれしかないのかなあ、と貧弱な感覚しか得られない。「層」は、複素線形空間だから、他の例も頭の引き出しに入れておかないと、その不変量であるコホモロジーを理解するときに、高すぎる障壁に突き当たることになる。以前にぼくが突き当たって挫折を余儀なくされたのはその障壁だった。
 本書は、少なくとも「リーマン・ロッホの定理」に到達するまでには(まだ、そこまでしか読んでいない)、無駄なことが一切書いていない。すべてが用意周到に準備されている。それはそれはみごとなものだ。抽象的な概念を具体的に理解するために(たぶん)最もわかりやすい具体例や解説が前もって投入されているのである。
 今回は、ほとんど飛ばしなしに読んだので、「層」「コホモロジー群」「リーマン・ロッホの定理」は理解できた(と思う)。とりわけ、コホモロジー群(チェック・コホモロジー)が、いったい何を表現しようとしているのか、とか、完全系列というのがどう使われるのか、とかを、目が覚めるぐらいに納得することができた。完全系列については、数学科に在籍したときに、「いったい、こりゃ何者なんだ、何の役に立つんだ」と悩ましかったものだった。それが克服できたのは、清々しい。
 本書でのリーマン・ロッホの定理の証明には、完全系列の威力がめっちゃ発揮される。リーマン・ロッホの定理とは、簡単に説明するのは難しいが、層のコホモロジー群に関して、オイラー標数(例えば、[点の数]−[線の数]+[面の数])のような交代和の公式が成立することを主張するものだ。
完全系列というのは、いくつかの線形空間(とか環とか),・・・A, B, C,・・・,と、その間の線形写像(準同型写像),・・・,f, g,・・・の間の関係である 、[・・・→A→(f)→B→(g)→C→・・・]、に関して、(AからBへのfによる像)=(Cの零元{0}のgによるBへの逆像)という等式(要するに、Im(f)=Ker(g))がすべてに対して成り立っているものを言う。線形代数の基本的な定理として、空間Bを(Cの零元{0}のgによるBへの逆像)で割った商空間は、(BからCへのgによる像)と同じ空間になると見なせるから、(Bの次元)=(BからCへのgによる像の次元)+(Cの零元{0}のgによるBへの逆像)である。したがって、さっきの完全系列の定義から、(AからBへのfによる像の次元)=(Cの零元{0}のgによるBへの逆像の次元)が成り立つので、置き換えれば、(Bの次元)=(AからBへのfによる像の次元)+(BからCへのgによる像の次元)という等式(dim B=dimIm(f)+dimIm(g)))が成り立つとわかる。この事実から、[・・・+(Aの次元)−(Bの次元)+(Cの次元)−・・・]という交代和を作ると、打ち消し合いが起きる。だから、系列の最初と最後が空間{ 0 }であれば、交代和は0とわかる。リーマン・ロッホの定理は、この(次元の交代和)=0、を用いてみごとに証明されるのである。
 この定理について、著者の小木曽さんは、次のように書いている。

リーマン・ロッホの定理は次元そのものに関する定理ではなく次元の交代和に関する定理である。オイラー数も交代和だった。日常生活においては和を考えることはあっても交代和を考えることは皆無に近い。それとは対照的に、何故だかよくわからないが、数学では交代和を考えてみると簡明になるということがしばしば起こるようである。

こういう数学者の個人的な数学観のようなものを書いてくれると、本当に楽しくなる。数学者も人間なのだから、定理を見つめた個人的な印象や感慨や感動というのはあるはずで、それを知ることで、読者も数学を人間的で生臭いものとして身近に感じることができるのである。この小木曽さんの言葉を読んだぼくは、「そういえば、行列式の展開定理も交代和だよな」などと記憶が蘇った。ひょっとして、同じアイデアの証明が可能なのだろうか??
 著者の小木曽さんは、昔、ある場所でご一緒したことがあり、何度かお茶を飲んだり、ご飯を食べたりした。そんなある日に、ぼくが、非常に簡単な高校数学レベルの問題を考え出して、それをお見せしたところ、子供のような輝く表情で「それは面白いですねえ、よくできた問題ですねえ」と感嘆してくださった。そのとき、ぼくは、「こんなに優秀な数学者のタマゴが、この程度のことでも、興味津々で楽しい顔をするものなのだ」と感動したことをよく覚えている。そういう小木曽さんの純粋さ、人柄の優れたところ、好奇心溢れるところ、が本書にはよく現れていると思う。
 ただ、やはり、本書を読んでいて、「辛くなかった」と言えば嘘になる。しんどかった。こんなにも工夫して手取り足取り記述してもらってさえ、抽象的な概念を理解するのは「楽しい」より「辛い」のほうが先に立った。こういう抽象物を、何の摩擦もなくイメージ化でき、そうする作業がウハウハと楽しく、真綿のように吸収できる人でないと、数学者にはなれないのだろう、と痛みを持って実感した。そういう意味ではぼくは数学者にはなれない、ということを思い知った。
 その証拠に、「コンパクトリーマン面の正則関数の1次元コホモロジー群の次元が有限である」という基本定理の証明は、読むのをいったんペンディングしている。とんでもなく長い証明で、また、膨大な道具立て(ヒルベルト空間など)が必要だからだ。こういうのを、数学者たちはウハウハと垂涎で読めるのだろうが、ぼくにはため息が出てしまう。こういうところが、数学者に向いているかどうかの踏み絵となるのだろう。
 ぼくは、経済学と数学と両方を勉強している。でも、この二つのぼくの中での位置付け・あり方はけっこう異なる。数学は恋い焦がれるほど好きだが、経済学はそうでもない(同業者のみなさん、すいません)。数学には狂おしいほど惹かれるが、経済学はそうでもない(笑い)。それだから、数学にはじれったく短絡的になり、地道な努力が無理で、性急に結果を求めてしまう。一方、経済学のほうでは、冷静で地道な努力ができ、じわじわと距離を狭めることができる。どんな業種であっても、飯を食うプロに自分がなれるかどうかは、「愛のあり方」に依拠するのではないか、と思う。例えば、狂おしいほど音楽が好きな人はむしろプロのミュージシャンには向かないだろう。そうではなく、どんな音楽にもクールに興味を持てて、冷静に分析でき、結果を急がず地道な努力が苦でなく、自分の心と一定程度の距離をおける人がプロ・ミュージシャンになれるのではないだろうか。
さらに言うなら、「プロ」になることが幸せとは限らない。本当に幸せなのは「ファン」のほうなのではあるまいか。
 こう考えると、「ぼくが数学者になれなかったのは、必然だったし、むしろ、そのほうが良かったのだ」と今は素直に思える。「数学は遠きにありて思うもの」。心底好きなことは、職業にならないほうがいい。成果もレベルも問われない、そんなに幸せなことはない。それが、今、ぼくの胸中に育つ大きな感慨なのだ。この境地にたどりつくのに、30年もの歳月を費やしてしまったが。。。