いつのまにか、6月が終わってしまうぞ。

また、ずいぶんと間が空いてしまった。知らず知らずのうちに、「きちんとしていて読み応えのあるもの」だけを書こう、と考えるようになってたみたいで、だんだん書く間隔がひろがってしまってた。まあ、それならそれでいいけれど、でも、ブログなんだからもっと緩く短く日記を書けばいいじゃないか、と思い直し、読者の利益をそんなに考えず、文章のクオリティも意識せず、だらだらと日記を書こうかな、と考えを変えてみた。
 実は、書けなくなった原因の一つに、経済学者として原発事故について何かコメントをすべきなんじゃないか、という強迫観念に苛まれていたこともある。でも、どう書いていいかわからないまま、今日にいたってしまった。
 宇沢先生に市民講座で教わっていたのは80年代の終わりころだけど、そのとき先生がテーマとされていたのは、おおざっぱにいえば「不況に関するケインズの理論」と「水俣病をはじめとする環境汚染の問題」の2つだった。しかし、当時は、バブルのさなかだったし、東京の環境はずいぶんと改善されていた。だから、宇沢先生が問題とされておられた2つは問題は、どこか「遠い国の問題」「歴史的な問題」「机上の問題」みたいに受け取っていたところがあった。
 でも、まさか、その二つの問題を、21世紀になってリアルに体験することとなるとはそのときは想像だにしなかった。「世界同時不況」と「原発事故による広域の環境汚染」がそれである。
 宇沢先生は、水俣病の経緯についてよく次のような話をされた。経済学者を名乗るものが「水俣の漁民は、自分の意志でその場所に住み、自分の選択で魚を食べたのだから、何も問題ではない」とか「嫌なら移住すればいい」などと語ったり、省庁に雇われた医者が、ろくに調査もせずに、適当な病名をでっちあげてチッソ株式会社が原因でないことを主張したというような話だった。そのときは、心のどこかで、そんなまさか宇沢先生が極端な話をしているのだろう、という印象を持ったが、今回の原発事故で、似たような人々をみるにつけ、当時から何も変わってないんだな、と思い知らされた。今回の被ばくについても、福島の方々が、土地を追われ、家を失い、基本的人権が脅かされていることを「単なるコスト扱い」しているかたを何人か目撃することとなった。そして、健康被害に対して企業側のかたをもつような進言をするお医者さんも少なからず存在するようだ。あれは、こういうことだったのか、何も反省してないんだな、悔いてなんかないんだ、と衝撃とともに、暗澹たる気分になった。(うれしいことには、プロの経済学者にはそんな発言をしている人はぼくの知る範囲にはいない。そういう発言をしている人は、たとえ本人が経済学者を名乗っていても、学際的には経済学者ではない人ばかりだ。実際、経済学者は効用(utility)でモノを考える訓練を受けているので、「お金」だけで被害を評価をすることはしないものなのだ)。
 経済学者として(余計なお世話にすぎないかもしれないけれど)苦悶を感じる中、物理学者たちはどう考えているのだろう、という疑問もあった。別に原発を直接作ってるわけではないにしろ、原子力というテクノロジーは物理学の成果として生まれてきたわけだから、何らかの苦渋、あるいは「形而上の責任」(←拙著『確率的発想法』NHKブックス参照)を感じてるんじゃないかな、と思ったからだ。そうしたら、二人の知り合いが、原発事故や放射線の危険性認識についての見解をアップしてくださった。一つは、東大物性研究所の押川正毅さんの
福島原発事故の危険性について
であり、もう一つは学習院大学田崎晴明さんの
放射線と原子力発電所事故についてのできるだけ短くてわかりやすくて正確な解説
である。
押川さんは、彼が学生だった頃、バイト先の同僚だったこともあり、とてもよく知っている。当時からものすごく優秀な物理学徒で、いっしょに飲みながら、彼の物理についての想いを聞くだに、ほれぼれとしたものだった。その彼が、やむにやまれぬ気持ちから、放射線の発がん性についてのサーベイを書いてくれたのは、とても勇気が出ることだった。
他方、田崎さんの解説で、とても「らしいな」と思ったのは、次の一文だ。

ぼくらのまわりでは、いろいろな「もの」がどんどん変化していく。石を砕けばバラバラになるし、水を冷やせば凍るし、塩を水に溶かせば見えなくなって塩水になり、紙を燃やせば灰になる。こういった変化では、原子と原子の結びつきが変わったり(←これが化学反応)原子から電子が抜けたり(←これはイオン化)することはあるけれど、原子核はまったく変化しない(注意:放射性物質が混ざっていれば、それらは勝手に放射線を出して原子核の変化をおこす。でも、それは燃やしたり溶かしたりしたこととは無関係)。ものすごい高温で処理しても、すごい薬品を使っても、原子核は変化しない。生物は(光合成とか)ものすごく複雑な化学反応を利用するけれど、でも、原子核の変化を利用している生物は(ぼくらが知っている限り)いない。
一方、原子力発電所の原子炉のなかでは、原子核そのものが変化している(「原子力発電所ってけっきょく何をやっているの?」で説明する)。ふつう原子核を変化させるのはすごく大変だ。だから原子炉をつくるにはかなり複雑な技術がいるのだ。(中略)
読み飛ばした人も多いだろうけど(それでいいですよ)、大事なのは、 (1) 放射性物質というのは特別な「不安定な原子核」をもっている、そして、(2) ふつうにものを燃やしたり化学反応させたりしても原子核はびくともしないということ。だから、煮沸消毒しても、焼却炉で燃やしても、微生物に食べさせても、放射性物質を分解して無害な物質に変えることはできない。放射性物質が自分で勝手に崩壊していくのを待つしかない。だから、やっかいなのだ。

ぼくは、田崎さんのこの説明を読んで、ここのところに原発の問題のすべてが集約されているような気がした。原子力が制御の難しい技術であるのも、メルトダウンすると、長い間収束させることができない(人為的には収束させられない)のも、放射線による発がん性が確率的なのも、発がん可能性が線形だという仮説があるのも、すべて「原子核が頑丈である」ことと「原子核の崩壊ががっちりとした確率現象である」ことに依拠するように思えてきた。田崎さんは、社会的なアピールを一部に込めながらこのエントリーを書いていると思うけれど、やはり物理学者としての「自然を見る目」が、そこに切々と煎じられていると思うのだ。こういうところが、みまごうことなき科学者だなあ、と素直にほれぼれしてしまう。是非、多くの人に読んでもらいたい解説だと思う。
 二人の心ある物理学者の勇気ある発言に触発されて、ぼくも経済学者として何か書かなくちゃ、と思ったけど、すでに長くなったので今日はやめる。