ゲーデル記念日

「完全にわかった」とぼくの頭が言ったから七月三日はゲーデル記念日。

あえて、というか、恥ずかしいから、何のパロディかはいわない。とにかく、今日はすごく嬉しい日になった。ゲーデル不完全性定理の証明が、第1不完全性も第2不完全性も、どちらもかなり完全に近くわかってしまったからだ。こんなことをいうと、「お前はゲーデル不完全性定理について、著作の中に書いてるくせに、ほんとはわかってなかったのかい」とツッコマレそうだけど、いや、おっしゃる通りなのだ。でも詐欺だとか思わないでほしい。
数学の理解には、何段階かあると思う。
「数学マニアと会話できる程度の理解」<「啓蒙書にうんちくとして書ける程度の理解」<「講義できる程度の理解」<「論文を書ける程度の理解」
みたいな感じなんじゃないかな。ぼくのこれまでの理解といえば、下から二番目程度だった。もちろん、だから啓蒙書に書いたりしたわけだ。(たとえば、拙著『無限を読みとく数学入門』角川ソフィア文庫など)。でも、今日は上から二番目の段階に移行したような気がするのだ。これはほんとに祝杯ものだ。なぜ、そうなったのか。
ぼくがこのところ、エアロバイクをこいでいることは前に書いた。(ミシン機のトポロジー - hiroyukikojimaの日記参照)。まず、トポロジーの本を3冊読み、そのあと、クレプスという人のミクロ経済学の教科書を読んだ。これは500ページぐらいある洋書で、バイクをこいでるときぐらいの暇と退屈さがないとこんなにたくさん英文を読むことはできなかったろう。(クレプスの本は名著だとわかったので、別の日にまた紹介しよう)。そして、そのあとに、読んでいるのが、これまた分厚い本なのだが、新井敏康『数学基礎論岩波書店なのだ。

数学基礎論

数学基礎論

この本をクレプスのあとに読んでいるのは、無関係ではない。実は、年末までには、「推論」のことを論じる新書を書く約束をしていて、ゲーム理論数学基礎論はどうしても知識を補充しなきゃならない使命があるからなのだ。まあ、そのことはまたいずれ書くとして。
それはともかく、この新井氏の新著は、驚愕するくらいにとても良く書けた本なのだ。信じられない出来栄えなのである。こういう数学書に出会うことはとても珍しい。
ぼくは、これまで、ゲーデルの仕事を理解するために、たくさん本を読んできた。かなりの啓蒙書を読んだが「わかった」という実感からは遠かった。、突破口となったのは、田中一之『数の体系と超準モデル』裳華房だ。(憧れの超準解析 - hiroyukikojimaの日記に詳しく書いた)。この本で、完全性定理のほうは完全にわかったが、不完全性定理のほうは不完全なままに終わった。(おやじギャグじゃないってば)。肝心なところがどうしてもきちっとわからないのだ。そんなもんだから、次に、前原昭二『数学基礎論入門』朝倉書店に手を出した。(こっちについては、「内容」と「形式」 - hiroyukikojimaの日記に書いてある)。前原氏の本を読んで、ぼくの理解に何が欠けているか、どうすればそれを克服できるかはわかったが、それを実行させてくれる素材が見当たらなかった。前原氏の本でそれを行うには、相当な根気が必要に思えて逡巡してしまったのだ。
そこで、最近出た、新井敏康『数学基礎論岩波書店である。この本こそが、ぼくの弱点を克服させてくれる助け舟、ノアの方舟だったのだ。この本によって、第1不完全性定理自然数論の公理系PAには、文Fで、FをPAから証明できないし、またFの否定文¬FもPAから証明できない、そういうFが存在する」の証明(ロッサー&ゲーデルの証明)もほぼ完全にわかったし、第2不完全性定理「公理系PAは無矛盾である、という内容を持つCon(PA)がPAから証明できない」の証明もほぼ完全にわかってしまった。なぜわかったか、というと、新井氏の解説の進め方が実にみごとだからであり、とりわけ、他の本ではさっぱりわからなった「標準モデルの命題を形式化したPAの命題」ということをはっきりと理解できたことが大きい。
 でも、不完全性定理のことを書くと長くなるので、それは後日に譲るとして、今日は完全性定理のほうについて書こう。
ゲーデルの完全性定理というのは、「公理系Tにおいて論理的に正しい文は、公理系Tにおける形式的な証明を持つ」というものだ。ここでいう「論理的に正しい文」というのは、「公理系Tのモデルとなるような任意のモデルにおいて正しい文」ということだ。つまり、公理系Tを実現するようなどんな世界でも正しい文なら、その世界の固有の性質を利用しなくても形式論理だけで証明できる、という定理なのである。
 この定理については、田中氏の本でもよくわかったのだけど、新井氏の本では別のアプローチをしており、別の見方を教えてくれた。田中氏の本が、ほぼ直接的な証明を与えているのに対し、新井氏の本では、「コンパクト性定理」というのを使って、鮮やかにして深みのある証明を与えている。どちらも有意義なんだけど、新井氏の証明はぼくがもっていた重要な疑問に答えてくれるものだった。完全性定理というのは、命題論理バージョンと述語論理バージョンがある。命題論理というのは、内容を問わない記号p,q,…などについて、p→qとか、pΛ¬qのような論理文のこと。このようなものに対しての完全性定理は、ゲーデル以前に(たぶんポストという人によって)証明されていたけど、田中本にはこっちの証明は書いてなかったし、ゲーデル版の述語論理(∃xR(x)みたいな文からなる)の完全性定理とどういう関係があるのかもわからなかった。新井本はこれに答えてくれるものだった。命題論理の完全性定理を非常に明快に証明し、(その証明がまたしびれるくらいにみごとなのだ)、それにコンパクト性定理を使うことによって述語論理の完全性定理に拡張するわけなのだ。
ここでコンパクト性定理というのは、「命題論理の論理文の(無限)集合Tに対し、Tのどの有限部分集合に対してもそこに含まれる論理文を真にできる(p,q,…などへの)真偽の与え方(付値)があるなら、Tに属する命題をすべて真にする真偽の与え方が存在する」というもの。この定理が述語論理の完全性定理に利用できるのは、ぼくの理解では、論理文というのは有限個の記号の結合だから、有限個についての真偽から無限個についての真偽を引き出せることはとてもパワフル、そういうことだと思う。ほれぼれするような証明方法なのだ。しかも、何をやってるのか、とてもわかりやすいからすばらしい。
完全性定理は、数学教師に、とても重要なインパクト、インサイトを与えてくれると思うので、先生がたにはおすすめだ。数学教師はいうまでもなく数学者さえ、多くの人は、「正しい文」と「証明できる文」の区別がついていないように推察している。なぜなら、ある論理文(あるいは命題)が正しいとわかるのは、たいてい証明を与えたときなので、つまり、証明したことによって初めて正しいと確信するので、「正しい」=「証明できる」と誤解しがちである。でも、この二つは全く異なるものだ。だからこそ、完全性定理や不完全性定理が意義をもつのである。簡単にいえば、「正しい」は、モデルに立脚する概念で、各モデルに依拠した帰納的な定義の仕方があり、「証明」とは、それらとは直接には無関係の「記号列の帰納的な作り方」なのである。そして、そのどちらも帰納的(順を追って段階的に組み立てる)ものだから、完全性定理や不完全性定理が成り立つことができるのだ。その「異なり」を理解できれば、「そのモデルに固有の証明」、たとえば、ユークリッド幾何とか球面幾何とかに固有の証明とは何か、とか、モデルに依拠しない証明、たとえば、「pとp→qからqを導いていい」などの形式的推論とは何か、とか、そのへんを区別できるようになると思う。これらのことをきちんとわからないまま、ぼくは昔、中学生に幾何の論証を教えていた。間違ったことを教えたわけじゃないけど、現在の知識があれば、もっと良いテキストを作れただろうにと、今では残念に思う。
田中本は、そういう実益的な読み方だって可能なのだ。(ちょっと大げさかな。もちろん、いうまでもなく、数学専門書になじんだ人じゃないと読みこなせないと思うよ)。
不完全性定理については、また後日に。