昨年暮れに衝撃を受けたのは、YUI完結のニュースだった。ほとんどYUIの音楽しか聴かない生活になっていたので、「おりゃ、いったい今後、何を聴いて暮らせばいいだべさ」と真っ暗な気分になった。まあ、YUIは、新年早々から単独の音楽活動を再開しているそうで、ぼくらの前に再登場するのもそんなに遠いことじゃないのかもしれないが。。。
しか〜し、である! 捨てる神あれば拾う神あり。新年から、実は、別のミュージシャンにはまってしまっている。しかも、男性ミュージシャン。しかも、V系。どうしたんだオレ、って感じだ。
それは、雅-Miyavi-っていう人。知ったきっかけは、暮れのFNS音楽祭。YUIを観ようと流し観してて、ぶっとんでしまった。和田アキ子のバックを弾いてたMiyaviのギターにあまりにびっくりして、それからyoutubeで彼のプレーをいろいろ観てみた。そして、衝撃を受けた。どうして今まで、こんなすごいミュージシャンがいることに気がつかなかったんだろう。嘘だと思ったら、youtubeで、「What's My Name?」か「Survive」の演奏観てみそ。すげーから。あるいは、泣ける曲が良ければ「Super Hero」か「咲き誇る華のように」。きっと、あなたも取り憑かれるに違いない、って思うぞ。
まあ、しかし、今日書こうと思っているのは、またまた数学のこと。前回書いたように(数学って「思想」なんだよな - hiroyukikojimaの日記)、最近のぼくは、「数論」と「代数幾何におけるスキーム理論」を同時並行的に勉強してて、それらから「数学における思想のようなもの」を抽出しようとしてる。それは、今年に出す何冊かの本のための準備としてなんだけど。
スキームについては、上野健爾『代数幾何』岩波書店で勉強してるんだけど、おぼろげながら、その姿が見えてきている。ざっくりいうと、スキームっていうのは、足し算、引き算、かけ算の構造を持つ環という集合を「空間化」してしまう技術なのである。例えば、整数の環を考える場合、一個一個の素数を「点」と考えて、そこに「距離感」(正しくは、位相)を導入する。そして、その各「点」それぞれで局所的に定義された「関数」を作り出す。それは「層」と呼ばれる。そんな風にして、素数の集合(整数の集合)を、あたかも、でこぼこがあったり、ふちがあったり、穴があったりするような「空間」のうちの一種と化させてしまう、というわけなのだ。これはめちゃめちゃすごいことだと言っていいと思う。こんなこと、どうして思いついたんだろうと驚くしかない。こういうことを考えた数学者の脳裏には、やっぱり、数認識に関する哲学、思想、信念があるんだろうと思う。
そういった「数学者のオツムの中身」が気になるので読んでみたのが、アティヤ『数学とは何か』朝倉書店だ。
- 作者: マイケル・F.アティヤ,Michael Francis Atiyah,志賀浩二
- 出版社/メーカー: 朝倉書店
- 発売日: 2010/11/25
- メディア: 単行本
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アティヤは講演の中で、20世紀の数学の進歩を、「局所から大局へ」「次元の増加」「可換から非可換へ」「線形から非線形へ」「幾何 対 代数」「共通のテクニック」「物理学からの影響」などのようにテーマ分けして話している。確かにこうまとめられてみると、なるほどと思える。たとえば、「局所から大局へ」では次のようなことを述べている。
微分幾何学におけるガウスとほかの数学者たちによる古典的な仕事は、空間の微小な部分、曲率の細片などが中心で、局所的な幾何学を記述する局所方程式系を使って行われているものでした。それから大域へ向けての移行はむしろ自然なもので、そこでは曲がった表面全体にわたっての姿と、その上でのトポロジーの様相を理解しようとしています。
もちろん、同じような枠組みの中に入るものではありませんが、数論も似たような展開の流れの中にありました。数論の専門家たちは、彼らが「局所理論」とよぶものと「大域理論」とよぶもので、素数の取扱いを区別しています。局所理論では特定の素数、時にはひとつ、または有限個の素数について述べ、大域理論ではすべての素数を同時に扱います。素数と点とのアナロジー、また局所性と大域性とのアナロジーは、数論の展開において重要な効果をもたらし、そしてトポロジーに用いられているアイディアは、数論に大きなインパクトを与えてきたのです。
非常に、コンパクトに平易に語っているけど、こういうふうな語り方は、本当に数学的な能力に秀でていて、かつ、単なるパズラーではなく、思想的に数学を認識してないと語れないことだと思う。また、「幾何 対 代数」というテーマの中では、ニュートンを幾何学者、ライプニッツを代数学者と分類した上で、次のように展開している。
19世紀が終わろうとする頃に、ふたりの巨人、ポアンカレとヒルベルトが現れました。私はすでにこのふたりについては話してきました。このふたりは、多少乱暴ないい方になりますが、それぞれニュートンとライプニッツの使途でした。ポアンカレは、幾何とトポロジーの理念に立って、これを深い洞察を与えるものとして用いました。それに対して、ヒルベルトは形式主義者の面が強かったのです。彼は公理化し、形式化して、それを厳密な表現形式とした表わすことを好みました。どんな偉大な数学者でも、容易には型にはめてみることはできないのですが、それでもこのふたりの数学者は異なる伝統の中にありました。
そして、この後、アティヤは、現代数学の共通のテクニックとして、「ホモロジー群」「K理論」「リー群」を挙げている。
アティヤの本とは、明らかにテイストが違うけれど、同じような思想性を感じさせてくれる啓蒙書として、つい最近刊行された加藤和也『数論への招待』丸善出版を挙げよう。
- 作者: 加藤和也
- 出版社/メーカー: 丸善出版
- 発売日: 2012/11/27
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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話は脱線しますが、素数とx^2+y^2の関係について私的な経験を述べます。私は大学院生の頃、類体論を研究テーマにしていました。歴史をやっている友人がいて、その友人を含め何人かで会った時、ある女性がその友人にどんな研究をしているかたずねますと、友人は明治維新のことを話すのでした。「明治維新は黒船が来てから始まったのではなく、(中略)、・・・」こういう話は誰でもフフンと興味深く聞き入ってしまいます。そのあとその女性の「ではあなたはどんな研究を・・・」の声に、私は「素数をx^2+y^2の形にあらわしてみたいのですが」と答えると、「全然あらわしてみたくありません」と言われてしまうのでした。まことに順当な反応であり、こうして歴史の友人に差をつけてゆかれた私です(その女性はその友人の妻になりました)が、この文を読んでおられるかたは、数学もまた、遠い昔からもののふしぎに頭をひねったりしてきた人間の歴史の、味わいが感じられるものであると、お考えのことと思います。
いんやー、これぞ、みまごうことなき「数学の思想」に関する記述ではあるまいか。思想、ってこうだよね。思想が役にたつかどうかは、それを使って異性をひっかけられるかどうかにかかっているといっても過言ではない。笑い。加藤先生は、こういう話を、まったく神妙な面持ちで語るから、余計におかしいのだ。本書は、このようなめっちゃおかしい「脱線」が随所で炸裂している。アティヤの本と大きく違うのは、この点だろう。(おいおい)。
お! 噂をすればなんとやら。今夜、雅-Miyavi-が「僕らの音楽」でテレビに出るじゃないかね〜。(観た。めっちゃかっこよかった)。