数学って「思想」なんだよな

 最近、代数幾何を勉強し始めた。来年出す新書の準備の一環としての勉強だ。
代数幾何というのは、多変数の多項式の解(零点)の点集合(放物線とか、円とか、球などの空間図形はその一種)の性質を分析する分野のことだ。高校で教わる「代数・幾何」を化け物のようにしたような分野だと思えばいい。(間に「・」があるかないかで雲泥の差なのだ)。
実は、ぼくは昔、数学科に在籍したときは、代数幾何が専攻だった。数論を専攻したかったのだけど、成績が悪くて希望のゼミに入れなくて、同級生の「数論をやるなら代数幾何は勉強しておいたほうがいいよ」という一言で、代数幾何のゼミに入れてもらうことにしたのだ。でも、そのゼミでは、代数幾何をほとんど勉強しないまま終わった。ゼミのときは毎週、準備してきたことが10分で先生に撃墜されて、残りの時間はずっとお説教をされていたからだ。(読者に優しい数学書を書く技術 - hiroyukikojimaの日記参照)。
その後の経済学の修行の過程では、測度論(集合族に面積のようなものを定義して、それをもとにルベーグ積分の理論を展開する分野)とか、関数解析(関数たちの集合に距離を定義して空間的な扱いをする分野)とか、最適化理論(ヒルベルト空間と呼ばれる空間を使って、条件付き最適化問題の普遍的な理論を作る分野)などは再勉強し、数学科時代の挫折は克服したけど、代数幾何はさすがに経済学とは縁がなかった。
 でも、最近になって、代数幾何に生まれて初めてすごく興味が出てきた。それはグロタンディークが生み出した「スキーム」と呼ばれる分野だ。なぜ、スキームに興味があるか、といえば、それが一種「思想的なもの」だと思えるからなのだ
そんなこんなで、ほんとに初歩から代数幾何の勉強を開始した。まず、読んでみたのが、海老原円『14日間でわかる代数幾何学事始』日本評論社だ。はっきり言って、これは掘り出し物と言っていい本だった。

14日間でわかる代数幾何学事始

14日間でわかる代数幾何学事始

この本の何がいい、って、それは「思想臭むき出し」で書いている、ってことだ。なんでだかわからないが、数学者の書いた数学書は無味無臭なものがほとんどだ。まあ、そもそも数学に思想的なナニカを感じていないのか、感じていても「そんなことは自分で掘り出せ」とばかり無視してるのかもしれない。確かに、プロの数学者になって一生数学で飯を食っていく気なら、数学が内包しているナニカは自分で苦労して理解すべきなのかもしれない。でも、数学って、数学者(及び、それを目指す人)だけのものだろうか。彼らの独占物なのだろうか。ぼくはそうじゃないと思う。数学は、人類全体の成果であり、文化であり、宝なんじゃないか、と思う。ならば、数学者(及び、それを目指す人)以外のたくさんの一般人にもその意義が伝えられることが望ましい。そのためにてっとりばやいのは、数学の持つ「思想」を伝えることである。「思想」というと大仰だというなら、「いったいそれは何をやっているのか」ということを伝えること、と言い換えてもいいだろう。
そういう意味で言えば、海老原円『14日間でわかる代数幾何学事始』日本評論社は、徹頭徹尾、「それはなにをやってるのか」ということを訴え続けるスタイルで書かれている。それはそれはみごとと言っていい。登場する多くの定理に対して、「それはこういう意味を持っている」という「解釈」を補足してくれている。また、それが何処を目指しているのか、という「少し先の風景」を常に与えながら書いてくれるのだ。
 本書は、まず、多変数の多項式の解(零点)の集合である「代数的集合」が、多項式たちの方程式たちよりも「イデアル」と呼ばれる集合で捉えるのが本質的であることを述べている。「イデアル」とは、「和に閉じていて、倍数に閉じている」ような集合のことで、もとはと言えば整数の集合を扱う中で発見された概念だ。イデアルには、極大イデアルと素イデアルというのがあるのだが、その双方が代数的集合を表現する上で非常に本質的であることがわかる。これらのことを本書では、次のように説明している。

極大イデアルとは、これ以上大きいものがないイデアルである。とするならば、対応する代数的集合は、これ以上小さいものがない極小な代数的集合−すなわち、1点であるということになる。

素数はこれ以上分解できない数であった。いま我々が証明した命題によれば、多項式環の素イデアルに対応するのは、これ以上分解できない代数的集合、すなわち、既約な代数的集合である。

これらは単に、定理を暗記するための便法ではない。これは、代数幾何の「思想」を露わにし、もっと先にあるナニカを予言する表現なのである。さきほど述べたように、イデアルはそもそもは整数に対して定義された概念だ。しかし、それが方程式の解として描かれる空間図形たち(放物線とか円とか球とか)に対しても、拡張でき、同じような意味合いを持たせることができる。すると、逆のことも可能なのではないか、という発想がわいてくる。すなわち、空間図形たちに対して定義される概念を、整数(あるいはもっと広く環)のほうに移植できるのではないか、ということだ。つまり、数の集合(例えば、素数の集合)をあたかも空間図形のように扱えるのではないか、ということなのだ。
本書は明らかにそういう照準を持って書かれた本である。非常に丁寧に、非常に初歩的に論を進めるので、「数の空間化」の入り口にさえ到達しないが、読者がそういう意識を持って読めば、間違いなく、やらんとしている方向性を感じ取ることができる。ずっと先にある蜃気楼を垣間見ることができるのである。
こういう書き方は、ほとんどの数学書ではなされない。それは、こういう解釈や比喩は一般性を損なう、と著者が考えるからだろう。数学の修行僧たちにはそれでいいとしても、我々のような「ものみうさんで数学書を読む」人々には、こういう大胆な比喩こそが理解の助けとなるのである。例えば、ザリスキー位相という、空間の遠近を表す独特の位相についても、次のような踏み込んだ解釈を与えている。

ザリスキー位相は、非常に密着性が強い。ここで「密着性」というのは、点と点との結びつきの度合いである。
 例えば人間社会を例にとろう。もし人間社会にザリスキー位相のようなものが入っていたら、どういうことになるであろうか? Aさんがごく内輪だけで何か行事をやりたいとする。そこで、ご近所(Aさんの近傍)だけに集まってもらうことにした。ところが、実際に集まってきたのは、「ごく内輪」どころか、一部を除いてほとんど全員であった − そういう社会における人間同士の密着性がいかほどのものか、想像に難くない。
 別な言い方をするならば、ザリスキー位相においては、局所的なことがらと大域的なことがらの結びつきが強いということもできる。

ぼくは、これを読んで、ザリスキー位相のイメージがかなりはっきりしたし、とりわけ「局所と大域」ということの関連が理解できた気がした。
本書は、このような大胆な比喩によるイメージ化以外にも細かい工夫に満ちている。例えば、各定理の証明も、本書に込めている「思想」をより伝えやすいような方法を選んでいる。場合によってはエレガントさに欠ける証明であったりもするだろうが、数の性質と図形の性質とを対応させる、という目的にかなうような証明方法を選んでいるように思えるのである。また、具体例も極力簡単なものを選んでくれているので、「例を理解するのにさえ苦労する」という数学書にありがちな障壁もない。(まあ、所々に、著者の自慢の「短歌・俳句・小説のパロディ」が挿入されていて、それについては読者の賛否は分かれると思う。ただ、ぼくも、こういう「余計な趣味を押しつけ」を自分の本でもついついやってしまう性向を持っているので、これについては前向き評価したいと思う)。
 ただ、本書を読むには、ある程度の数学の基礎が必要である。集合の記法と同値類の知識はまず必要だろう。あと、位相空間についても、おおざっぱなイメージだけは持っているほうがいい。この二つについては、拙著『数学入門』ちくま新書の第6章が役にたつと思う。あと、初歩の代数学(群とか環とか体などの定義と例、それから写像の一般論)もあったほうがいいだろう。これには拙著『天才ガロアの発想力』技術評論社が多少の助けとなると思う。(宣伝じゃねーか、とかいうかもしれないけど、まあそれもあってブログを書いているので、大目に見てやってくらはい)。
本書は、とりわけ、数学の抽象性に辟易となっている大学生にお勧めである。数学というものが、いったい何を考えて、何を目標に構築されているのか、その「秘技」みたいなところをイメージ的に与えながら解説してくれるとても珍しい本だからだ。
ぼくは、これを読破した今、上野健爾『代数幾何岩波書店の最初の部分にチャレンジしているところである。これ読んで何かを掴んだら、またこのブログに書こうと思う。

数学入門 (ちくま新書)

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