整数からイデアルへ

 人生初に雅-MiyaviというV系ミュージシャンにハマったぼく(数学とは何か - hiroyukikojimaの日記参照)は、遂に4月にブリッツで行われるMIyaviのライブチケットを手に入れてしまった。あな恐ろしいことである。50歳を過ぎて、V系のライブに行くことになろうとは。プログレ以外は音楽じゃないと豪語していた20代の自分に、「おまえは将来、ガールポップにはまった末、V系に墜ちることになるんだぞ」と教えてやりたい
 さて、このところ、純粋数学の勉強にいそしんでいることは何度もこのブログに書いた。それは、今年刊行する予定の本のうちの何冊かが純粋数学の紹介の本だからだ。というか、下手をすると、今年は経済学系の本を出さないことになる可能性が高い。経済学者としては後ろめたくもある。でも、物書きのキャリアとしては数学のがずっと長い。そして、専門の経済学については学術誌で勝負したい。だから、物書きとしては、自分が子供の頃から大ファンでいまだに勉強するのが楽しい純粋数学について書いていきたい、というのが本音なのだね。
 今年関わる予定の純粋数学の本(単著も共著もある)の何冊かでは、基本的に「数学をその思想面から見る」というテーマがある。19世紀頃を境に数学は大きく変容したと考えられる。それは単純に「抽象化」と呼んでもいいけど、もっと真相を込めていうなら「その数学的素材に内在している本性をより引き出しやすい表現形式が掘り出されるようになった」ということなんだと思う。
 数学的素材、例えば、数とか図形とかは、当初は人間の生活面から表出してくる。数は、モノを分けたり記録したりすることから、図形は土地や建物の計量から生じたと考えられる。でも、それらを純粋に研究の対象としてみると、それらの出自とは遠く離れ、出自とは似ても似つかないある種の「本性」を備えていることが見えてくる。それは「何かが宿っている」と言っていいような本性なのである。数学者たちは、そのような数学的素材に「宿る」本性を素直に引き出し、その本性が「こう操作してほしい」とささやく形式を生み出すようになった、と考えられるのだ。
 「イデアル」が、そのような「本性」の1つだと言っていい。
イデアルは、19世紀の数学者クンマーがフェルマーの最終定理を証明しようとする試みの中で考え出した素材だが、最初は形式的でわけのわからない存在だったようだ。それに具体的な(とは言っても抽象的ではあるが)目鼻を与えたのが、やはり19世紀のデデキントだった。
イデアルは、簡単にいうと「倍数」という概念を抽象化した素材のことだ。例えば、整数の集合Zにおいて、「Zの部分集合Iがイデアルであること」は次のように定義される。
(イデアルの定義):(i)xとyがIに属するなら、x+yもx−yもIに属する。(ii)xがIに属するなら、Zに属する任意のmに対してmxはIに属する。
要するに、「和と差と倍数に閉じている集合」がイデアル、ということである。
整数の集合Zにおいては、イデアルというのは、単に「何かの倍数の全体」と一致してしまう。つまり、任意の整数mに対して「mの倍数の集合」がイデアルとなり、他にはないのだ。このとき「mの倍数の集合」は(m)とカッコをつけた記号で記されるのが一般的である。2の倍数から成るイデアルは(2)、3の倍数から成るイデアルは(3)、4の倍数から成るイデアルは(4)、と言った具合である。特に、イデアル(0)は0だけから成る集合{0}で、イデアル(1)は整数全体Zで、これらは特別なイデアルである。
なぜ、(n)というタイプのイデアルしかないか、というと理由は簡単。例えば、(0)でないイデアルIがあったとして、それが含んでいる最小の正の整数をnとすると、(ii)からIはnの倍数をすべて含んでいる。nの倍数以外の整数xを含むなら矛盾が起きることを説明しよう。いま、xを越えない最大のnの倍数yもIに含まれ、(i)からx−yもIに含まれなければならない。しかし、x−yはnより小さい正の整数(具体的にはxをnで割った余り)となってしまうのでnの最小性に反してしまうのである。
 イデアルの中で、とりわけ重要になるのは、「素数の倍数から成るイデアル」だ。素数をpとし、その倍数から成るイデアルI=(p)は、次の性質を備えている。
(性質1) 整数の積xyがイデアルIに含まれるなら、xかyの少なくとも一方はIに含まれる。
(性質2)イデアルIを包含するI以外のイデアルJ(I⊆JかつI≠Jということ)は整数全体Z(=(1))のみである。
(性質1)は素因数分解が一通りしかないから、xyが素数pの倍数ならxかyはpの倍数であることからわかる。(性質2)は、素数pの約数が±1か±pしかないことから、Iを包含するJはpを何かの倍数として含んでいるはずなので、(p)か(1)(=Z)しかないことからわかる。
(性質1)を持つイデアルは、「イデアル」と呼ばれる。他方、(性質2)を持つイデアルは「極大イデアル」と呼ばれる。整数の集合においてイデアルを考える場合は、素イデアルも極大イデアルも違いがない((0)という特別な素イデアルを除くなら、どちらも素数の倍数の集合)。しかし、イデアルは、「足し算、引き算、掛け算という演算を持つ一般的な集合」、これは「環」と呼ばれるのだけれど、環一般で定義できるもので、他の環でイデアルを考えると「素イデアル」と「極大イデアル」には違いが出てくることになるのだ(後述)。
 クンマーがイデアルを導入したのは、整数を複素数に拡張してフェルマー方程式(xのn乗+yのn乗=zのn乗)を通常よりも細かく因数分解したい、という動機からだった。
例えば、ガウスは(整数)+(整数)i(iは虚数単位√(−1)のこと) というタイプの数を「虚数世界の整数」と定義した(ガウス整数と呼ばれる)。このようなガウス整数の世界では、整数と同じように約数倍数が定義でき、素数も定義できる。しかも、素因数分解が一通り、ということまで成り立ってしまうのだ。うまいことにこのとき、4次のフェルマー方程式(xの4乗+yの4乗=zの4乗)は、(xの4乗)=(z−y)(z+y)(z-yi)(z+yi)とこなごなに因数分解され、これはガウス整数での掛け算の分解を意味している。だから、ガウス整数における素因数分解の一意性を使うとxかyかは0でなければいけないことがそれほど大変じゃなく証明でき、フェルマーの最終定理の指数4の場合があっさり解決してしまうのであった。
 当初は、この方法でフェルマーの最終定理のすべてのケースが解決すると思われてたんだけど、残念ながら、指数nによっては簡単にはいかないことが判明した。それは、こういう「虚数世界に拡張した整数(1のべき乗根と有理数からなる体の整数環)」では、素因数分解の一意性が成り立たない場合がある、という恐ろしく直観に反するケースが出てきたからだったのだ。そこで、クンマーは素因数分解の一意性を回復するために、もっと深い分解である「素イデアル分解」というのを編み出したのである。クンマーが導入した「形式的な数」にすぎないイデアルを、集合を使って具体物として成立させたのがデデキントの偉大なる貢献なのであった。
 物語的に言うと、我々の日常の中に息吹く「整数」は、「虚数世界の中にもいるんだよ〜」とささやきかけてくる。そのような整数の本性を捉えるには、素数ではなく「素イデアル」というものを考えるのが「自然な道筋」ということになるのだ。つまり、素数という素材の本性はむしろイデアルという形式の中にある、ということだ。
 このようにイデアルが数論の中で発展する一方で、代数幾何の中でもイデアルが重要な概念となることがみつかることとなった。これに気がついたのは、19世紀から20世紀にかけての数学者ヒルベルトだった。
当時、多変数の代数方程式たち(例えば、直線の方程式ax+by+c=0とか円の方程式(xの2乗)+(yの2乗)−c=0とか)の共通解の点集合の研究が進められていた。つまり、高次の連立方程式の解集合が、空間の点集合としてどんな性質を持っているかを探し求めていたのである。例えば、n次方程式とm次方程式の共通解は一般にはmn個になる(ベズーの定理)など。
そこで、「連立方程式を考えるよりイデアルを考えたほうがより適切である」ということにヒルベルトが気付いたのだ。例えば、f(x, y)=ax+by+cという多項式とg(x, y)=(xの2乗)+(yの2乗)−cという多項式を考えると、f(x, y)=0とg(x, y)=0という連立方程式の解は、(直線と円との交点だから)、一般には2点{P, Q}となる。でも、f(x, y)とg(x, y)という二つの多項式のそれぞれの倍数の和で作られる多項式イデアルI(つまり、fとgを含み、上記の(i)(ii)を満たす多項式の集合で最小のもの)を考えると、Iに含まれる多項式の共通の解も同じ{P, Q}となる。なぜなら、多項式たちの共通の解というのは、和や差や倍数ではそのまま解であり続けるからだ。
 ちなみに、高次多項式イデアルは、整数のときとは異なり、「何かの倍数」だけには限られない。例えば、1次式f(x, y)=x-1と1次式g(x, y)=y-2を含む最小のイデアルを考えると、それは(fの倍数)+(gの倍数)の集合となるのだけど、これはある多項式hの倍数の集合(h)という形式では書けないから。(だって、hは(x-1)と(y-2)の両方を割り切れなきゃならなくて、それは無理)。
 実は、多項式たちのイデアルを考える利点はいくつもあるのだ。例えば、最初の利点として、次のことが挙げられる。
 まず、高次の多項式連立方程式の解の集合(何かのイデアルから定まる零点集合)をWとしよう。そして、逆に「Wの点すべてで零となる多項式の集合」を考える。実は、この集合は上記の(i)(ii)を満たすから、イデアルを成す。このイデアルをI(W)と書くことにする。するとこのイデアルI(W)の共通の零点集合をとると、それはWに戻るのである。つまり、零点の集合(空間内の図形)Wを定義する最も大きな連立方程式イデアルI(W)なのである。これは、「飽和方程式系」と呼ばれるとのことである。
 イデアルを考える次の利点は、上記で解説した「素イデアル」と「極大イデアル」がものをいうことにある。
まず、極大イデアルのほうの意味。これは、「Wが1点から成る集合であることと、I(W)が極大イデアルであることとが同値」ということに現れる。つまり、1点を共通の解として持つイデアルのみが極大イデアルだ、いうことなのだ。これはあたりまえで、WがPとQという2点以上を含むとすれば、Pだけを共通解とする多項式の集合としてのイデアルJは、明らかにWを共通解とする多項式の集合としてのイデアルI(W)を含んでいるから、I(W)は極大にはなれないからだ。
次に、素イデアルのほう。これは、「Wが図形として既約であることと、I(W)が素イデアルであることが同値」というふうに現れる。Wが既約というのは、Wがイデアルの共通解として定義される図形2つに分解されない、ということをいう。別の言い方をすれば、WがW1とW2の合併で表されるならW1とW2は一方が他方を含む、ということ。既約じゃないものを可約と言って、可約な例を見るほうが話が早いかもしれない。例えば、h(x, y)=xyという多項式とすると、h(x, y)=0の解は、xy=0だから、直線x=0と直線y=0を合併したものとなる。これは、多項式h1(x, y)=xの解と、多項式h2(x, y)=yの解をそれぞれ意味するから、h(x, y)=xyの解集合は2つの図形(直線x=0と直線y=0)に分解してしまう。こういうのは可約であって、既約ではない、ということ。そして、「これ以上、図形が分解しない」ような解集合Wと「素イデアル」が対応する、ということになるのである。これは、まさに整数における素数に対応する性質と考えられるだろう。
ここまでくると、極大イデアルと素イデアルの違い(それは、整数のイデアルでは違いがなかった)がはっきりしてくる。極大イデアルは空間の1点1点に対応するもので、素イデアルは「これ以上、分解しない図形」に対応するもの、ということなのだ。(1点も「これ以上分解しない図形」なので、当然、極大イデアルは素イデアルの一種となることもわかる)。
 このように、高次多項式連立方程式の解集合を空間内の図形として分析したい、という気持ちがある場合、それは連立方程式としてよりもイデアルとして扱うほうが自然で、「数学様が、そういうふうにイジッて欲しいようとほのめかしている」みたいだ、ということなのである。
 こんなふうに言い表すと、「大げさだなあ」と言われてしまうかもしれないが、そうじゃない。グロタンディークという数学者は、この「数学様の欲求」に耳を貸してとんでもない着想を得たのだ。それは、「極大イデアルが空間の1点と対応しているなら、逆に、極大イデアルの集まりが空間だと見なしてしまえる。だとしたら、一歩進めて、素イデアルの集まりを空間だと見なすこともできるのでないか」と。そうして、素イデアルの集まりを「空間化」する方法に気がついた。これが、いわゆる「スキーム」というものなのだ。スキームでは、例えば、素数の集合(=素イデアルの集合)を空間化してしまい、それはあたかも遠近感のある一本の曲線のようになっている、というわけなのだ。(というか、やっとそこまで勉強したところ。笑い。続きを勉強したらまた書くね)。
 ブログにこんなに書いてしまって、本にしたとき買ってくれるのか、という心配もあるが、まあ、本にするときはもっと丁寧にわかりやすく説明する(式や図も入れる)から大丈夫だろう、と信じる。(書いてみたらめっちゃ長かった・・・ちかれた)。
まあ、こういう数学の解説が面白いと思うんだったら、以下の新書を読んでみてつかあさい。

数学入門 (ちくま新書)

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