楽しい統計物理

 実は、先月は、ずっと統計物理の勉強をしていた。
 それは、友人の物理学者がもうすぐ統計物理の教科書を出すことになっていて、その原稿のモニターを引き受けたからだ。(どういう本かは、刊行日程がはっきりしたら紹介しようと思う)。その人は、物理の院生の指導もしているので、お弟子さんに頼める環境にあるんだけど、ぼくに頼んだのはある意味正解だと思う。なぜなら、物理学徒に査読してもらうと、自分が既に理解していることには寛容になってしまい、「素朴な疑問」を発しないからである。教科書の読者は基本的に既習者ではない(あたりまえだ)。だから、書き手は、読者が、素朴に持つ疑問、つっかえるところや、読者にとってその計算はしんどいか、などを事前に判断し、先回りして予防しておく必要がある。そういう意味では、モニターは、できるだけ専門から遠い人が良いのだ。
 ちなみに、このことは、普通の書籍を書くときにも成り立つ一般法則である。普通は、モニター役になるのは編集者だ。だから、編集者の得意分野(とりわけ、その人が大学で専攻した分野)のときは用心しなければならない。編集者が内容をわかりすぎているため、読者の浮かべる素朴な疑問に思いが至らず、おうおうにして、難解でわかりにくい本になってしまうからである。実際、ぼくの本のいくつかは、この落とし穴に落ちて失敗した。
 さて、モニターをした統計物理の本(まだ、タイトルも知らない)は、とても良く書けている教科書で、「統計物理って、いったいなんだ」ということが、かなりの程度理解できたように思う。っていうか、生まれて初めて、統計物理というものの「本性」を垣間見ることができた。
 統計物理を最初に体験したのは、東大の理科1類に在籍していた大学1年か2年の頃だったように記憶している。、そのときはさっぱり理解できないまま終わった。とにかく講義も教科書も難しすぎて、「そもそも何をやっているのか」さえ全くわからなかった。どうにか単位だけは取得できたものの、得たものは何もなかった。
 次に接触したのは、たぶん、30代前半の頃だったと思う。朝永振一郎『物理学とは何だろうか』岩波新書を読んで、エントロピーに興味を持ったのがきっかけだった。当時、ぼくの二冊目の一般書籍『数学幻視行』を書いていて、そこで「時間論」をまとめる必要があり、「時間とは何か」に迫る概念としてエントロピーを避けて通れなくなったので、朝永氏の本を読んだのである。ちなみに、『数学幻視行』はいまでは絶版だが、その最も重要部分である「4つの循環論〜数、言語、貨幣、時間」については、拙著『数学的思考の技術』ベスト新書に収められているので、興味ある方は手にとってみて欲しい。
 それで、エントロピーに関する本をいろいろ買ってみた。それらの中で最もよくわかったのが、小出昭一郎『エントロピー』(物理学One Point 共立出版)だった。この本だけがおおよそ全部を読破することができた。今でも忘れられない思い出だが、これを読んだのは、高熱と下痢が治らなくて、過度の脱水のために入院した病院のベッドの上だった。熱にうなされながら、熱力学・統計力学に関わる本を読んでいる自分が妙におかしかった。
 ぼくがその頃知りたかったのは、「エントロピー増大則が時間の方向を定めているのだが、それは力学の何から来るのか」という疑問への答えだった。言い換えると、「時間の方向性が、なぜ、数学的に説明できるのか」ということだ。でも、どの本を読んでもそれに答えてくれることはなかった。
 統計物理の基本原理は、たぶん、「多数の分子の作り出す安定状態は、最も場合の数の多くなる状態」というものだということはわかった。これを「時間論」に応用するなら、「場合の数の少ない状態」から「場合の数が最大の状態」に向かうこと、それが「時間の方向性」だ、ということも理解した。しかし、「なぜ、そうなるのか」については、どの本にも答えが書いてなかった。
 その後、うすうすわかってきたことだが、「なぜそうなのか」には答えがないのだ。それは、この世界の原理の一つであり、数学的に完全無欠に演繹されることではない、ということらしいのだ。そして、この原理の正当性は、数学的演繹ではなく、実験によって保証されるということなのだ。今回、教科書のモニターをしてみて、このことを完全に実感することになった。
 実際、モニターした本には、ほとんど全くといっていいほど通常の力学(ニュートンの方程式)が出てこない。出てくるのは、本当に簡単な計算で、大胆にまとめれば、場合の数に頻出する階乗計算、N!(=1×2×3×・・・×N)に関して、logN!がNlogN−Nで近似できる、というだけの計算である。にもかかわらず、いろいろな物理現象を説明できてしまうのだ。これはどういうしてなんだろうと、頭の中でナゾは深まるばかりだった。例えば、「ゴムを熱すると短くなる」とか、「粒子の非個別性(粒子に甲、乙と名前をつけて区別することができない)」とか、「鉄が磁石になる理由」とかが説明できてしまうのだ。
 ここからは、ぼく個人の認識なんだけど、実は、マクロの物理現象のけっこうな部分は非常に単純な原理だけで説明できてしまうのではないか、と思えてきた。ニュートン運動方程式はみごとに決定論的な詳細な情報を持っているけど、物質が大量に集まった集団のマクロな現象を解析する限りでは、その「詳細な情報」はたいした有効性をもっておらず(あるいは、不要であり)、「場合の数が最も多い」(=最も観測にかかりやすい)ということだけで十分な説明が可能になってしまう、ということではないかと。
 この認識にもっと若い頃に到達していれば、統計力学に関するぼくの「わっからん感覚」は払拭されていたかもしれない、と思うと残念だ。まあ、でも、まだ遅くはない。統計物理が楽しい、と思えた今後は、きっと、物理に関するぼくのスタンスは本質的に変容するに違いない。
 そんな「統計物理アレルギーからの快癒」のお祝い、ということで、前から懸案だった経済学の論文を読んでみた。それは、ダンカン・フォーリーという人の「統計的均衡(Statistical Equilibrium)」と呼ばれる経済モデルに関する論文だ。
 経済モデルにおける一般均衡で最も(というか唯一)メジャーなものは「ワルラス均衡」と呼ばれるもの。ワルラス均衡というのは、すべての(家計や企業などの)経済主体が、その価格の下で、各家計が選好(好みの順位)を最適化し各企業の利潤を最大化するように取引することができる(=財の量に矛盾しない)、そういう価格と財の配分の組み合わせをいう。ワルラスやその後の経済学者によって、このような均衡価格が、ある種の条件の下では「存在すること」が、数学的に厳密に証明されている。そして、多くの経済モデルは、ワルラス均衡(または、その派生版)を前提に組み立てられている。
 このような経済学の均衡原理に対して、フォーリ−が問題提起をしているのは、そのようなワルラス均衡が「存在すること」はまあいいとして、それが「どうやって実現されるのか」ということだと思う。計算する、あるいは図示してみればわかるが、ワルラス均衡というのは奇跡のようなバランス状態である。そんな「薄い」状態が本当に実現するのか、実現するとすればそれはどういう理屈なのか。そうフォーリ−は疑問に思っているということだと思う。
 そこでフォーリ−は、「選好最適化(=効用最大化)」と「利潤最大化」をドグマとしない別種のバランス状態を考えた。それが「統計的均衡」なのである。今回、ちゃんと論文を読んでみてわかったのだが、これは最初の設定が経済モデルであるという点を除けば、ほぼ統計物理の初歩の応用と言っていい。ざっくりまとめると次のようなものである。まず、交換経済(各個人が財を持っていて、それを交換する経済)を考える。そして、各個人は、「許容できる取引の集合」を持っている、と仮定する。つまり、その集合に属する取引なら、「実現したらしたらで、ま、いいか、と受けいられる」ような取引の集合のことである。これは、選好とはそれほど矛盾するわけではない。選好の意味で、許容できる財の交換を集めてある、と理解すればいい。さらには、同一の「許容できる取引の集合」を持っている個人が複数(かなりの数)いると仮定する。ここは新規な仮定である。つまり、取引に関して、「ぴったり同一の許容性」を持っている多数の個人を仮定しているのである。その上で、フォーリ−は、実現される全取引の状態が、「市場条件をクリアする中で、最も場合の数が大きくなる」ような取引だとしたのである。(市場条件がクリアされる、とは、どの財についても消費量の合計が初期付与量と一致する、ということ)。これが「統計的均衡」なのだ。ようするに、「どの個人も、ま、いいか、と思える取引で、財の量がつじつまがあっている中で、もっともよく観測される」状態を、均衡としたということである。このとき、場合の数の最大化原理を解く(つまり、、log N!をNlogN−Nに置き換えて微分してゼロを解く)と、(ラグランジュ乗数として)あたかも価格のような係数が各財について定義される。これをフォーリ−は「エントロピー価格(entropy price)」と名付けている。なかなか、おちゃめなネーミングだと思う。
 昔、この論文に触れたときは、モヤモヤした感じが否めなかった。それは、物質現象の理論である統計物理を人間の集団にも当てはめようということに関する拒否感があったからだったと思う。でも、統計物理の原理を前より理解できた今は、むしろ、反対の印象を抱いている。統計物理は、ニュートンの方程式という物質の方程式の持つ情報を余すことなく使ったものではなく、もっと「緩い」原理、要するに「数が膨大に多いことが実現する」という原理だけを使うものである。とすれば、人間の織りなすマクロ現象についても、この原理が(ある程度までは)当てはまっても不思議ではないと思う。ワルラス均衡では、普通、(タトヌマン過程と呼ばれる)調整過程が前提とされ、「時間経過の外側で」選好や利潤が最適化されるまで取引がなされない。(このことについても、拙著『数学的思考の技術』ベスト新書で分析してあるので、参照して欲しい)。しかし、現実の市場取引は、場当たり的に「ま、いいか」という感じで進んでいくものである。と、すれば、「最適化」原理よりも「場合の数最大化」原理のほうが適切だと考えるフォーリ−の発想も妥当なものではないのか。そんなふうに、ぼくの認識も「緩まり」つつあるというわけなのだ。
 モニターした統計物理の本については、刊行される頃にまた紹介するつもり。

数学的思考の技術 (ベスト新書)

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エントロピー (物理学One Point 1)

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物理学とは何だろうか〈上〉 (岩波新書)

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