統計力学が初めてわかった!

 前回の楽しい統計物理 - hiroyukikojimaの日記に書いた、ぼくがモニターをした統計物理の本が刊行されたので、満を持して紹介することにしよう。それは、加藤岳生『ゼロから学ぶ 統計力学講談社という本だ。

ゼロから学ぶ統計力学 (KS自然科学書ピ-ス)

ゼロから学ぶ統計力学 (KS自然科学書ピ-ス)

この本は、いろいろな点で画期的だと思う。何より、とても良くわかるし、その上、読んでて面白い。とりあえず、章タイトルだけを紹介すると、

第1章 統計力学って何だ?
第2章 温度を定義しよう。
第3章 正準統計でお手軽計算。
第4章 自由エネルギーを使いこなそう。
第5章 グランドカノニカルでグランドフィナーレ

というあんばいだ。
大学生で統計物理を勉強したときも、また、卒業後に数学ライターとしての資料として統計物理を勉強したときも、どちらでも同じ「わからん感覚」に遭遇した。第一に、空間とその分割のようなものが定義されるが、それが何をしようとしているのかわからない。第二に、その空間分割の中である種の順列組み合わせの計算がなされるが、何のためにそんなことをするのか、その思想がわからない。第三に、その過程で頻繁に熱力学の法則が引き合いに出されるが、そのつながり具合がわかりずらい上、どれが前提でどれが演繹なのかに混乱してしまう。第四に、現象例がほとんど出てこないか、出てきてもひどく後半になってからのため、具体的なイメージが掴めず、読む進むのがとても辛い。
要するに、著者が自分の頭の中の理解をそのまま垂れ流しているだけなので、学習者には何が何だかさっぱりわからないわけだ。
加藤岳生『ゼロから学ぶ 統計力学講談社は、これらの「わからん感覚」を払拭するためのアイデアが満載だ。だからぼくは、初めて、「なるほど」と膝をたたけるぐらいに統計力学の理解に達したのだ。
どういうアイデアというと、第一に、力学を統計に置き換えるのが、なぜ、そして、どういう風に、ということについて熱弁をふるっている(第1章)。第二に、熱力学を持ち出さないで「温度」の定義をエントロピーから直接に与えている(第2章)。それゆえ、「温度」という重要かつ難解な概念を、特定のモデル(例えば、分子運動論など)に依拠せずに理解できる。第三に、必ずわかりやすい現象例を添えながら説明している(すべての章)。第四に、空間分割のようなものはほとんど出てこないし、出てくる場合には量子力学の原理を使って正当化している。第五に、分配関数の意味が目が覚めるほどわかる(第3章)。第六に、分配関数を使った様々な計算がとても簡単になされ、数学的負担がほとんどない(すべての章)。第七に、これが最もぼくにとって貴重なことだが、統計力学のどこに「科学的論理の飛躍」があるか、どこが「原理として暗黙に認め、実験によって検証されるべきものか」が、包み隠さず、正直に書かれている。
以上を一言で評すれば、ファインマン物理学』のいいとこ取りをしていながら、『ファインマン物理学』にある初学者にはついてけない不親切さを排除している、ということなのだ。
とにかく、随所に出てくる物理現象例にわくわくする。第2章では、「ゴム弾性」の例が出てくる。この例を使いながら、エントロピーを使った温度の計算法を体感させた上、「ゴムが熱すると短くなるのはどうしてか」が解き明かされる。計算は単なる2項分布だからとても簡単だ。第3章では、核スピン(磁石)を例に使って、正準統計の計算を教えてくれる。具体例があるから無味乾燥には思わないし、わくわくしながら計算してみると、「すげー、こんなに簡単な計算なんだ」と驚くことになる。普通の教科書では途中で挫折してしまうが、本書はきっと最後の第5章までたどり着けると思う。そして、この最終章が圧巻である。なぜなら、量子力学ネタが登場するからだ。最初に、ボース統計とフェルミ統計という「粒子の非個別性(粒子を甲乙と区別できない)」が、統計物理の計算から明らかにされる。これがわかると、「断念しないで読んできてよかったあ」という気分になる。そのあと、大正準統計から化学ポテンシャルを説明する。その応用例として、宇宙における白色矮星がなぜ、温度がどんどん冷えるにもかかわらず、重力に逆らって一定の大きさを保てるのか、というフェルミ縮退圧というのが説明される。こりゃ、ロマンティックだわ、と清々しい気分で読み終えられる。
 まあ、モニターに関わったということもあって言うが、すべての統計物理の講義で、本書が教科書または副読本で使われれば、物理学徒に落ちこぼれが出ないようになるのではないかと思う。
 本書のあとがきに書いてあることだが、著者の加藤くんとぼくは、以前に塾の同僚だった。そこで、「中高生に、どうやって数学と物理を教えたら、みんなが数学好き、物理好きになってくれるか」ということを毎日熱く議論した。そして、一緒に、たくさんの塾の教材を作った。これは、塾生たちのためになっただけではなく、加藤くんとぼくの役にもたった。ぼくは、物理学の本質を理解することができ、その後の執筆や経済学の研究に活かすことができている。加藤くんは、たぶん、「面白くて、よくわかる講義とはいかなるものか」ということを体得し、大学での講義に活かせていることと思う。本書を読んで、そのことが実感できた。
 当時、加藤くんは、大学院生で、前途洋々だった。他方、ぼくは、「このまま、一生、しがない塾の先生をしていくのかな」と暗い洞窟の中をさまよっていた。思い起こすと、ぼくが加藤くんを鼓舞すると同時に、ぼくは加藤くんに励まされていたと思う。その後、ぼくの人生は一変し、そして今回、経済学者として、また数学ライターとして、加藤くんの著作を手伝うことができたのは、とても感慨深い。あの頃に議論したことは、全く無駄ではなかったのだ。大胆な言い方をすれば、それこそが現在のぼくを作り出したのだと思う。