算数オリンピックの長尾賞

 算数オリンピックに、長尾賞という新しい賞が今年から設置され、最初の受賞者が決まったことを読売新聞が報じた。「考差点」というコーナーで「子供らに引き継がれる夢」と題した船越翔・記者(科学部)の記事だ。
長尾賞というのは、昨年の10月に31歳の若さで亡くなった数学者・長尾健太郎さんを悼んで設けられた賞。算数オリンピックの小学校3年以下の部門で優秀な成績を収めた参加者に贈られる賞である。小学生のときに算数オリンピックで活躍し、その後、数学オリンピック代表から、数学者へと飛翔していった長尾さんを記念するものだ。長尾さんは、名古屋大学の准教授として表現論や幾何学を研究し、亡くなる寸前に日本数学会建部賢弘特別賞を受賞した。本当に将来を嘱望された数学者だった。(別の新聞社の記事だが、http://sankei.jp.msn.com/life/news/140508/trd14050811000012-n3.htmを参照のこと)。
 実は、船越記者が、この記事以前の記事で長尾賞のことを取り上げたときに、ぼくは船越さんから電話取材を受けている(名前の掲載はなかったけど)。船越さんは、自分と長尾さんとをつなぐ接点として、ぼくに取材の申し込みをしてきたのだ。接点というのは、ぼくの塾講師時代のことである。
 ぼくは、自分が塾講師時代に知り合った同僚さんたちや、生徒さんたちについて、実名を挙げて書くことをできるだけ避けている。中には、「塾に通っていた」とか「塾で教えていた」というのを、隠したい過去とまではいわないまでも、あえて公表したくない人もけっこういるかもしれないからだ。でも、今回、長尾さんと船越さんについては、例外として実名で書いてしまおうと思う。それは、前出の記事で、船越さんが次のような一節を記しているからだ。

実は、中学時代に理数系の学習塾で長尾さんと机を並べたことがある。大学生が取り組む「射影幾何」という難しい数学の問題をすらすら解く姿を見て「本当の天才はいるんだ」と思った。

そう、この「射影幾何」というテキストを書いて、長尾くんと船越くんを教えたのは、他ならないこのぼくなのである。
 長尾くんは、中学1年生のときから、ぼくの塾に入会した。すでに塾業界ではその名は天才として轟いており、彼を教えることになった(なってしまった)ぼくは戦々恐々となっていた。数学の早熟の天才というには、嫌な奴が少なくない。自信過剰で、人を見下し、視線さえ合わせることのできないコミュニケーション障害があったりする。でも、長尾くんはその手のタイプとは違っていた。礼節をわきまえ、物静かで、そして健やかな中学生だった。
 もちろん、その天才性は、想像していた以上だった。
ぼくの記憶では、長尾くんは、塾の中で「一学期に一学年あがる」というような勢いで飛び級して行った。ぼくが勤務した塾では、試験に受かりさえすれば飛び級を許していた。ただし、飛び級のメリットとディメリットについて、きちんと保護者のかたと相談した上で認める、ということであった。学校や塾というのは、単に学科内容を脳みそに刻みこむことだけのものではない。一生つきあう友だちを得たり、等身大の議論をしたり、恋をしたり、けんかをしたり、そういうための場所だ。飛び級をするということは、そういう貴重な機会の一部を放棄することになる、ということを保護者のかたときちんと議論した。
 だから、ぼくが長尾くんを教えたのは、ほんの短い期間だったと思う。それでも、彼の勇姿は鮮烈に記憶に残っている。
ぼくの作ったテキストには、各項目ごとに「とんでもない難問を取りそろえたコーナー」が用意されていた。代数のテキストには「未来のために」と題して、幾何のテキストには「趣味の問題」と題して、『数学セミナー』とか数学科の友人から教えてもらったマニアックな問題を導入した。それらは、中学生の知識で解けるけど、とてつもない努力や発想を要する問題群だった。長尾くんは、それらの問題をいつも自力で解いて、黒板に出て解答を書いてくれた。それは、時に要求された通りの解法であり、時に見たこともない別の発想の新解法であった。ぼくは、いつも、彼の板書を眩しさの中でやっかみとともに眺めたものだった。
 船越さんが記事に書いた「射影幾何」というのは、中学2年生用の最後の教材として、「メネラウスから射影幾何へ」と題した教科書のことだ。
 その塾は、六年一貫校を対象とした塾なので、中学2年までで中学数学を終え、中3は高校の数学1に入る。だから、中学2年の最後というのは、中学数学を卒業する、という意味合いを持っていた。ぼくはそのタイミングの生徒さんたちに、何か鮮烈な内容をプレゼントしたい、と思って、このテキストを書いたのである。高校数学の先取りなどという、さもしい陳腐なことを教えるのではなく、もっとステキな何かを見せてあげたいと思った。それで、「射影幾何」を題材に選んだ。
 射影幾何というのは、パスカルやデザルグによって構築された幾何学である。読んで字のごとく、「影を扱った幾何学」ということだ。17世紀頃には、建築学における透視図法などで「平行線も交わるように描く」ということが、この世界の見え方として、よりリアルであることがわかっていた。言い換えると、平行線というのは「無限遠点で交わる二直線」と捉えるほうがいろいろ便利であることがわかったのである。そのような発想から創出されたのが射影幾何であった。
 射影幾何の威力は、無限遠点を取り替える「射影変換」というのに結晶する。射影変換を行って、平面上の図形を変形してしまうと、ユークリッド幾何ではとても証明が難しい、パッポスの定理、パスカルの定理、デザルグの定理、ニュートンの定理、といった幾何の難問が、比較的簡単に証明できてしまうのである。これは、「違う空間で考察する」「空間的な変換によって、問題を書き換える」という現代数学の手法の萌芽であったんじゃないか、そうぼくには感じられた。だから、こういうことを、とても若くそして賢い生徒さんたちに見せてあげたかったのだ。
 「メネラウスから射影幾何へ」の具体的な構成は次のようになっている。まず、それ以前に学んだ三角形の5心、すなわち、外心、内心、傍心、重心、垂心の外心を除く4つについて、その存在(つまり、三本の直線が共点となること)を、メネラウスの定理とチェバの定理から証明する方法を教える。これは「幾何の問題が代数的な不変量によって解決できる」、という初等的な例である。そして、その後に、パッポスの定理、パスカルの定理、デザルグの定理、ニュートンの定理をメネラウス・チェバの定理で証明する、という非常に困難な問題に挑戦する。これらの定理の証明は、メネラウス・チェバの不変量をもってしても難解なのである。それを一通り終えたあと、2平面の間での中心射影の変換の性質を教える。記憶では、透明なスライドに図形を描いて、懐中電灯で壁に映し出して、実際の射影変換を見せることをしたと思う。そのあと、クライマックスとして、パッポスの定理、パスカルの定理、デザルグの定理、ニュートンの定理(のうちいくつか)の射影変換を使った、鮮やかな証明を見せて終わる、という仕掛けだ。
 船越記者の述懐にもある通り、これは「普通の」生徒さんたちには、とてもハードルの高い教材だったろうと思う。無謀な教育を行ったことについて、多少の罪悪感も感じないではない。でも、「船越さんが今でもこの教材のことを覚えている」、そのことがとても貴重なことなのではないか、とぼくは考えている。できた・できなかった、とか、受かった・落ちた、とか、実際に役立った・役立たなかった、とかだけで教育の価値を測るのはむなしい。数学という人類が培ってきた、ものすごい文化に、どのくらい自分がニアミスしたか、それだって価値あることだと思う。それこそ、20世紀に生まれ21世紀を生きている、ということの証なんじゃないか、と思う。
 実は、長尾さんについては、その後数学者になったことは伝え聞いてたけど、ぼくが見知っていた時期から癌を発症していたなんて全く知らなかった。だから、彼の死にはとても驚き、言葉を失った。数学の天才的な才能と、稀にしか罹患しない癌にかかる、という二重の意味での奇跡が彼に起きたわけだけど、彼が31歳まで数学を続け、数学の道を邁進できたことは、ぼくにとってはとても喜ばしいことだった(少なくとも、癌によって長生きができない体であったとしたら)。「長尾賞」によって、彼の名が、いつまでも数学キッズの記憶に刻まれ続けることを望んでいる。
 しめっぽく終わるのは嫌なので、いつものように、自著の宣伝をくっつけようと思う。
紹介したテキスト「メネラウスから射影幾何へ」のアイデアは、ぼくが刊行した中学生向けの受験参考書『数学ワンダーランド』東京出版に収められている。また、ぼくが塾のテキストのために集めたマニアックでステキな問題たちの一部は、『解法のスーパーテクニック』東京出版と、『キュートな数学名作問題集』ちくまプリマ−新書に収められている。特に、面白い問題を生徒さんたちのために必要とされている数学の先生がたにお勧めしたい。

数学ワンダーランド (高校への数学)

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解法のスーパーテクニック―高校への数学

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キュートな数学名作問題集 (ちくまプリマー新書)

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