宇沢弘文先生は、今でも、ぼくにとってのたった一人の「本物の経済学者」

 経済学者の宇沢弘文先生が、9月18日に86歳でご逝去された。ご高齢だったので、遠からずこの日がやってくることはわかっていたし、覚悟をしてはいたつもりだけど、喪失感は予想以上のものだった。おととい、朝日新聞から電話取材を受け、ぼくの追悼の談話が昨日(9月27日)の朝刊に掲載された。学習院大の宮川さん、東大の吉川さんと肩を並べ、弟子としての談話を載せることができたのが、喪失感の中でのせめてもの慰めとなった。
 この喪失感は、他のすべてのお弟子さんに負けない自信がある。なぜなら、他のお弟子さんたちはすべて、そもそも頭のいい「学問的セレブ」な人たちなので、宇沢先生に出会わなくても、若干専門分野は違っているかもしれないが、間違いなく今の地位を築いただろう。一方、ぼくはといえば、宇沢先生と出会わなければ、経済学を勉強することもなく、研究者になることも大学教員になることもなく、社会の片隅で世をはかなんで拗ねながら暮らしていただろう。宇沢先生は、ぼくの人生を丸ごと変えてしまった「命の恩人」のような人だった。
 さて、今回は、いつにもまして、ものすごく長いエントリーになることを事前にお断りしておく。
 ぼくは、宇沢先生に出会ったことがきっかけで、経済学の道に進むことになった。大学時代ではなく、社会人のときだったから、通常のコースとはまるで異なる。(その辺の詳しい事情は、宇沢師匠のこと - hiroyukikojimaの日記を参照のこと)。
 宇沢先生と出会ったのは、世田谷区の運営する「世田谷市民大学」という市民講座(今も運営されている→世田谷市民大学(2018年度)公開講座受講生追加募集中 | 世田谷区)だった。「大学」という名がついていることからわかるように、ここは単なるカルチャースクールとは異なる。一回ぽっきりの講演ではなく、週一回のゼミがメインのコースとなっている。宇沢先生のゼミを、ぼくは二年間にわたって受講した。週一回を二年間であるから、なんと贅沢な経験をしたことか。
 このゼミで宇沢先生は、御著書を教科書としながら、主に環境問題を主題に、理論経済学の手法に対して批判的な総括をされた。新古典派に関しては、「一刀両断に切って捨てた」と言っていい感じだったが、ケインズ理論に関してはアンビバレントな気持ちがにじみ出ておられた。もちろん、最も確信を持って最も強く主張されたのは、ご自身の「社会的共通資本の理論」であったことは言うまでもない(この理論については、例えば、環境を通じて経済をコントロールする〜社会的共通資本の理論 | ワイアードビジョン アーカイブを参照のこと)。
 受講生は社会人だから、大学でのゼミとは、もちろん、先生の態度は異なっていたと思うが、それでも「お茶を濁す」ようなことはなかった。当時の受講生は、高度成長期の企業戦士たちだったから、日本経済を誇りに思っている人が多く、当時の企業のあり方を「環境汚染の片棒を担いだ」と考える宇沢先生の「虎の尻尾」を、それと気付かずに踏んでしまうこともままあった。受講生が不用意に看過できない発言をすると、先生は一歩も引かずに我慢強く説得を続けた。今思えば、よく怒鳴ることなくがんばってくださったと思う。その真剣で、真摯な先生の学問的な姿勢を見るうちに、ぼくは「こんな人って世の中にいるものなんだ」と、人生観が覆される気分になった。「目を丸くする」とはまさにこのことだと思う。数学を勉強していたときは、教員も学生も「競争主義」「勝利至上主義」「成り上がり目的」があたりまえと思っている体育会系弱肉強食の世界だったので、力のない自分は卑屈になるしかなかった。「数学をすることの意味」なんて、感じることができなかった。宇沢先生の、自分の目的と学問的方法論とを常に検証し続けながら、苦悶の中で理論を生み出していく姿に感動した。
 宇沢先生の講義を受講する中、ぼくは、もっときちんと経済学を知りたいと思うようになった。宇沢先生の提唱する「社会的共通資本の理論」を正確に理解するためには、経済学の方法論をちゃんと勉強したほうがいい、と思えたからだ。当時、宇沢先生は、中央大学に所属されていたので、中央大学の大学院を受験しようと考えて、宇沢先生にお手紙を出した。すぐさま先生は、「自分は大学院生の指導を担当していない、講義も持っていない」とお返事をくださった。それでぼくは、経済学部の研究生になろうと考え、それなら先生のお弟子さんがたくさん所属する東大がいいかなと思いたって、東大に問い合わせたが、研究生の制度はないと言われた。仕方なく、東大の大学院経済学研究科を受験してみることにした。すぐには受からなかろうが、何回か受ければ、一回ぐらい引っかかるだろう、ぐらいの軽い気持ちだった。幸運にも、一回目に合格した。大学院の定員が拡充されていたことが幸いしたし、試験では経済学でなく統計学の問題を選択したのが功を奏したのだと思う。
 大学院に通うようになって、ぼくはいくつかの意味で、失望感を感じることとなった。
 第一は、現代の経済学というものが、ぼくが思っていたもの(宇沢先生に教わったもの)とだいぶ違う、という点だった。数学的にはみごとに精緻で、数理パズルとしてはよく出来ているが、そこには宇沢先生に教わったような「心」が感じられなかった。第二は、大学院生たちの問題意識が、ぼくとあまりにずれていることだった。たくさんの「宇沢先生予備軍」に会えると期待していたぼくは、ひどく落胆することとなった。多くの院生は、経済学の数学的な手法を身にまとうことにご執心で、「何のために経済学を研究しようとしているのか」ということが欠如しているように感じられた。数学科にいたときに感じた、「競争主義」「勝利至上主義」「成り上がり目的」がここにも蔓延していた。
 こういうことを言うと、「何様だ」と怒る人もいるだろう。そう問われるなら、答えは「塾の先生様だ」となる。当時のぼくは、塾の取締役で講師だった。収入も相当あった。そんな中、貴重な時間を割いて、大学院に行っていたのだ。得るものがないなら、すぐに中退しようと思っていた。実際、石川経夫先生(宇沢師匠のこと - hiroyukikojimaの日記を参照)に出会わなければ、本当に退学していたかもしれない。
 最もがっかりしたことは、宇沢先生のことを言うと、少なからぬ院生が、「前期宇沢ですか、後期宇沢ですか」だとか、「宇沢さんは経済学を捨ててしまった」だとか軽々しく口にすることだった。そういう高慢ちきさに閉口した。それでぼくは、院生の人名録の愛読書の欄には、わざと宇沢先生の『成田とは何か』岩波新書を記入した。
 ぼくは、大学院を経て経済学の研究者となる中で、宇沢先生が研究の方法を一変させた理由がひしひしとわかるようになっていった。先生の目標や問題設定は最初からぜんぜん変わっていない。変わったのは、使う方法論のほうなのだ。先生は、主流の経済学の方法論では、自分の主張したいことを構築することが困難であることに直面したのだと思う。数理経済学の中で、あの輝かしい業績を挙げながら、きっと「何か違う、これじゃ違う」という思いがあったのだと思う。そういうところが、嬉々として論文掲載ゲームに興じている「プロ・ゲーマー」たちとは違うところなのだ。限界までがんばった末、先生は、手法を転換した。それを「転向」などと揶揄するむきもあるようだが、先生は思想を変えないために手法を変えたのだから、決して「転向」などしていない、ぼくにはそう思えた。
 実際、先生が関わっておられた小田急線高架反対の環境運動の集会に何度か足を運んだけれど、そこで宇沢先生は、「主流の方法論の中で、経済学の研究をすることに罪悪感があった」というようなことを常々述べておられた(曖昧な記憶で書いているので、ニュアンスしか正しくないと思う)。先生は、河上肇『貧乏物語』を読んで、経済学に目覚め、当初はマルクス主義者になろうとしていた初心があるので、荒唐無稽な数学パズルである主流派の経済学に疑問を持ちながらも論文を生産していくことに自責の念があったのだと想像される。
 ぼくもこの点では、宇沢先生の気持ちを当時よりもリアルに実感するようになった。主流の経済学は、数理言語で設計された「シミュレーション・ゲーム」の類いである。だから、主流の経済学者というのは、単なるシミュレーション・ゲームにゲーム機で興じているゲーマーにすぎない。もちろん、シミュレーション・ゲームだから「無意味」「無価値」だ、などと結論付けるつもりは毛頭ない。物理学だって、シミュレーション・ゲームという点は全く同じだ。ただ、物理学では、そのシミュレーション・ゲームが相当な精度で現実を模写している点が違うのだ。物理学のゲーム画面は、「現実」そのものなのだ。だから、このゲームに興じることは、そのまま現実の問題を解くことになるのである。一方、経済学のゲーム画面は、「現実」とは悲しいほどに遠い。ひょっとすると、「現実と相容れないフィックション」に陥ってさえいるかもしれない。数学というものが宿命的に備える「形而上性」のただ中にいるままなのだ。だから、経済学の結果に「現実」を見ている学者たちというのは、「バーチャル世界」「疑似空間」を現実と混同してしまっている、いわゆる「ゲームおたく」と同じ存在、そうぼくには思えてしまう。
 もちろん、だからと言って、経済学が「完全に無意味」とまでは思わない。経済学のゲーム画面には、「現実に対する寓話性・教訓性」ぐらいは備えているだろう。だから、経済に関する何かを考えたり、実行したりする上での「羅針盤」程度の役割は果たしていると思うし、それはそれでとても大きな貢献とも言える。でも、宇沢先生は、その「ゲーム画面」が耐えられなかったに違いなのだ。なぜなら、宇沢先生が最も心を砕いたのは、貧困や環境問題など、人権に関わる問題だったからだ。宇沢先生は、恵まれない人々や虐げられた人々、そして環境資源などを単なる「パラメーター」に置き換えて、ゲーム画面にキャラクターとしてはめ込むことに大きな抵抗感を持っておられたのだと思う。そうしなくて済む方法を模索するうち、制度学派の手法に与するようになって行ったのではないか。
 以前、宇沢先生とビールを飲んでいるとき、先生が「数学科出身なので、数学にはまだ憧れがある」というようなことをおっしゃったので、ぼくは「先生の経済学のお仕事は、応用数学とも呼べるじゃないですか」と軽い気持ちで返すと、先生は少し硬い表情をされて、「ぼくはそう呼ばれるのがすごく嫌いなのね」と反論された。こういうところにも、先生が、経済学の手法に何を感じておられるかがにじみ出ていたように、今では思い出される。
 大学院の講義では、ときどき宇沢先生の名前が聞かれた。どの先生も、宇沢先生を話題にするとき、決まって「恐い先生だった」と口を揃えた。ぼくは、大学外で知り合ったせいか、恐いと思った体験などみじんもなかった。いつも先生は、温かい励ましの言葉をくださった。塾の先生であろうと、何であろうと、「良い仕事をする」ということでは、貴賤はない、君は君の居場所でとにかく良い仕事を目指すべきだ、そんなふうに鼓舞してくださっているように思えた。著作をお送りすると、必ず、葉書や、メールや、そして直接の言葉で温かな感想や、指針を与えてくださった。経済学者の集まりの中に混じっているときには、必ず、タイミングを見計らって、ぼくを持ち上げてくださった。
 それで思い出すのは、大学院に在学中のときだ。宇沢先生が一度だけ研究報告にいらっしゃった。そのワークショップは、そうそうたるメンバーが聴講者として揃った。宇沢門下生が一堂に会した。報告後、宴席が用意され、ぼくも参加することができ、末席でひっそりとしていた。奥野先生がホスト役で、吉川洋先生や岩井克人先生などが先生を取り囲んで歓談されていた。そんな宴もたけなわのとき、宇沢先生が唐突に、ぼくの名前を出し、「小島くんが修論を送ってくれたので、読んでみたのね」と話題を変えた。そして、「小島くんは、数学科の出身なので、すごく数学が難しくてね、ぼくには理解できないのね」と、冗談を言い放ったのである。そのときの、お弟子さんたちの表情の変化は、すごいものだった。末席にいる、いっかいの院生、名前もしらない馬の骨の修論を、宇沢先生が読んでいるという。お弟子さんたちは、師匠の前に、落ち度があったかのような恐縮する表情になったのを今でも忘れることができない。宇沢先生は、タイミングを見計らって、わざとやったのだと思う。それが宇沢流の励ましの仕方だった。その証拠に、後日、吉川先生が、「あのあと、論文に目を通してみたよ」とぼくに言葉をかけてくださった。
 ぼくは、ずっと、「宇沢弘文の弟子」を名乗ることを躊躇していた。もちろん、大学のゼミ生としての教え子ではなかったからだ。でも、あることをきっかけとして、弟子を堂々と名乗るようになった。そのきっかけは、やはり、小田急線高架の反対運動であった。
 反対運動を主導していた斉藤弁護士から、突然に電話があった。それは、運動集会で宇沢先生が講演をすることになっていたが、海外にいて帰国が間に合わなくなったとのことだった。それで斉藤弁護士が、「ならば弟子に代読をさせて欲しい」とお願いしたところ、宇沢先生からぼくの名前があがったと言われた。ぼくは、そのときは運動に参加してはいなかったが、一も二もなくお引き受けした。そのあと、宇沢先生から直接にお礼の電話をいただいた。先生から電話をいただいたのは、長いお付き合いの中で、そのただ一回であった。先生はひどく恐縮されていたが、ぼくは飛び上がるほどに嬉しかった。先生自身が、ぼくを、「弟子だと公認」してくれたからである。ぼくは、先生の原稿の漢字の読みをすべて辞書で引き(先生は難しい漢字を多用するのである)、何度も朗読の練習をして、集会に臨んだ。その日が、ぼくの宇沢愛弟子デビューとなった。先生からのお礼と言えば、後日の集会のあとの打ち上げで、ビールを奢っていただいたことだった。
 冒頭のほうで書いた通り、ぼくは宇沢先生の思想や経済理論を深く理解するために、経済学の道に進んだ。おかげさまで、市民大学にいたときよりはずっと、経済学というものを理解できたと思う。でも、先生の思想、例えば、「社会的共通資本の理論」を主流の経済学の「ゲーム画面」に乗せるのはひどく難しい、ということにも直面した。まあ、宇沢先生ほどの数理能力に恵まれた人に不可能だったのだから、ぼくのような凡人に無理なのはあたりまえではあるが。けれども、ぼくは宇沢先生のように放棄する気にまではなっていない。宇沢先生が方法論を転換させた70年代のあと、数理的な経済学の手法もじわじわと進歩を続けている。状況は、当時とは若干違っている。ひょっとすると、宇沢先生の主張に貢献できる道もみつかるかもしれない。
 また、小野善康さんからケインズ的な不況動学を教えていただいたことで、宇沢先生のケインズ理論への理解とは少し違う理論的側面があることもわかってきた。これも学者になったことの成果だと思う。小野理論の方向で、宇沢先生の思想への貢献も可能である予感がある。このように、試してみるべきことはまだまだたくさんありそうなのだ。
 情けないことに、初心に反して、ぼくは環境系の論文、貧困問題に関する論文を書くことができていない。それは、宇沢先生が直面したであろう、同じ問題に直面したからである。前述したような、恵まれない人々や虐げられた人々、そして環境資源などを単なる「パラメーター」に置き換えてゲーム画面にキャラクターとしてはめ込むことへの抵抗感、である。それで、ぼくは、制度学派的な手法を用いて、『確率的発想法』NHKブックス(2004)という確率論の本と、『エコロジストのための経済学』東洋経済(2006)いう環境問題の本を執筆した。両方とも先生にお送りしたが、先生は、前者には「たくさんの知らないことがあり、とても勉強になった」と絶賛してくださり、後者には、「コモンズに関する理解が間違っている」という厳しいコメントをくださった。これらは、宇沢先生に教えを受けてスタートしたことへの一つの中間報告のようなものだった。
 でも、ぼくの本当に夢は、宇沢先生の思想を、主流の経済学の方法論の中で再現することなのだ。そして、それを先生にお知らせすることなのだ。
 それは、残念ながら、ぼくの力不足のために果たすことができなかった。もう少しぼくに才能があれば、と無念に思うが、そんな才能があったら、そもそもこんな回り道もしていなかったろうし、宇沢先生に出会うこともなかったろう。どちらがよかったか、と言えば、はっきりと胸を張って、宇沢先生に出会った人生のほうが幸せだった、と言える。無能な自分に乾杯、と言いたい。
 宇沢先生には、りっぱな業績をお見せすることは間に合わなかった(あるいは、無理だった)けれど、少なくとも、「宇沢弘文の愛弟子の一人」として朝日新聞に追悼の談話を載せるぐらいに、社会的に認知されるところまではたどり着いた。それは、本望である。
 ぼくの中では、宇沢弘文が、今でもたった一人の「本物の経済学者」だ。それはぼくの経済学者の定義に依存している。つまり、自家撞着なので、誰にもツッコミは許さない。もう一度言おう。ぼくにとって、宇沢先生だけが、亡くなった今も、これからも、そして永遠に、たった一人の「本物の経済学者」なのだ。だから、冥福は祈らない。宇沢先生には、ぼくの中で、まだまだ生き続けて、いろいろ教えてもらうから。

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