啓文堂新書大賞ノミネート 後半戦

 拙著『数学的決断の技術』朝日新書が、啓文堂新書大賞にノミネートされたことは、前回(啓文堂新書大賞の候補作に選ばれちゃいました! - hiroyukikojimaの日記)にエントリーした。これは、候補の新書12冊でフェアを行い、売上げが一番多かった新書が大賞に選ばれ、二ヶ月の大々的なフェアが行われる、という段取りの賞である。

啓文堂京王線の駅沿いに展開している書店だが、職場の大学が京王線沿いにあるため、ちょくちょくいろんな店舗に立ち寄っている。前回は、明大前店の展示(啓文堂新書大賞の候補作に選ばれちゃいました! - hiroyukikojimaの日記)の様子をアップしたので、今回は、啓文堂渋谷店の写真(勝手に写メしてきた)をアップしよう。渋谷店もよく利用する店舗なので、とても嬉しかった(撮影は6月12日なので、今は違っているかもしれない)。

啓文堂の「〜大賞」がステキだと思うのは、大賞を決めるのが、専門家による選考委員でもなく、単なる書店員でもなく、「書店員さんがピックアップした中から、フェアでお客さんの購買数を競う」という、店員さんとお客さんの共同作業になる、というところである。そして、大賞になったご褒美が、「積極的に販促展開してくれる」というところもすばらしいアイデアだと思う。本に対する愛情がほとばしっているシステムだと思う。(大賞に選ばれようがダメだろうが)こういう書店員さんがたくさんいる本屋で本を買ってあげたいし、皆さんにも「どうせ本を買うなら啓文堂で本を買おうよ」、とアピールしたい。
 そういえば最近、啓文堂が「元少年A」の本の販売を自粛することがニュースになった。このような処置には、さまざまな賛否の意見があるとは思う。でも、ぼくが評価したいのは、書店員さんたちが、本の販売というものと真剣に向かい合い、自分たちの議論と創意工夫によって、「本の売り方」を考えている、という点だ。「受け身の店員」ではなく、「本を売る場、そのムーブメントを作り上げていく」という生き生きとした積極的姿勢がすばらしいと思う。
 「元少年A」の本の刊行と啓文堂の対応とを耳にしたとき、故・宇沢先生があちこちで語った、次のエピソードを思い出した。
1967年に英ポンドの切り下げが一部の専門家の間では明白になっていたことがあった。そのとき、シカゴ大学の著名な経済学者(宇沢先生の同僚)が、コンチネンタル・イリノイ銀行でポンドの空売りを大量に申し込んだ。それに対して窓口の係員が「ノー」と言って、「われわれは紳士であるからそのような申し込みを受け付けるわけにはいかない」と答えた。その教授は非常に怒って、「資本主義ではもうかるチャンスがあるときはもけるのが紳士であって、もうかる機会が目の前にあるのにもうけようとしないものは紳士の名に値しない」と言った。そういうエピソードである。宇沢先生によれば、この頃はコンチネンタル・イリノイ銀行にも金融的節度があったが、のちにはそれを失い、破綻に至ったとのことである。
 今回も、少しだけ、ノミネートされた拙著『数学的決断の技術』朝日新書について中身の解説をしておこう。
この本は、人々が意思決定をするときに、そこに無意識に現れる「癖」を扱ったものである。人はなかなか、自分の選択の癖から離れることはできない。でも、人によっては、その癖のせいで、いつも失敗したり、分の悪い役回りになってしまったりする。とは言っても、その人に内在する癖には、その人の個性と結びついた必然性があるから、簡単には改められないし、むしろ無理に改める必要はないと思う。でも、「自分にはこういう選択の癖があるのだ」と知ることは、損ではない。大事なときに、ここは、というときに、その知識は自分を冷静にしてくれるだろう。ポリシーとして迎合しない、ということも選べるし、清水の舞台から飛び降りる選択もできるだろう。要は、納得して選ぶ、ということである。
 本書のメッセージはもうひとつある。それは、あとがきに書いたことだが、「`可能性'と`行動'は必ずしも分離できるものではない」ということだ。確率的期待値による行動選択では、可能性を列挙し、確率を割り当てて掛け算し、それらから一つの目安となる「利得の平均的数値」を算出し、その比較によって行動を選ぶという枠組みになっている。エディ・カーニという意思決定理論の学者は、必ずしもこの枠組みは正当ではない、と言っている。彼は、「行動」が「可能性」を生み出し、「可能性」が「行動」を導く。そういう意味で、可能性と行動は不可分なものだ、というのだ。(詳しくは、本書の後書きを読んでほしい)。
 このカーニの主張は、じんと胸に染みる。ぼくの人生観とぴったり符合するからだ。
標準的な確率論では、「確率ゼロの事象」は起きないこととして無視する。広大な平原の中に落ちている一筋の髪の毛のような存在だと扱う。でも、ぼくの人生を考えると、全くその正反対だったような気がしている。多くの重要な分岐点では、「確率ゼロの事象」が人生の方向性を変化させた、のである。宇沢先生との出会いも奇跡だし、すばらしい編集者との出会いも奇跡だし、尊敬できる共同研究者たちとの出会いも奇跡だった。これらはみな、表面的には「確率ゼロ」の、一筋の髪の毛にすぎないできごとだったように思える。
 では、どうして、「確率ゼロの事象」が生起するのか。それはたぶん、人間の社会が緊密にリンクしていて、自分には観測できないところで、自分の行動が観測されているからだと思う。だから、きっと、「こんなことをやっても無駄、非効率」という考えなんかは、捨ててしまったほうがいいんじゃないか、と思う。「見える効果」を値踏みして行動するのではなく、「自分には観測できないところに待ち構えている出会い」に希望をかけて、自分の信念に従って行動をすればいいのではないか、そう思うのだ。そこが、カーニのいう、「行動が可能性を作る」ということじゃないだろうか。