ドラマ『地味にスゴイ!』は、派手に面白い!

 今期のドラマでは、日テレの『地味にスゴイ!校閲ガール 河野悦子』が、めちゃめちゃ面白い。とりわけ、自分が出版にかかわってきただけに、笑えるところ、身につまされるところが満載である。
 主役の河野悦子を演じている石原さとみさんが、もうサイコーである。演技がこれまでの殻を突き抜けて、すごい境地に至った感じがする。個人的には、シン・ゴジラでの賛否渦巻いた演技が好きだったから、この経験を経て頭抜けたのかな、と思う(『シン・ゴジラ』のぼくの感想は、シン・ゴジラ観てきた。シン・ゴジラ観るべし - hiroyukikojimaの日記にて)。さとみちゃんの作品で観た最も古いものは、包帯クラブだけど、そのときに比べると(見た目が)別人だと思う(『包帯クラブ』は、観てなければ絶対観るべきだと思う。ぼくの感想は、青春は、今も昔も、痛々しくて美しい - hiroyukikojimaの日記にて)。
でも、今回、さとみちゃんに負けず劣らずすばらしいのが、ばっさー(本田翼)ちゃんの演技だ。ばっさーは、缶コーヒーのCMで惚れて以降、めちゃくちゃ好物の女優なのだけど、今回もいいキャラを演じている。彼女は、サプリ・ロボとか、ゲームキャラとか、非人間キャラを演じるとぼくのツボ。とりわけ、『ヴァンパイア・ヘブン』での大政絢ちゃんとの吸血鬼ものはすばらしかった。一方、『恋仲』では、痛々しい恋愛模様も演じられるようになり、成長著しい。今回も、ばっさーの新しい側面を観ることができて、大満足である。
 さて、このドラマを観ると、これまでの、本作りでのトラブルや、校閲さんとの戦いが思い出されて、身につまされる
ドラマでも「表紙でのミス」というトラブルが描かれていたが、ぼくもその経験がある。ぼくの最初の本、『解法のスーパーテクニック』東京出版を刊行したときだった。これは、受験雑誌『高校への数学』東京出版での2年分の連載を書籍化したもので、中学生向けの受験参考書である。

この本が刷り上がったとき、表紙にぼくの名前がなかった。背中には印字されているんだけど、表紙には全くない。つまり、著者が誰だかわからないようになっていた。それで、営業担当者に聞いてみたら、「デザイン上、入れる余地がなかった」と言われた。今考えると、編集者か営業担当かデザイナーか印刷所か、誰かのミスであろう。でもぼくは、本を出版した経験がなかったし、そんなものかな、と納得しようとした。この出版社は、ほとんど単行本は出さず、雑誌以外はその増刊号だから、ぼくの本も「増刊号」のような意識でいたのかな、と諦めかけた。でも、妻や同僚が、「それはおかしい」と強く主張したので、担当者に掛け合ったら、「それでは、増刷からは名前を入れます」ということになった。そして、約束通り、増刷から表紙のぼくの名前が入った。ドラマを観る限り、このミスは、プロの作家に対してやったら大変なことになって、刷り直しだっただろう。この参考書は、25年以上経った今でも生きながらえ、20刷ぐらいに達している。
 他の出版社の雑誌編集者から「表紙の刷り直し」というのを聞いた経験もある。それは、実は、ぼくが遠巻きに関与していた。ぼくが、ある人を「非常に偏屈で、怒りっぽく、面倒な人だ」とその編集者に話したことがあった。その人の名前は、変わった字体の漢字を使っていた。編集者は表紙の執筆者のその人の名前のロゴを間違えてしまったのだそうだ。ぼくから「気難しい人」と聞いていたため、トラブルを恐れて、表紙の刷り直しを英断したと、お礼とともに内緒で教えてくれた。
 ぼくは、40冊近くの本を書いてきたけど、校閲さんにはいろいろな印象を抱いてきた。ドラマの河野悦子さんとは違って、校閲さんとはいまだに一人としてお会いしたことがない。ドラマの中で語られているように、校閲さんは縁の下の力持ちに徹し、表には出てこないものなのだろう。
 本を書き始めた初期のことだ。ある本を書き上げて、ゲラをもらったとき、校閲さんのあまりの書き込みに辟易としてしまったことがあった。字句の間違いや表現の統一については、その通りだし、仕方ないと思えた。しかし、その校閲さんは、表現形式にまで口を出してきた。要するに、「自分の文体の嗜好」まで押しつけられているように感じたのである。当時のぼくは駆け出しだったし、「文体」や「表現」に(青臭い)こだわりがあった。だから、これには面倒さを通り越して怒りさえ感じた。まるで、校閲さんが目の前にいて、二人で口論している気持ちにさえなった。胃が重くなった。
それでぼくは、担当編集者に苦情を言った。その編集者も駆け出しで、若い人だった。編集者は、「校閲さんは、新人で、しゃかりきにがんばっています。正規雇用を獲得したいんだと思います」というような弁解をした。「毎日、国会図書館に通い詰めて、細かいところまで綿密に詰めているみたいです」と。それを聞いて、ぼくはなんか、逆に悪いことを言ってしまった気分になった。抵抗に抵抗を込めたぼくの初稿返しで、今度はその校閲さんが、ぼくが味わったような不快感や憤りを味わっているのかもな、と。
 でも、あとあとになって、この一件は、校閲さんの問題ではなく、編集者の問題だったとわかった。
講談社新書で『文系のための数学教室』を出したときだった。編集者は、阿佐信一さんだった(阿佐さんについては、編集者は、世界でたった一人の味方 - hiroyukikojimaの日記を参照のこと)。刊行が終わったあとの打ち上げで、ぼくは阿佐さんに、いかに今回の執筆が気持ちよくできたかについて話して、お礼を言った。とりわけ、校閲さんとのやりとりが的確で気持ちよかったと。阿佐さんが不思議そうな顔をしたので、上記の、校閲さんとの死闘の思い出を説明した。それを聞いた阿佐さんは、笑いながら、「うちの校閲さんも、多かれ少なかれ、そういう細かさです。ただ、私だけで判断できるものついては、私が責任を持って判断し、ゲラには反映せず、著者さんにはお見せしていないんですよ」と教えてくれた。ぼくはそれを聞いて、真相がわかった。上記の死闘は、校閲さんのせいではなく、若い、駆け出しの、経験不足な編集者のせいだったのだ、と。
 それ以来、ぼくは、本を執筆するたびに好奇心を持ってゲラと接するようになれた。観察するだに、編集者によって、校閲の反映の仕方が違っている。そして、ぼくは、ゲラを通して、編集者の向こうにいる姿の見えない校閲さんと膝を詰めて議論をすることになる。それは、まるで、異次元から届いた手紙のようなものだ。誰とも知らない、どんな顔をした人か、男性か女性か、若いのかシニアなのか、何もわからない人と、ただただ、文章についてのみ議論をしている。これは考えようによっては、とてもスゴイことだ。時には、「この人とは感覚が合わないなあ」と思うこともある。別の時には、「友情のようなものさえ感じる」こともある。そうやって、ぼくは書き手として、少しずつ成長してきているのだと思う。
 でもきっと、校閲さんも、本が無事できたとき、著者や編集者と同じくらい、あるいはそれ以上の喜びを持って、本を読んでくれるのだと思う。ぼくは、世界のどこかに(異次元の世界に)、ひっそりと、ぼくの本の刊行を愛でてくれている人がもう一人いることを、とても誇らしく、ありがたく思うようになった。