酔いどれ日記21

今夜のワインは、Massaiという赤ワイン。値段のわりには複雑な味わいがある。久々に音楽のことを書こう。

最近、ヨルシカのライブ映像『月光』を観た。これは、今年の3月に行われたライブを収録したもの。あまりのすばらしさにもう10回以上観ている。水族館で行ったライブ映像『前世』も良かったが、ストリングス中心の『前世』よりも、演奏がハードなこの『月光』のほうが好きだ。

何がすばらしいって、ライブが一つの物語になっている。n-bunaさんのモノローグを挟みながら、アルバム『だから僕は音楽を辞めた』とアルバム『エルマ』の曲をつないでひとつの物語として構成していく。こんなライブ、観たことない。ライブの概念を完全に突き破っている。言ってみれば、踊りのないミュージカル、演技のない演劇、会話のない映画、という風情だ。歴史に残る作品だと思う。

物語は、「僕」がエルマという女の子に贈る詩と手紙を綴るための「旅」。ボーカルのsuisさんは、フォルムとしてはエルマを体現しながら、「僕」の物語を歌い綴っていく。その二重性があまりにすばらしい。n-bunaさんのモノローグも感涙もので、彼はいつか文学賞を受賞しちゃうんじゃないか、とさえ予感してしまう。

あと、最近はまっているのは、YOASOBIのベーシストやまもとひかるさんがyoutubeにアップロードしているベースコピーの映像だ。YOASOBIの「夜に駆ける」のベース演奏を聴いて、めっちゃすげえな、と思って彼女のyoutubeを観てのけぞってしまった。めっちゃ巧いし、何よりかわいい(笑)。

例えば↓

https://www.youtube.com/watch?v=7lW1nvinVag

あるいはこれ↓

https://www.youtube.com/watch?v=c_3xd9tNDSc

彼女のベースコピーを観てると、ベースという楽器の魅力がわかる。ひかるちゃんには、いずれジャコ・パストリアスみたいなベーシストになってほしい。ついでだから、ジャコのプレイもリンクをはっておこう。ジャコの演奏ではウェザーリポートのものが有名だけど、ぼくはジョニー・ミッチェルのサポートのときの演奏が好きだ。例えば、次の2曲。マイケル・ブレッカーパット・メセニーも加わってて、あまりの豪華メンバーだ。

https://www.youtube.com/watch?v=JnpyCEUESEw

https://www.youtube.com/watch?v=IbkKFDHmTik

ひかるちゃんは、きっとこういうベースに到達するに違いない(決めつけ)。

 さて、これで終わったら、ぼくが何の人かわからないので、経済学のこともちょっとだけ書くことにする。

前回と前々回に宣伝したように、先週ぼくは、京都大学での『社会的共通資本と未来』というシンポジウムに登壇した。さまざまな角度から社会的共通資本にアプローチする実り豊かなシンポジウムになったと思う。

ぼくの報告は、経済学の立場から社会的共通資本を総合的に分析するものだった。その中にぼくは、「現在の経済理論はどこがダメか」という議論を差し挟んだ。宇沢先生によって経済学に目覚めさせられ、思いあふれて大学院で専門的な訓練を受け、いくつかの論文も公刊した上で、たどりついた問題意識がこれだった。

議論の一つにぼくは、「経済学がニュートン力学を模倣していること」を挙げた。ワルラス一般均衡理論は、まるで「質点の力学」とそっくりだと思ったからだ。だけど、ニュートン力学は、その創造において、ティコ・ブラーエとケプラーの膨大な天文観測データをバックボーンにしている。つまり、「生の現実」を出発点にしている。それに対して、一般均衡理論の創造にはそのようなバックボーンはなかった。そういう意味で、出発点においてまったくダメダメだと思うのだ。

ぼくは、ワルラス一般均衡理論がニュートン力学を模倣している、という確信はあったが、証拠はもっていなかった。ただの「自信のある憶測」だった。そこで、ちょっと前に入手した重田園江『ホモ・エコノミクスちくま新書を満を持して読んでみた。ホモ・エコノミクスというのは「合理的経済人」のことで、自己の利益を執拗に合理性をもって追求する経済主体のことをいう。この本は、このホモ・エコノミクスという言葉や概念がどういうふうに成立したかを追う思想史の本だ。

 

予感が当たって、この本には、ワルラス一般均衡理論をどうやって発想したかが掘り起こしてあった。思った通り、ワルラスニュートン力学を模倣したそうなのである。引用しよう。

ミロウスキーの『光と熱』によると、ワルラス1860年にすでに、経済現象を物理学の法則を用いて表現することに関心を持っていたようだ。このとき、ワルラスの構想は、ニュートン万有引力の法則の単純な当てはめだった。それは「商品の価格は供給量に反比例し需要量に比例する」というものだった。

やっぱりそうか、と溜飲が下がった。ぼくの経済理論批判は根拠を得たように思う。

実は、著者の重田さんとは面識がある。ぼくが、30代後半で大学院に入学した頃、駒場で院生によって行われていたセミナーに参加させてもらったのだが、その中に重田さんもいた。そのセミナーは科学哲学の専門家、日本思想史の専門家、経済学説史の専門家などバラエティに富んだメンバーで構成され、重田さんはフランス哲学の専門家だった。

そのセミナーでは、確率・統計の思想的背景について輪読をした。イアン・ハッキングの著作を読み込んだ。このセミナーがぼくのその後の著作や研究に決定的な方向性を与えることになったのだった。

重田さんは、当時から非常にディープで綿密な読み込みをしていた。本書にも彼女のそのマニアックな特徴がいい意味で活かされている。非常に執拗に、非常に厳密に、経済学説史を掘り起こし、網羅的に解説している。研究というより、「蒐集」と評したいぐらいだ。われわれ経済学者には、垂涎の本だと言える。ただ一つ、苦言を呈するなら、(セミナー当時からそうだったが)数学に対するひどいアレルギーはそろそろ払拭してほしい。本書にもところどころに弁明が書かれている。めちゃめちゃクレバーな人なんだから、数学も勉強してみればなんてことないんだとわかると思うんだけど。

 奇遇なことにも、この本の編集者はぼくが刊行した3冊のちくま新書の編集者と同一人物なのだ。世の中、広いようで狭いね。まあ、鼻がきく編集者だということなんだと思う(自画自賛)。

 一般均衡にちょっとだけでも関係あるぼくの本は一冊だけある。これ↓

 

 

 

 

 

京都大学寄付講座のシンポジウムに登壇します。

前回エントリーした通り、創設された「社会的共通資本と未来寄附研究部門」のシンポジウムに登壇することになりました。申し込みは、

 

www.kyoto-u.ac.jp

 

のホームページから出来ます。あるいは、直で下のリンクから申し込みできます。

『社会的共通資本と未来』寄付研究部門創設記念シンポジウム参加申し込み

 

プログラムは、以下のようになっています。

オープニングトーク  

「創設を祝して」久能祐子(京都大学 理事)
「社会的共通資本とは」占部まり(宇沢国際学館代表取締役

基調講演

「協生農法と拡張生態系 〜自然-社会共通資本のビジョンと本研究部門の方法序説
舩橋真俊(京都大学人と社会の未来研究院特定教授(社会的共通資本と未来寄附研究部門)) 

講演1

「経済学からみる社会的共通資本」
小島寛之帝京大学経済学部 教授)

講演2

「ポスト資本主義のビジョン」
広井良典京都大学人と社会の未来研究院 教授) 

講演3

「寄附と利他行動の未来」
渡邉文隆(信州大学社会基盤研究所 特任講師/京都大学経営管理教育部博士後期課程)

パネルディスカッション

「理論と実装の両輪の意義」 
 ファシリテート:占部まり(宇沢国際学館代表取締役

閉会の挨拶

宇佐美文理(京都大学副学長/人と社会の未来研究院長/文学研究科教授)

このシンポジウムでぼくは、宇沢先生の社会的共通資本の理論に対して、要約や概説ではなく、未来の方向性(可能性)を示唆する講演を試みたいと思う。それは、当然、経済学の現状に対する批判ともなるし、そして、経済学の枠を超えたインターディシプリナリーな方法論を宣言することになると思う。現在ぼくの考えていることのありったけを詰め込むつもりだ。是非ともオンラインで参加していただきたい。

以前、拙著『宇沢弘文の数学』青土社にもその一端を書いたけど、それをさらにブラッシュアップした内容になると思う。(だから買って前もって読んでおいてね。笑)。

 

 

 

国際経済の方程式

 まず最初に、ぼくが登壇予定のシンポジウムの宣伝をしよう。

 

『社会的共通資本と未来』寄附研究部門開講記念シンポジウム    

(タイトル)社会的共通資本のあり方とその未来を考える

(開催概要)2022年7月23日土曜日 13~17時

(開催場所) 京都大学稲盛財団記念館 および オンライン 

 

これは、今年、京都大学に創設された宇沢先生の社会的共通資本の理論に関する寄付講座の開講記念のシンポジウム。詳しいことは、プログラムと聴講の申し込み方法が確定したらここにエントリーしたいと思う。ふるってご参加いただきたい。 

 さて今回は、以前のエントリー、資本主義の方程式およびケインズ消費関数のどこが間違いかに続いて、再度、小野善康『資本主義の方程式』中公新書を紹介したい。したがって、これを読む前に、リンクを貼った2つのエントリーを読んでおいてほしい。

小野さんのこの本の大きなウリは、国際経済学の解説が導入されていることだ。小野さんは、これまでも数冊、国際経済学の解説書を上梓してきたけど(例えば、『景気と国際金融』岩波新書)、不況理論の方程式として国際経済バージョンの方程式を提供したのは初めてじゃないかと思う。

本書における小野さんの解説はおおまかには次の3点である。

1. 国際経済でも、基本方程式が小さな修正で成り立つ

2. 成長経済と成熟経済では、成長戦略や経済政策の効果が真逆になる

3. 普及している旧ケインズ経済学のマンデル・フレミング・モデルは根本的に間違っている

 今、日本の世の中ではインフレが取り沙汰されており、連日、テレビで取りあげられ、日銀の金融政策がやり玉にあがっている。1~3について説明する前にまず、この点に関連する小野さんの記述を引用することにしよう。曰く。

成熟経済では、資産選好が消費選好よりも強くなっているため、貨幣供給量が増えても人々は資産を貯めるだけであり、モノの購入を増やそうとはしない。そのため、金融緩和は物価にも経常収支にも何の影響も与えず、円安圧力も生まれない。このような成熟経済での金融緩和の無効性は、第3章で議論した閉鎖経済での結論とも整合的である。

(ちなみに、閉鎖経済とは、貿易を考えない鎖国状態の経済のこと。他方、開放経済が貿易のある経済)。テレビニュースでは、「アメリカの金利が高く、日本の金利が低いため、その金利差から円安になって行く」ってなことをエコノミストがこれみよがしに解説しているけど、小野さんが「それは嘘だぜ」ということを書いている、為替についての説明も引用しよう。

開放経済における景気の動きを考えるとき、為替レートの絶対水準(1ドルが何円か)と変化率(年率何%で変化するか)の働きをはっきり区別する必要がある。(中略)。

為替レートの変化率は、国内資産と外国資産との利子率の違いを埋めるものである。開放経済では、国内外の金融資産を自由に選択できるため、両者の利子率に違いがあれば、不利な資産を有利な資産に交換しようとして、巨額の資産がすぐに動き出す。いま、ドル建て債券の円換算での利子率を考えると、それは、ドル建ての利子率とドル円交換レート(1ドル何円)の変化率(1ドルが円換算で年率何%上がっていくか)の合計となる。この値が、世界中の投資家の資産選択行動によって、円建て債券の円建ての利子率と一致するように、為替レートの変化率が決まる。つまり、為替レートの変化率は、2つの通貨建て利子率の差をカバーしている。

これは小野さんの個人的主張ではなく、国際経済学の教科書なら必ず書いてあるロジックだ。このロジックを現状にあてはめるなら、「今現在、アメリカの金利が高く日本の金利が低いから、これから円安になっていく」というのは間違いということになる。なぜなら、円で貯蓄すると金利が低くおまけに円安になって減価するというのが本当なら、誰も円など保有しなくなる。それでは円を売ってドルを買いたい人に対して円をドルで買ってあげる人など誰もいなくなるはず。それでは為替取引が成立しない。円をドルで買う人がちゃんと存在するのは、「これから円が高くなる」と推論している人が(逆の推論の人と同数)いるからに他ならない。そういう意味で、均衡では、円保有はドル保有と無差別になるということなのだ。

 さて、それでは国際経済の基本方程式を紹介しよう。そのためにまず、「国民所得と総需要の関係式」を作る必要がある。それは、

 経常収支=rb^*+y-(c+g+i)=0

という式だ。ここで、b^*は対外純資産を表す(外国人が日本の資産を保有している分はマイナスとカウントする)。したがって、それに実質利子率rを掛けたrb^*が「所得収支」になる(利子・配当純取引)。一方、y国内総生産c+g+iは消費需要cと政府需要gと投資需要iの和であり総需要にあたる。したがって、y-(c+g+i)は貿易収支(輸出-輸入)にあたる。この値がプラスなら、生産物から総需要を取り除いても余りが出るから、それは輸出が輸入を超過する分になり、マイナスなら逆になる。

小野さんは、この式を「経常収支=0」という等式にしている。それは、経常収支がプラス(黒字)なら、円高の方向に為替レートの調整が生じ、経常収支が0になるまでそれが続くからである。つまり、この式は、瞬間瞬間で成り立つものではなく、為替レートの調整後の「市場均衡」下で成り立つ式ということだ。この等式から、結局、

 y=c+g+i-rb^*

という等式が導かれる。その上で、基本方程式は閉鎖経済の場合と同じで、

\bar{\delta}(c)=\rho+\pi where \pi=\alpha(\frac{y-y^f}{y^f})

となる。詳しくは、資本主義の方程式のエントリーを参照してほしいが、\rhoは「時間選好率」(消費を先延ばしにするときのご褒美分)、 \piは「インフレ率」。そして、\bar{\delta}(c)は「資産プレミアム」(資産を保有することによって得られる効用)。これは普通、資産保有額にも依存するが、成熟経済では資産には無反応になると仮定される。y^fは供給能力(完全雇用で達成できる生産水準)。これと現実の総需要yの開きに応じて、デフレやインフレが起きることを表すのがwhere以下の式の意味だ。

したがって、消費関数は、 y=c+g+i-rb^*の制約の下で、\bar{\delta}(c)=\rho+\alpha(\frac{y-y^f}{y^f})cについて解けばよい。詳しくは、ケインズ消費関数のどこが間違いかを読んでほしいが、y=c(y;y^f)+i+g-rb^*が45°線と交わるところ(ケインジアンクロス)を求めればよい。閉鎖経済と異なるのは、-rb^*の存在だけだ。

したがって、政府支出gを増やすと直線が上方にシフトするので、総需要は増加し、国内総生産は増加する。「財政政策が景気に効く」ということが結論できる。これはマンデル・フレミング・モデルと真逆の結論となっている。

 さらに、小野さんはこの基本方程式を使って、「国内企業が生産性を向上させると、かえって景気を悪化させる」という一見パラドキシカルな結論を導いている。「成長戦略」なんて逆効果だ、ということだ。言葉で説明している部分を引用しよう。

成熟経済なら、すでの消費が十分に大きく、資産選好が強くなって消費意欲が下がっているから、消費が伸びず、生産の増加分がそのまま経常収支に積み上がって、過度な黒字化が起こる。これは円高を呼び、自国製品の国際価格が上昇する。円高は、自国製品の国際価格を以前の水準にまで押し上げ、海外需要をもとの水準に引き下げるまでなっても、まだ終わらない。その理由は同じ量を作っても生産性上昇で雇用が以前より減っているため、デフレが以前より悪化し、それが国内消費を低く抑えて国内製品への総需要が以前より下がり、経常収支の黒字が残ってしまうからである。そのため、円高がさらに進んで自国企業が以前より国際競争力を失い、生産がもとの水準より下がって、ようやく経常収支のバランスが回復する。その結果、デフレも消費も雇用も、すべて以前より悪くなってしまう。

以上のことはもちろん、基本方程式を用いて、ちゃんとモデルの中で導出している。それは本を参照してほしい。あと、マンデル・フレミング・モデルの間違いについても本を参照してもらいたい。

 正直に告白すると、国際経済学はぼくの中では鬼門で、今まであまりちゃんと理解しないで来た。けれども、小野不況理論を材料にすることで、今回、かなりの理解に達することができた。その勢いで、小野善康『国際マクロ経済学岩波書店まで購入してしまった。この夏はこの本で、国際マクロ経済学を自分のものにしようと思っておるのだ。

 

 

 

 

 

 

酔いどれ日記20

今夜は、最初に、シャンパンのBliard-Morisetというのを飲んでる。実にうまい。

最近、2本の映画を観たのだけど、今日はそのうちの1本、映画「ZAPPA」のことをエントリーしよう。

新宿の映画館で観た。もう上映期間も終わりに近づいているので、客は数人だった。これは、ロックアーティストのフランク・ザッパのドキュメントで、アレックス・ウィンターという人が監督した作品だ。ザッパのインタビューと様々な映像、ザッパバンドのメンバーだったミュージシャンのインタビューから構成されている。

ライブ映像はそんなに扱われないけど、ずっとザッパの曲がBGMに鳴っているので、気持ちよく観ていられる。この映画を観ると、ザッパがいかに異端のロックアーティストで、いかに孤高の作曲家だったかがわかる。ロックもジャズもクラッシックも超越したところでザッパは曲作りをしていた。

面白かったのは、ザッパが望んだわけではないのに、「政治」と無関係ではいられなかったことだった。まあ、映画がそういう撮り方をしているというのもあるけど。

最初のシーンは、チェコスロバキアでのライブだ。この国からロシア軍が撤退した祝賀のライブであった。まさにこの今、このシーンから映画が始まるというのは、偶然とは言え、感慨深い。

ザッパはアンチ共和党の急先鋒として有名だったが、いろいろな政治問題に担ぎ出されていたことも知った。そんなに政治的な人ではないと思うのだが、いろいろな事情で政治に巻きこまれることになったようだ。

それはともかく、最も驚いたのは、ザッパが貧乏な家庭の出身で、さらには、物心つくまで音楽のおの字にも興味がなかったことだった。この映画を観るまではなぜか、ぼくはザッパのことを、裕福な家庭に生まれ、音楽の英才教育を受けた人だとばかり思っていた。そう思うくらい、ザッパの音楽は堂に入っていたのだ。しかしそれは全くの誤解で、実はザッパは、ヴァレーズの曲を聴いたことをきっかけに音楽に目覚め、いきなりオーケストラ・スコアを書いてしまったというから驚く。ザッパは、映画音楽も現代クラッシック曲も書いているが、初心がヴァレーズであれば「なるほど」と納得できた。

ぼくがザッパを聴いたのは、塾でバイトしていた時代の同僚の影響だった。その人はドラマーだったので、リズムの凝っているザッパの音楽のファンだったのだ。ぼくは、彼の影響で、今まで全く興味のなかったドラム演奏に興味を持つようになった。それまでは、ライブでのドラムソロは、おトイレタイムぐらいに思っていた。でも、ザッパのライブ映像を観て、ドラムこそ、最高の楽器だと思うようになった。それ以来、音楽はドラムで聴くようになってしまった。ザッパバンドのパーカッショニストだったルース・アンダーウッドが、映画のインタビューで、「リズム楽器はオーケストラでは脇役だったが、ザッパの曲ではメインだったから、オーケストラをやめてザッパバンドに入った」というような趣旨の発言をしていた。まさに、ザッパはリズムの人だったんだ。

ここから、赤ワインClerc Milonにきりかわる。

ザッパは大統領選挙の年に必ずライブツアーをして、共和党をこきおろして歩いた。ぼくは、90年代のあるとき、翌年が大統領選挙であることから、ザッパがツアーをすると推測して、アメリカ在住の友達にチケットを入手してくれるように頼んだ。しかし、残念ながら、ザッパが癌に罹患したためツアーは中止になってしまった。ぼくはアメリカでライブを観る夢を諦めざるを得なくなった。そして、ザッパがその癌で死に至ったので、結局ライブを観る夢は叶わなかった。

ザッパの音感が半端ないことは、クラッシックのアーティストたちが注目していたことからわかる。例えば、クロノス・カルテットもザッパに作曲を依頼していた。ジュリアード出身の天才ギターリストのスティーブ・ヴァイは、ザッパの曲「ブラックページ」を「他にはあり得ない作曲」と述べた。同じく音大出身のルースが「ブラックページ」をピアノで記憶をたぐり寄せながら演奏するシーンは感涙ものだった。

 ぼくはザッパの音楽を聴いていたころ、ザッパ以外の音楽は退屈で聴けなくなり、長い間ザッパの曲しか聴かない日々が続いた。もうこんなことは二度とないだろうと思ったんだけど、それが再来した。それはバンド「ずっと真夜中でいいのに」を聴いている今だ。ずとまよのACAねさんの曲は、まさにザッパの再来で、彼女の曲にはまってしまうと他のいかなる音楽も、本当に退屈で聴けなくなってしまった。もちろん、ACAねさんはザッパなんか聴いたことがないかもしれない。でもぼくは、彼女の音楽のあり方に、ザッパの影を見てしまうのだな。

ザッパが諧謔的で猥雑な歌詞ではなくて、もっと普通の、ぐっとくる歌詞を書いていれば、ザッパの曲はビートルズなみの伝説になっていたと思うのだが、まあ、それではザッパではないから仕方なよね。

 

 

酔いどれ日記19

 今夜は、アイラウイスキーハイボールを飲んでいる。それは、焼肉を食べにいって、生ビールをしこたま飲んだので、ワインを経由せずに仕上げにかかっているからだ。

 さて、先日、庵野さんの映画「シン・ウルトラマン」を観てきた。非常に面白かった。堪能できた。ぼくは、もろにウルトラマン世代だ。小学校低学年のときにリアルタイムで観た。それこそ、外で遊んでいても、走って帰宅して観たものだった。

そんなぼくだからか、そんなぼくでもか、シン・ウルトラマンは楽しかった。「シン・ゴジラ」の感動ほどではないにしても、十分評価できる作品だった。その一番の原因は、「シン・ウルトラマンには、オリジナルのウルトラマンに欠けているものが補充されている」からだ。オリジナルのウルトラマンに欠けていたのは「SF的要素」だったのだと今では思う。ビームをかざすとなぜウルトラマンは巨大化するのか、ウルトラマンはなぜ空を飛べるのか、スペシウム光線とはいったい何なのか。これらもろもろのことに説明が成されなかった(たしか、記憶では)。でも、庵野シナリオではそれは逐一説明されていたのだ。ときに「ほほう」、ときに「それかい」という具合で。これにはまじで感心した。

 怪獣と星人のセレクトも申し分なし。最後も、「そうだよね、それ以外ないよね」というエンディング。全く文句なしですわ。

 さて、これだけで終わったらあかんので、少しだけ数学の思い出を書こうと思う。今回は、森嶋太郎「ふぇるまあノ問題」という本だ。

ぼくは、これまでこのブログでも、著作でも、ぼくが中学生のときに数学にはまったきっかけを「フェルマーの大定理」だと書いてきた。この定理は、「nが3以上の整数のとき、x^n+y^n=z^nを満たす自然数x,y,zは存在しない」というものだ。それに嘘偽りはなく、自分が生きているうちにこの未解決問題が解決したのは、最高の幸せだったと言わざるを得ない。しかも、数学ライターとして、その報道に関わることができたのも誇らしいことだった。

その「フェルマーの大定理」について、たしか、高校生のとき、森嶋太郎という数学者が「ふぇるまあノ問題」という本を上梓していることを知った。しかし、書店はもとより、通常の図書館にさえ、この本は置かれていなかった。どういうきっかけでかは覚えてはいないが、東大の総合図書館にはこの本が存在することを知った。それで、もしも東大に入学することができれば、真っ先にこの本を借りに行こうと、それを心の支えに、受験勉強に励んだのだった。

 森嶋太郎の本に書かれていたのは、「フェルマーの商」と呼ばれるアイテムだった。ご存じの人が多いと思うが、「フェルマーの小定理」というのがあって、それは、「p素数とし、apの倍数でない自然数とするとき、a^{p-1}-1pの倍数となる」というものだ(証明は、拙著『世界は素数でできている』角川新書、または、素数ほどステキな数はない』技術評論社で読んでね)。したがって、 (a^{p-1}-1)/pは整数となる。これを「フェルマーの商」と呼び、q(a)と記される。

この「フェルマーの商」について、驚くべき定理が得られたのだ。ヴェィフェリッヒという人が1909年に次の定理を得たらしいのだ。

「奇素数lについて、x^l+y^l=z^lの成り立つ自然数x,y,z(ただし、自然数x,y,z,lは互いに素)が存在するなら、q(2)lで割り切れる」

というものだ。ここで「q(2)lで割り切れる」というのは、2^{l-1}-1lで割った「フェルマーの商」は、もう一度lで割り切れる、というのだ。言い換えれば、2^{l-1}-1l^2で割り切れる、ということである。こんなことが簡単に起きるわけがない。これは、「フェルマーの大定理が正しい」という強い傍証となるように思える。何より、フェルマーの大定理フェルマーの小定理と結びつけられるのだから、こんな奇跡のような定理はないではないか。ぼくはこの定理を知って、非常に興奮したのを覚えている。

その後、フロベニウスとマリマノフが「q(3)lで割り切れる」も証明したとのこと。そして、このたぐいの定理が次々と更新され、森嶋もその拡張者の一人なのである。

森嶋太郎「ふぇるまあノ問題」を絶対入手したい、というぼくの想いはどんどん募っていった。一年の浪人の末、東大入学を果たした。総合図書館(本郷)の入館証を手に入れてすぐに、ぼくは意気揚々とこの本を手にしに行ったのだった。

請求番号を書いてわくわくしながら司書さんに渡すと、司書さんは本を一冊持ってきた。それは予想外に小さな本だった。そして、司書さんは「この本は持ち出しができないので、中で読んでください」とぼくに本と席番号の札を渡してくださった。ぼくは、いきなり書架に入ることになって面食らったが、とりあえず、あつらえられた机に座って、小さな本を開けてみたのだった。

本の中身を見て、非常に困惑することなった。それは明らかに日本語ではなく、数学書ですらなかった。何語かも全くわからなかった。少なくともフランス語やドイツ語ではないのはわかった。たぶん、ラテン語だったのだろうと思う。

一行たりとも読めなかった。数式も図版もなく、楽しみようはなかった。司書さんがいぶかりながら、この本を渡してくれた意味が判明した。こんな本、10年に一度も需要がないに違いない。いや、借り出したのはぼくが初めてだったのかもしれない。

ぼくは、30分ほどその本のページをぱらぱらめくってみたりしたものの、「これはどうしようもない」と諦め、司書さんのところに行って本を返した。事情を説明すると、司書さんはぼくの読みたい本と請求番号を見比べて、ぼくが請求の仕方を根本的に間違っていたことを発見してくださった。まあ、初めての利用だからしゃーない。司書さんが、森嶋太郎「ふぇるまあノ問題」を書架から持ってきてくださり、「これなら、持ち出してコピーできますよ」と教えてくれた。ぼくは、念願の、憧れの、悲願の、この本のコピーを手に入れることになったのだ。もう40年以上も前のエピソードである。

 結局、この本は、読まずじまいで今に至っているんだけどね。

 

 

 

 

 

酔いどれ日記18

 今夜のワインは、リースリングの白ワイン。Roche Calcaireというもの。爽やかで、今日の気候にはちょうど合う。

 それにしても、最近の民放のテレビ番組のつまらなさはとんでもない状態で、NHKしか観なくなってもうた。NHKにもいろいろ政治的な意味で問題の大きい部署もないことはないが、総じてすばらしいクオリティの番組を作っていると思う。昨夜にやってた初音ミクの特集とまふまふさんの特集はすばらしかったし、映像の世紀で特集したメルケルの回は感涙ものだった。NHKスペシャル「数学者は宇宙をつなげるか」は、テレビで最先端の数学を紹介する、という野心的な試みで、(成功か否かはさておき)、その志に拍手を送りたいと思う。中でも絶賛したいのは、ドラマ「しずかちゃんとパパ」だ。最初は何の予備知識もなく、単純に、吉岡里帆ちゃん目当てで観始めたんだが、回が進むごとにその見事なシナリオと演出に感動するようになった。聾唖の親を持つ子供たちが背負うさまざまなことをテーマにしてた。非常に丁寧な制作で、ドラマとはこうあるべしというものだった。

 さて、今回は、「ラマヌジャンのL関数」のことを書こう。参考書は小山信也『素数からゼータへ、そしてカオスへ』日本評論社だ。

ラマヌジャンは、「2次のオイラー」というものすごい発見をした。オイラー積とは、その名の通り、オイラーが発見したもので、自然数のs乗の逆数和

\zeta(s)=\frac{1}{1^s}+\frac{1}{2^s}+\frac{1}{3^s}+\dots

が、全素数の式として、

\zeta(s)=\frac{1}{1-\frac{1}{p^s}}素数pすべてにわたる積

と表される、いうものだ。これを真似て、ディリクレがL関数というのを考えた。L関数とは、

\zeta(s)=\frac{a(1)}{1^s}+\frac{a(2)}{2^s}+\frac{a(3)}{3^s}+\dots

というタイプのゼータ関数である。例えば、簡単なL関数として、

L(s)=\frac{1}{1^s}-\frac{1}{3^s}+\frac{1}{5^s}-\frac{1}{7^s}\dots・・・(1)

がある。ちなみにこの式では、プラスとマイナスが交互になってて、4で割った1余る奇数ではプラス、4で割って3余る奇数ではマイナスになっている。ディリクレはこのL関数のオイラー積を考えた(オイラーも知ってたらしいけど)。この式のオイラー積は、

L(s)=\frac{1}{1-\frac{a(p)}{p^s}}の奇素数pすべてにわたる積 ・・・(2)

ここで関数a(p)は、p4n+1素数のときは14n+3素数のときは-1となるもの。どちらのオイラー積も、分母がp^{-s}=1/p^sの1次式になっているから、「1次のオイラー積」と呼ばれている。

 さて、ラマヌジャンはどうやって「2次のオイラー積」を発見したか。それは、

f(q)=q\Pi_{k=1}^{\infty}(1-q^k)^{24}

という式を展開することから出てくる。この式は、愚直に書くと、

f(q)=q(1-q)^{24}(1-q^2)^{24}(1-q^3)^{24}(1-q^4)^{24}\dots

これをq多項式として展開して、q^nの係数を\tau(n)と定義する。すなわち、

f(q)=\tau(1)q+\tau(2)q^2+\tau(3)q^3+\tau(4)q^4+\dots

ということ。\tau(n)を求めるには、f(q)を途中までで打ち切って展開し、それ以降には出てこないq^nに対して、係数を決定して行けば良い。

実際に求めてみると、次のようになる(らしい)。

\tau(1)=1, \quad \tau(2)=-24, \quad \tau(3)=252, \quad \tau(4)=-1472,

\tau(5)=4830, \quad \tau(6)=-6048, \quad \tau(7)=-16744, \quad \tau(8)=84480,

\tau(9)=-113643, \quad \tau(10)=-115920, \dots

ラマヌジャンは、この係数\tau(n)たちを分子に乗せて、L関数を作った。すなわち、

L(s, \tau)=\frac{\tau(1)}{1^s}+\frac{\tau(2)}{2^s}+\frac{\tau(3)}{3^s}+\dots=\frac{1}{1^s}-\frac{24}{2^s}+\frac{252}{3^s}+\dots

という関数だ。そして、このL関数が「2次のオイラー積」を持つことをラマヌジャンは見つけちゃったんだね。以下のようなものだ。

 L(s,\tau)=\frac{1}{1-\frac{\tau(p)}{p^s}+\frac{1}{p^{2s-11}}}素数pすべてにわたる積

この分母は、1-\tau(p)p^{-s}+p^{11}(p^{-s})^2だから、p^{-s}の2次式になっている。すなわち、「2次のオイラー積」というわけだ。

 なんで「2次のオイラー積」が出てくるんじゃろ、と昔から不思議だったけど、この度、小山先生の素数からゼータへ、そしてカオスへ』を読んで、初めてそのからくりを理解できた。

まず、「1次のオイラー積」が出てくるからくりは、関数の性質「乗法的」と「完全乗法的」にある。a(n)が互いに素なm,nに対して、a(mn)=a(m)a(n)を満たす場合が「乗法的」、任意のm,nに対してa(mn)=a(m)a(n)を満たす場合が「完全乗法的」と定義される。上のほうで紹介したL関数では、a(n)は、nが偶数なら0、4で割ると1余る奇数なら1、4で割ると3余る奇数なら-1と定義される。このとき、a(n)は「乗法的」かつ「完全乗法的」となる。だから、(2)は(1)と一致する。なぜなら、無限等比数列の和の公式から、

\frac{1}{1-\frac{a(p)}{p^s}}=1+\frac{a(p)}{p^s}+\frac{a(p)^2}{p^{2s}}+\frac{a(p)^3}{p^{3s}}+\dots

だから、例えば、45^sが分母の分数は、45=3^2 \times5から、a(3)^2/3^2a(5)/5の積で出てくるが、「完全乗法的」から、a(3)^2 \times a(5)=a(3^2 \times 5)=a(45)=1となってうまく行く。これが「1次のオイラー積」をつかさどるからくりなのだ。

 一方、ラマヌジャン\tau(n)は「乗法的」だが、「完全乗法的」ではない。実際、例えば、互いに素な2と3については、上に書いた数値から、\tau(2)\tau(3)=-24 \times 252=-6018=\tau(6)となるが(これはめっちゃ不思議だ)、\tau(3)\tau(3)=252^2=63504\neq-113643=\tau(9)である。

(この辺で、赤ワインに切り替わった)。

では、「完全乗法的」が成り立たない代わりに何が成り立つのか。これを発見したのがラマヌジャンの天才性だと言える。それは、j=1,2,3,\dotsに対して、

\tau(p^{j+1})=\tau(p)\tau(p^j)-p^{11}\tau(p^{j-1})・・・(3)

が成り立つ、というのである。例えば、\tau(2^3)=\tau(8)=84480\tau(2)\tau(2^2)-2^{11}\tau(2^1)=\tau(2)\tau(4)-2^{11}\tau(2)=(-24)\times (-1472)-2048 \times (-24)=84480である。よくこんなことに気づいたと驚嘆する。

\tau(p^{j+1})=\tau(p)\tau(p^j)なら「完全乗法的」になるが、p^{11}\tau(p^{j-1})を引いている分だけ、ズレが生じている。このズレが、「2次のオイラー積」を生み出す源になっているというわけなのだ。おおざっぱに言うと、\tau(p^k)/p^{ks}の総和を作る際、上記の(3)を使って変形をほどこすと、ズレの部分に再び\tau(p^k)/p^{ks}の項が現れ、それを左辺に移項することで2次の部分が生成されることになる。似た現象で言うと、積分計算で部分積分すると右辺に同じ積分が出てきて左辺に移項すれば値が求まっちゃう、みたいな感じ。詳しくは、素数からゼータへ、そしてカオスへ』で勉強して欲しい。繰り返しになるが、「完全乗法性」から少しだけズレることが、高次のオイラー積という魔法を作り出す呪文の役割を果たすわけなのだ。すごすぎるね。

 \tau(n)が「乗法的」であることと(3)を満たすことは、ラマヌジャンが見抜いて「予想」したのだけど、それを証明したのは、モーデルという数学者だ。予想の翌年(1917年)のことだった。その証明の武器は、モーデル作用素というものだ。

 ラマヌジャンf(q)は、「保型形式」という性質の関数に属する。f(q)を一般化したものが「マース波動形式」というものらしい。マース波動形式に対しては、モーデル作用素を発展させたヘッケ作用素というのを使って、「2次のオイラー積」を持つことが証明できるとのこと(これも素数からゼータへ、そしてカオスへ』で確認しよう)。すばらしすぎる。

 関係ないけど、ぼくが初めて「マース波動形式」という名称を目撃したのは、たしか黒川信重さんの本だったと思う。そのときは、「これは、黒川さん一流の冗談だな」と誤解してしまった。だって、「マース波動」なんて、宇宙戦艦ヤマトに出てくる「波動砲」を想起させたから(笑)。いやあ、ほんまものの数学用語と知ったときはまじでのけぞった。

 さて、L関数の「1次のオイラー積」とそれが何に役立つかについての、それなり詳しい説明は、拙著『素数ほどステキな数はない』技術評論社を読んで理解してくれたまえ。(販促、販促)

 

 

 

 

 

酔いどれ日記17

今夜はシャンパンを飲んでいる。DRAPPIERというやつで、そんなに高価ではないが、なかなか美味しい。いい具合に酔っ払っている。

今回は、数学における「完全系列」のことを書いてみたいと思う。

完全系列というのは、 0 \rightarrow A \rightarrow B \rightarrow C \rightarrow 0というふうに、集合A, B, C準同型写像( f_1:0 \rightarrow A, f_2:A \rightarrow B, f_3:B \rightarrow C, f_4:C \rightarrow 0)で繋がれているもので下で述べる条件を満たすものを言う。ここで「準同型」とは、代数的構造が保存される写像のことである。例えば、A, Bが群なら、積が保存される写像(すなわち、 f(x \circ_A y)=f(x) \circ_B f(y))で、A, Bが環なら、和と差と積が保存されるような写像のことだ。これらの準同型 f_1, f_2, f_3,f_4が、すべて、「(f_iの像)=(f_{i+1}の0の逆像)」を満たすものが「完全系列」なのである。正式に書くと例えば、Im (f_2)=Ker( f_3)などとなる。

 f_1,f_2 f_3,f_4に対しては簡単になる。Im(f_1)=f_1({0})=0だから、0=Ker(f_2)となり、これは f_2単射であることを意味する。また、Ker(f_4)=f_4^{-1}(0)=Cだから、 Im(f_3)=Cとなって、 f_3全射であることを意味する。だから、わかりにくい条件は、Im(f_2)=Ker(f_3)ということだ。

 この完全系列は、少し進んだ数学をやると多くの分野に登場する。高校から大学2年ぐらいまでは、多項式微分やベクトルが数学の「言語」だったのに、いきなりこの完全系列があたかも現代数学の「日常語」のように登場することになるので、多くの数学徒はひるまされる。

 ぼくが完全系列を最初に目撃したのは、数学科に進学が決まった2年後期だったと記憶している。演習の授業で、学生それぞれに問題が割り当てられて黒板で解答させられた。そのとき、ある同級生が、すごく簡単な問題を完全系列を使って解答した。別に完全系列なんて使わなくても、普通に定義通りに考えれば解けるような問題だった。でも、演習の教官は、「すごいですねえ」と絶賛した。その光景をぼくは、95%の羨望と5%の反発で眺めていたものだった。その後、親しくしていた数学科の友達たちとは、完全系列をばりばり使う人々を「矢印遣い」というあだ名で呼んだものだった。

 結局、完全系列とは馴染めないまま、数学科を卒業した。

ところが、執筆する本の企画のためにこの歳で完全系列に再会することとなった。企画の参考のために数論の本を読んでも、代数幾何の本を読んでも、完全系列がふんだんに出てくる。しかも、どの本でも、最初のほうに登場する場面では、「そんなもん、定義通りに計算したほうが早いやん」と思うような証明を完全系列でわざわざやっている。またまた、「5%の反発」とも再会することとなった。

 でも最近、いくつかの定理の証明を読んで、「完全系列って、本質的な道具なんだな」と感じられるようになった。例えば、リーマン面に関する「リーマン・ロッホの定理」というのがある。これは、例えば、リーマン面(球とかトーラスとか)に定数でない有理型関数があるかないか、とかがわかっちゃう定理なんだけど、証明の重要な部分に完全系列が使われる。それはおおざっぱには、次の原理を使う。

先ほど例に出した完全系列 0 \rightarrow A \rightarrow B \rightarrow C \rightarrow 0で考えよう。ここで、A, B, Cがベクトル空間としよう。すると、

(Bの次元)=(Aの次元)+(Cの次元) (すなわち、dimB=dim A+dim C)

が成り立つことになる。これをうまく使うとリーマン・ロッホが出てくるんだな。

この定義の証明は、完全系列に慣れるとそこそこ簡単になる。準同型f_3に注目すれば、準同型定理から、BKer (f_3)で割った商集合B/Ker (f_3)が、Im (f_3)と同型になる。上に書いたようにf_3全射だから、Im (f_3)=C。したがって、商集合B/Ker (f_3) Cと同型。一方、完全系列だからIm (f_2)=Ker (f_3)であるから、商集合B/Ker (f_3)B/Im(f_2)と書き換えられる。ここで、 f_2単射であることを思い出せば、Im( f_2)Aと同一視できる。まとめる、B/A Cと同型だということになる。ここで次元を考えれば、dimB-dim A=dim Cとなるから、証明が終わる。

 こういうことだと理解すると、「なんだ、ベクトル空間の話やん。だったら、線形代数のときに、もっと意識的にこれをやっときゃいいやん」という思いに至った。もちろん、線形代数は数学科以外の理系でも必須アイテムだから、完全系列を意識的に投入するのはうまくないだろう。でも、「数学徒向けの専門書では、まず線形代数の解説の中で完全系列を初歩から書いて、その上で先に進みゃいいやん」とは思うのだ。まあ、これに類する目的で、世の専門書では簡単なことをわざと完全系列で証明してみせているんだと思うけど、「新しい素材」+「新しい武器」は、凡庸な人間にはハードルが高すぎる。だったら、「よく知っている線形代数」+「新しい武器」のほうがずっと適切だ。

 などと不平不満を述べてたら、そういう本を見つけてしまった。有木進『加群からはじめる代数学入門』日本評論社がそれだ。

この本は、ベクトル空間からはじめて、多項式環、有理整数環、非可換環加群の世界を進んでいく。秀逸なのは、第1章で、線形代数を完全系列という「日常言語」で再現してくれていること。こういう本こそ、求められている本だと思う。例えば、この本には、さきほどのdimB=dim A+dim Cを、準同型定理を使わずに、ベクトル空間の素朴な表現を使って証明してくれてる。至れり尽くせりだ。

 奇遇なことにも、有木さんはぼくと数学科の同期だった(と思う)。しかも、バイト先も一緒だった。同期がこういう待望の本を書くとは巡り合わせだと思う。ついでながら、有木さんは、最初のほうに書いた「矢印遣い」同級生ではないので、誤解なきようにね。

 まだぼくは完全系列とか準同型についての本は書いていないけど、抽象代数の本は上梓しているので、販促しておこう。以下である↓。(面白い本だじょ)