グッバイ・ケインズ

今、次に出る本の初校を終えたところだ。
たぶん、8月頃に刊行されると思う。それは、ネットマガジンwired visionブログ連載したhttp://wiredvision.jp/blog/kojima/をまとめる本なのだけれど、編集者のアイデアで、連載の中からケインズに関係したものだけをピックアップして再編集することになった。
 このブログに書いたケインズの『一般理論』に関する論考は、既に『数学で考える』青土社

数学で考える

数学で考える

に収録してしまっているので、そこで論じたことを、もっとことばだけで論じ直した。さらには、そこではほとんど触れなかった金融部門でのケインズの貨幣に関する考え方、つまり流動性選好、についても加筆した。そうしたら、ブログとはほとんど異なるテイストの、ほぼ新しい原稿に変わってしまった。そういう意味では、今度刊行される本は、「ブログ本」というより、書き下ろしに近い本だといっていいと思う。
3章構成で、第一章は『一般理論』の批判的な解説。第二章は、金融市場をめぐるケインズの見方を発展させた新しい理論の紹介。第三章は、やはりケインズに発端がある、といってもいい意思決定理論の最新の成果の話、そんな具合になっている。
 一番重要なのは、この本は、ぼくの中でケインズ理論に決着をつける」という意気込みで書いている、ということだ。
ぼくが、経済学の道に進むきっかけになったのは、宇沢先生にケインズ理論について教えていただいたときからだった。世田谷区の市民講座で、宇沢先生のゼミに参加したとき、(その様子は、一部、宇沢師匠のこと - hiroyukikojimaの日記に書いた)、先生の著書『近代経済学の転換』岩波書店を輪読した。この本の多くの部分は、ケインズ理論の紹介とその後の学問的展開、そしてそれに対する批判的再検討にあてられていた。ぼくは、この輪読で、ケインズ理論に魅せられることになった。今思えば、そのときの宇沢先生は、ケインズへの尊敬と同時に、その幾多の理論的問題点とを語ってくださっていたのだけれど、ぼくはとにかく、ケインズの主張に参ってしまったのだ。ちょうどその頃に出版したぼくの一般書デビュー作『数学迷宮』新評論の著者紹介のところには、「ケインジアンの仲間入りをするのが当面の目標」とまで書いている。実際、この本の第2章「アキレスは今でも亀を追いかけ続けている」は、ゼノンのパラドックスから無限和を経由して微分の概念を通って、マクタガートの時間論に迷い込み、最後はケインズ理論にたどりつく構成になっている。この本を、宇沢先生に献本したとき、先生から葉書で感想をいただき、そこには「すばらしいケインズ入門になっています」とあった。ぼくを励ますための麗句だとはわかっていても、躍り上がるほど嬉しくて、それから長い間その葉書を「お守り」として携帯していたものだった。
ところが、東大経済学部の大学院に入学してみたら、思っていたのとかなり事情が違うことがわかってきた。マクロのコースワークの授業では、たまたまその年、植田和男先生が担当だったので、軽くIS-LM理論についても講義してくださったが、普通はケインズ理論は全く無視されている。「教えることは害毒である」とまで考えている教員もいる、と聞いた。そのくらい、ケインズは、「もう終わった理論」、と扱われていたのだ。ぼく自身も、中谷『入門マクロ経済学』などで勉強してみたものの、どうもよく納得できない。つまり、論理的にとてもずさんなものに思えたのだ。それに比べれば、ブランシャール&フィッシャーの教科書の「経済成長理論」などのほうが、理路整然としていて、現実的なフィットはともかく、理論として飲み込みやすいものだった。こうした経験を通して、ケインズ理論は、ぼくにとってアンビバレントな理論となっていった。悪魔的な魅力を持っているけれど、めちゃくちゃアドホックな理論。
大学で、マクロ経済学を教えるようになると、その迷いはもっと深まった。ケインズ理論をヒックスが数理的なモデルに仕立てたIS-LM分析というのを講義するのだけれど、IS-LMという枠組みの中で語っているうちはいいのだけど、(つまり、矛盾はないように思えるのだけど)、これを「要するに何が起きているのか」という形でことばに置き換えようとすると、うまく説明できないことに気がつく。ぼくは、このある種の「つっかえ」というか「違和感」というか、がどこから来るのか掴めないでいた。それが、決定的に払拭されたのは、小野善康さんの2006年の「乗数効果の誤謬」という論文を読んだときだった。この瞬間、頭の中でスパークするものがあり、ぼくの違和感の正体がはっきりした。そして、霧が晴れたのである。ミステリーのエンディングと同じで、すべての要素は有機的につながり、謎はどんどん解明されることになった。
 これは、ぼくの中での「大事件」となった。ケインズ理論は、もはや「理解したい理論」というものではなくなり、「面白いけれど、不備のある、無理な仮定の多い 理論であり、不備や無理な仮定を解消するか、あるいは捨て去るか、その判断が待たれるような課題」と変わったのである。つまり、ある意味、グッバイ・ケインズ、ということになったのだ。それだから、今回の本は、「ケインズに決着をつける」、そういう本として書いているわけだ。
 でも、本を書きながら、再び、ケインズの魅力を再認識もしている。「たかがケインズ、されどケインズ」というか、「腐ってもケインズ」、というか。冒頭にも書いたように、今、研究が進んでいる金融市場の非効率性や不安定性を最初に言い出したのはケインズだ。また、人の経済行動の背後にある「不確実性の認識」が、サイコロやコインに見られる数学的確率や、頻度の安定性を前提とする統計的確率とは別種のものであり、ある種の「内面性から立ち上ってくるロジカルな推論」だとしたのもケインズだからである。つまり、ケインズは、「有能なアイデアマン」だった、ということなのだ。
ある意味、アイデアマンというのは、「すべてを緻密に解決する」人と同じくらいとても大事である。突飛な例になってしまうが、フェルマーの最終定理の解決が、ワイルズだけに冠されているが、実は、フライという人の最初の仕事が大事だったのだ。フライは、フェルマー方程式に解があるとすると、ある楕円関数が変な振る舞いをしてしまうことに気がついた。それは、誰も正しいと考えている谷山=志村予想に反する振る舞いをする、ということである。それは数学的にはありえなそうに見える。だからフェルマー方程式には解がないんじゃないか、と予想を持ったのだ。この予想が正しいことを完璧に示したのがリベットという人で、残る問題は谷山=志村予想に帰着されることになり、これを解いたのがワイルズというわけ。でも、とっかかりになった、とても奇抜な考えを編み出したのはフライという人である。加藤和也先生(フェルマー予想解決の話+昔に女子大で数学の講義を聴いた話 - hiroyukikojimaの日記参照)から聞いたところでは、フライはいつも「夢みたいなことを言う」のだそうだ。「何を妄言を言ってるんだ」ということを講演でいったりするのだが、それが時を経るごとに実現されてくるのだそうなのだ。ものすごく嗅覚のいいアイデアマン、それがフライという数学者なのだと思う。ケインズもそういう人なのじゃないか、それが今のぼくがたどり着いた結論である。ケインズが構築した理論(一般理論や確率論)は、緻密性に欠けるずさんなしろものだけど、そこに込められている経済や人間に関する洞察、そのアプローチのアイデアは、とても鋭いもので、ぼくらは、ケインズのこのアイデアを緻密に、実現なり否定なり、をすればいいのである。科学というのは、夢を語る人と、それを緻密に証明ないし否定する人、その二種類の人種によって成り立つのだから。