憧れの超準解析

 このところずっと、数学基礎論の勉強をしている。取り組んでいるのは、田中一之『数の体系と超準モデル』

数の体系と超準モデル

数の体系と超準モデル

主に、出勤と帰宅の電車の中でちょっとずつ読んでいるので、なかなか進まず、もうかれこれ2ヶ月は読んでいるだろうか。
なぜ数学基礎論を勉強しているか、というと、隠れて物理を勉強する - hiroyukikojimaの日記で書いた物理の勉強と同じく、趣味と経済学研究の両面で、である。
そもそも、基礎論には少年期から憧れがあった。ゲーデルの「不完全性定理」は、中高生のときにナーゲル&ニューマン『数学から超数学へ』を読んで以来、理解したい、と焦がれる定理の一つになったし、超準解析は、たぶん、数学セミナーかなんかで知って、どうしても緻密に理解したいものの一つとなった。それに対して、ゲーデルの「完全性定理」のほうは、だいぶ後に知った。塾で中学生に初等幾何を教えるテキストを作成しているとき、どうやったら「論証とは何か」をわかってもらえるかに悩んでいて、基礎論を専攻していた同僚から「完全性定理」のことを聴いたとたん、「これだ」という手応えを感じたのがきっかけとなった。(この辺のもっと詳しい事情は、拙著『数学でつまずくのはなぜか』 - hiroyukikojimaの日記参照のこと)。要は、真偽という「正しいか正しくないか」という観点は、扱っているモデルに依存するため統一的でなく、しかも子どもたちの「世界認識」という先入観にひきずられてしまう。たとえば、三角形の内角の和が180度という定理は、平面幾何というモデルでは真だが、球面幾何というモデルでは偽となる。だから、真偽から論証を教えるのは子どもを混乱させるだけである。けれども、「論理操作で導出する」という「推論規則の適用」は、単に、決まったルールで記号をつなげて行くゲームだから、子どもたちお得意の冒険ゲームみたいなものであって、それほど抵抗無く受け入れられる、そう感じたのである。そこで、大事になってくるのは、「命題の真偽」と「命題が証明できる」とを区別することである。「完全性定理」とは、論理学の掟だけで「真」と決まるような命題には、論理的な推論規則で記号を連ねることで証明することが必ずできる、というものである。(うるさい読者のためにちゃんというと、ある公理群の成り立つすべてのモデルで真となる命題であることと、その公理群から出発して論理的な推論規則を連ねるだけで到達できる命題であることと同値、ということ)。ぼくは、この定理をきちんと理解すれば、「正しいこと」と「証明できること」の違いを自分がはっきり自覚することができ、きっと子どもに「幾何の証明」を教えるいい教材が作れる、そういう予感がしていたのである。
 他方、経済学の研究とどういう関係があるか、というと、ゲーム理論の研究だ。
ゲーム理論では、基本的に、プレーヤーが相手の出方を推論した上で、自分の戦略を決める。つまり、相互に推論を繰り広げることになる。このとき、重要なのは「プレーヤー全体をひっくるめた世界で、(つまり超越的な観測者の視点では)、何が正しいのか」ということと、「各プレーヤーが各自の持っている情報によって、それをどの程度正しく推論できるか」ということの違い、である。つまり、ここでも「正しいこと」と「証明できること(推論できること) 」を区別する必要があるのだ。この辺のことは、松井さんや金子さんなどが研究していて、だんだん緻密なモデルができつつある。でも、まだまだ「現実の戦略的世界観」を描写するには、足りないところがたくさんある。そういう研究に足を踏み入れたい、という思いが、ぼくの基礎論の勉強を加勢しているのだ。(ゲーム理論と基礎論の関係は、拙著『数学で考える』青土社の7「知っていることを知っている」のトポロジーで読むことができるよ) 。
 さて、田中『数の体系と超準モデル』だ。この本はぼくにとってもフィットする。どこがか、というと、適度に不親切なところである。細部まで精密に証明は書かず、ちょっとしたところは自分で埋めるようにわざと仕組まれている。だから、たびたび立ち止まって、考えなければならない。そして、考えてわからなくなることで、自分がきちんと定義を理解できてないことに気がつかされる。基礎論は、定義が最も重要だといっていい。定義の機微がわからないと定理を精密に理解することはできない。ぼくは、(ぼくが頭が悪いせいかもしれないが、トホホ)、何度も何度もつっかえては、元に戻って、定義を理解し直すことを繰り返している。でも、こうしているからこそ、定義に内在する「想い」みたいなものが伝わってきて、そのみごとな整合性に舌を巻くことになるのである。
 今、4章まで読んだところで、ここまでの成果だと、「完全性定理」のほぼ完璧な理解と、「モデルの理論」のまあまあの理解に達した感じだ。少なくとも、塾講師時代のテーマであった「正しいこと」と「証明できること」の差異については、思いを遂げた感触である。まあ、もう、塾で働いていないので、初等幾何教育に活かすことはできないんだけどね。で、「モデルの理論」で得た成果は、「超準解析」の理解だ。
超準解析というのは、解析学を、17世紀のライプニッツの発想で、整合的に再構築するものである。拙著『数学でつまずくのはなぜか』 - hiroyukikojimaの日記にも書いたように、ニュートンライプニッツ微積分学を作り上げたときは、ある意味で、「無限小」という概念を駆使する「魔法の算術」であって、整合的ではないが、( というか論理的破綻を持っていたが)、直感に訴える方法論だった。その破綻を解消する努力が3世紀にわたって繰り広げられ、やっとこさ19世紀に今の解析学が完成したわけである。
 けれども、20世紀になって、ライプニッツ流の「無限小・魔法の算術」が、論理矛盾のない方法論でリニューアルされることになったのだ。それが超準解析ってことである。「実数」の普通の理解は、べたー、っとすきまなく連なった数の集合である。ところが、超準解析ではこの「実数」を、一個一個切り離し、隣り合って並ぶかのようにし、その間を新しい数(無限小だけずれた数)で埋めた、そういう描像を与えたのだ。
 例えば、関数f(x)が連続である、というのは、そのグラフを鉛筆を紙から離さないでなぞることができる、ということだけれど、正式に定義すると、「任意のaに対して、 どんな正数εを持ってきても、うまいδを取れば、aからδより離れない数xすべてに対してf(x)とf(a)の差をε以下にできる」というめちゃめちゃしんどいものになってしまう。それを超準解析で定義するなら、「任意のaに対して、aと無限小の距離にあるxに対しては、f(a)とf(x)の距離も無限小」というスッキリしてて直感的な文章ですむのである。その上で、「有限閉区間での連続関数は最大値を持つ」という、普通にやるとめちゃめちゃ証明が大変な定理が、単なる「有限個の数値には最大値がある」に帰着されて証明されてしまうのだ(ぼくの理解では、 たぶん) 。
 長い間、憧れだった超準解析に、この本のおかげでやっと理解に近いところまでたどりついた。昔、斉藤正彦さんの本とかも読んだのだけど、ぜんぜん歯がたたなかった経験がある。でも、この本では、モデル全体をひとくくりに扱って、それがある操作に閉じていることと、ある種の命題のモデル群(「すべて理論」、とか「すべてある理論」、とかホーン論理式とか)であることの同値性と積み上げていって、そして、約積、超積、という風に突き進んで行く。だから、「結局何をしようとしているのか」を理解しながら進めるのである。そんなわけで、リタイアせずにここまでこれたのだと思う。
 さて、問題は、最後まで読み通せるか、そして、これを研究に活かせるか、だな。