YUIとネットで傷ついている人たちに贈るスレッサーの小説

後日記:このエントリーで紹介しているスレッサーの小説について、ぼくは都築『黄色い部屋はいかに改装されたか』で読んで、それに書いてあったあらすじを書いたので大丈夫だ、と判断したのだけど、稲葉さんに示唆されてから気になって検索してみると、スレッサーについて膨大な資料をブログで書いている人がいて、ひょっとするとネタバレとなってまずいかもと思った。そこで探したけど、どうも邦訳はないようだ。でも念のため、「続きを読む」にしておくので、ネタバレが困る人は開かないでね。

 12月で、個人ブログを書き始めてからちょうど一年になるので、回顧して感想をしたためようと思う。1年間、善意を持って読んでくださったかた、ありがとうございます。
まず、その前に、いつも読んでいる有名ブロガーの真似っこをして、今年のぼくにとっての音楽ベストテン!を挙げておく。あとの話ともちょっと関係するので。

1位 YUI ・・・ My Short Stories ただしDVD付き
2位 木村カエラ ・・・+1 ただしDVD付き
3位 Paramore ・・・ The Final Riot! ただしDVD付き
4位 Perfume ・・・  武道館ライブ(NHKで放送された)

あれ、ぜんぜん10個に満たなかった。笑い。とにかく今年は(も)、美少女ざんまいの一年になった。Paramoreのヘイリー・ウイリアムス(新しい革袋に古い音楽 - hiroyukikojimaの日記参照)は、去年以来めろめろで、去年のグラミーにノミネートされたときは、あまりに舞い上がったし、今年前期の講義で立ってるとフラフラするようになったぼくは、講義前に木村カエラちゃんの曲を聴くことで、それが解消されることに気がつき、大いに助かった。Perfumeは、田崎晴明さんの陰謀で、遂にハマってしまうことになった。
とにかく、YUIの外部活動休止は、あまりにショックだった。ネットオークションでせり落としてでもライブに行くべきだったと思う。彼女の年頃の感性は、1年で激変してしまうだろうから、戻ってきてくれたときは、ある意味で少し「別の人」になることは覚悟しなきゃらない。彼女に何が起きたか、本当のところはわからないけど、(週刊誌で、親友のスザンヌが言ってることを読んだけど、それがどこまで真実かわからないし)、ただ、My Short StoriesについているライブDVDを繰り返し見てみると、なんとなく彼女に何が起きたかが類推できる。もちろん、それも編集や演出であって、ぼくの一ファンとしての妄想である可能性は大なんだけどさ。彼女は、歌って行くことが大好きで、歌を聴いてもらうために、CDを作った。でも、業界は、彼女の考えているようなところとは、だいぶ違っていた。世界には、辛辣な悪意が満ち満ちている。 人の仕事を蔑んだり、否定したりすることで、自分がその人と対等であるかのような愉悦に浸る人種がいる。彼女には、100万人のファンよりも、そういう心ない嫌な奴のことが気になるようになった。それで、歌を作ることやそれを歌うことに、辛さが出てきてしまった。そう思えてしかたない。それは「Love is all」の歌詞などに端的に表れている。まあ、惚れてしまった弱みの妄想の域を出ないのだけど。今ヒットしている「I'll be」のPVには、そんなYUIへのファンの声援がたくさん描かれている。彼女のスタッフの、彼女への必死の誠意なんだと思う。とにかく、YUIには、歌うことに焦がれ、歌うことに未来を見た自分を取り戻して、またファンの前に戻ってきて欲しい。
 さて、ぼくの個人ブログ活動一年を振り返ろう。
おおむね楽しかったし、感想をメールでいただいたり、それをきっかけに知り合いになった人もできたし、ファン(YUIのことを書いたあとでこう書くとこそばゆい)の声も届いて楽しかった。ただ、ネットのインタラクティブという性格上の必然として、そのような善意だけでないことも嫌というほど思い知った。ネットには悪意や厭味が渦巻いてる。まあ、「世間」だから仕方はないのだろう。とりわけ、経済系のことを書くと、絡まれることがけっこうあって辟易とした。数学についてはそういうことはほぼ皆無に近いのが面白い。まあ、絡みにくいんだろうけど。しつこいけどもう一度いうけど、ぼくはブログではテキヤをやっているにすぎない。もちろん、ぼくも物書きのはしくれとして、文章が一人歩きし、それが「意図せざる意図」を生み出すことがあることは心得ている。でも、書いてない意図を勝手にねつ造して、それをあたかも事実であるように押しつけた上で批判する、というのは、ネット議論の定跡なのかもしれないけど、たちが悪いと思うぞ。ぼくは、「現実を見ていない」という批判に、「いや、ぼくも現実を見ている」などという反論をするつもりは全くないよ。「現実を見ていない」で結構。ぼくは、「現実を見ろ」という説教をする人を絶対信用しないことにしている。このことは、このブログを読んでいるとりわけ若い人たちに対して、老婆心ながら、人生の先輩としてアドバイスしておきたい。二言めには「現実を見ろ」という人には、多くの場合、裏腹がある。そんな手にはまっちゃいけない。実際ぼくは、子供の頃から、いつも「現実を見ろ」と説教されてきた。まず、父親に、次に教師に、そして、学校の先輩に、はたまた政治活動家に、さらには会社の上司に。でも、あとでわかったことは、そういう人たちのいう「現実」は、その人たちが色眼鏡をかけて見ている彼らに都合のいい「現実」であって、ちっとも本当じゃないってことだ。そういう人々は、人を理詰めで説得して自分の意のままに操縦することに失敗したとき、えてしてこのことば「現実を見ろ」を使う。ぼくは、そういう人々のいう「現実」よりも、むしろ、「数学」のほうを信じている。数学は、少なくともFirst orderの論理の上では矛盾をしていないし、かなりな精度で、惑星の運行や地上の多くの現象と整合的だからだ。この論点については、来年、たぶん「ちくま新書」から刊行されるはずのぼくの数理的社会選択の本で、もっときちんと論じるので、待っていて欲しい。
 さて、そんな風に「ネットに渦巻く悪意」に傷つきながらも、ぼくは来年もまたこのブログを書きつなげるのだろうな、と思う。同じように、ネットで傷ついている人に、そして、とりわけYUIちゃんに(読んでるわきゃねーだろ)、次のヘンリー・スレッサーの短編を心を込めて贈りたい、と思う。
あらすじは、ネタバレが困る人のために、最後に「続きを読む」の形式で書くことにしたので、困らない人だけ開いて読んでください)。

(これは、たぶん翻訳がなく、都築さんの評論『黄色い部屋はいかに改装されたか』で読んだもの。都築さんは、ミステリー評論家なので、なんらかの根拠でネタバレにはならないとしてあらすじをさらしたのだと思う)。ぼくは、モノを書くとき、いつもこの短編を心の支えにしている。見えるところには、ぼくの書き物に対して、心ない、悪意に満ちた、気分の滅入る批評や批判が渦巻いているけど、でも、声なきところにきっと、ぼくの文章をこよなく愛してくれている人がいるのだ、と信じて書いている。皆さんのブログもきっとそうなのだと思う。YUIもきっとそのことに気づいて、ぼくらの前に戻ってきてくれると信じている。

YUI I'll be
http://jp.youtube.com/watch?v=ttmabtMS3ho&feature=PlayList&p=C5F62D6C074CE5E2&playnext=1&index=11

(以下、「続きを読む」と表示されているはずだが、リンクから来た人はなっていないかもしれないので、ネタバレが嫌な人は読まないでください) 。

ある演劇の演出家が、自分の持っているラジオの生放送に出演していると、そこに一人のリスナーから電話がかかってくる。それは、役者志望の女性である。彼女は、その演出家のオーディションで落とされたことに絶望し、一錠ずつ睡眠薬を飲みながら電話をかけている、というのである。演出家は、他の電話をシャットアウトし、自殺を思いとどまらせようと、説得しながら、スタッフや警察と連携して、彼女の居場所をさぐり出そうとする。演出家は、だんだん朦朧としてきて、まとまりないことばを繰り返す彼女に、人にはいかに未来があるか、簡単には実らないが、努力はいつか報われる、など必死にことばを尽くして切々と説得した。彼女は、バーの公衆電話からかけてきているので、かかっている音楽などを頼りにバーをつきとめるのだが、ほんのすれちがいで彼女に逃げられてしまう。しばらくそのような攻防を続けたあと、ふいに、彼女の声色が変わる。彼女は、こう告白するのだ。自分は実は、睡眠薬なぞ一錠も飲んでいない。すべては、演技であると。そして、あなたをこれほどに騙せる演技をできる役者をオーディションで落としたのだぞ、どうだ思い知ったか、と蔑んで高笑いをするのであった。演出家は、後味悪い気分の中、放送を終え、重い足取りで局の外にでる。そこで、待ち伏せていた一人の女性が、その演出家のところに駆け寄ってくる。彼女は、演出家の手のひらに何かを握らせ、一言だけいう。「放送をずっと聞いていました。わたしにはもうこれは必要なくなりました」。それは、睡眠薬のビンだった。