フラワーフラワーの音楽に魂が揺さぶられた

 YUI改めyuiの組んだバンド・フラワーフラワーの新譜『実』を買った。そして、その音楽に、魂を揺さぶられた。
去年の11月に出ていたのに、今の今まで知らなかった。話題になってなかったのもあるし、フラワーフラワー結成後のyuiをぼくが追ってなかったのもある。不覚を取った。こんなすばらしいアルバムだったなんて。

実(初回生産限定盤)(DVD付)

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 フラワーフラワーの活動を追わなかったのは、自分の中でYUIという歌手が、アイドルなのか、ミュージシャンなのか、はっきりしなかったからだった。そういうことはままある。ファンの女性役者が、自分にとって、女優なのかアイドルなのか。好きな女流小説家が、自分にとって、文豪なのかアイドルなのか。それは、何かないとわからないものだ。例えば、木村カエラは、自分にとって、アイドルだった。彼女の結婚後、ぼくはipodからすべてのアルバムを削除して、二度と聞いてない(CDは棄ててないけどね)。結婚されるまで、彼女がアイドルなのか、ミュージシャンなのか、判然としなかったのだ。広末涼子は、大人になったら、彼女が出てるからドラマを観る、という女優ではなくなった。彼女も、ぼくにとっての役者ではなく、(ロリ)アイドルだった。他方、宇多田ヒカルは、結婚しようが離婚しようが再婚しようが、曲を聴き続けている。彼女は、ぼくの中ではアイドルではなく、ミュージシャンに分類されているのだと思う。YUIは、ぼくにとって、アイドルではなく、ミュージシャンであることが、このアルバムではっきりした。同棲してるらしいが、そんなことも、たとえ結婚しようとも、関係ないことが判明した。
 そんなこのアルバムについて、この感動をうまく表現できない。この魂の揺らぎを、うまく文章にできない。
 YUIは、ぼくが、ガールズポップにどっぷりはまりこむきっかけとなったシンガーソングライターだ。ぼくが、ぼくの凝り固まった音楽感の殻を破って、新しい音楽の楽しみに移行できたのは、YUIの歌声のおかげだった。ガールポップしか受け付けなくなったのは、彼女(とパラモアのヘンリー)のせいだ。でも、フラワーフラワーでは、むしろ、yuiのほうから、ぼくの音楽感のほうに近づいてきてくれたような感動がある。こういう言い方はリスナーとして傲慢に聞こえるだろうけど、ほんとにそうなんだから仕方ない。yuiのやりたかった音楽、彼女の頭の中に形成されつつあった音楽が、ぼくが聴きたいタイプのものだったというのは、奇跡的でもあり、必然的なんだと思う。彼女のこれまでの曲のどこかに、ぼくはこの新しい方向性の萌しを感じてたのかな、と嬉しくなる。妄想と言われるだろうけど、そう信じたい。そういうことは、今までも、たくさんあったから。
 実際、YUIの音楽にたどり着いたのには、ある程度の必然性があった。それ以前に、ぼくは、アメリカのカントリーミュージックに惹かれつつあった。シェリル・クローとか、ミッシェル・ブランチとか、アルバムを聴きくるってた。YUIは、ミッシェル・ブランチの曲をカバーしてるぐらいだから、彼女のルーツには、カントリーがあるように思う。つまり、YUIの音楽感には、ぼくがファンになる要素がそもそもたっぷり混入されていた、ということは疑いない。
 こういう音楽がしたかったのなら、さぞかし、YUIとしての最後の数年の活動は辛かったろうと思う。アイドルを演じなければならない。ウケる曲、かわいい曲を作らなきゃいけない。少女たちの共感を集めなきゃならない。最大公約数的なアレンジに甘んじなければならない。めちゃくちゃ巧いけど、ただそれだけのサポート・ミュージシャンたちとの、効率化されたレコーディングとライブリハーサル。プロモーターとの打ち合わせ、綿密な舞台演出。テレビドラマとのコラボレーション。きらびやかだけど、すべてが計算ずくめ。そういった活動は、すごく息苦しかったに違いない。
 彼女は、音楽をやりたくて、歌を歌いたくて、がむしゃらに練習して、コンテストでトップになってデビューした。でも、その経緯から、おのずと音楽活動の方向性が限定されることになってしまった。絹のような声質とあどけないかわいらしい顔立ちが、マーケティングの方向を決定的にしまった。でも、それが、その道が、本当に望んでいたものでないことにだんだん気付いていったのだと思う。
 誤解される覚悟で言うと、音楽には二通りのものがあると思う。第一は、時代を超えて誰もの耳に残り、みんなが口ずさむような曲。でも、そういう曲は、いつのまにか主を失ってしまう。普遍的だけと無個性的なものになる。「名曲」とはそういうもの。第二は、強く個性的で、時代と同期し、あるムーブメントのまっただ中に爆発する音楽。こういう音楽は、基本的に、打ち上げ花火のように瞬時的なものであり、激しく燃え上がり、はかなく消え去る。数年経つと誰も覚えていない。でも、ロックとは本来、そういうものだと思う。その時代のエフェクトと音響、その時期のファッション、その世代の歌詞の言葉。それがライブ志向の音楽というものであり、それが本来のロックなんだろうと思う。数年後では意味を失うからこそ今が最高になる。YUIからフラワーフラワーへの転身は、前者から後者への転身なんじゃないか、そう思うのだ。
 このアルバムは、YUIのアルバムとは違って、完全なバンド・サウンドになっている。メンバーは、すべてすごい技量の人たちだけと、サポート・ミュージシャンとは違って、あくまで自分たちの音楽、全員の曲として演奏を行っている。YUIが、yuiになるときに、インタビューで「やってみたいことがみつかってしまった」というような応えをしていた、まさにそれが実現したようなバンドサウンドだ。「バイバイ」とか、「席を立つ」とかは、YUIではありえなかった曲だろう。
 彼女の気持ちは、『スタートライン』という曲の歌詞に表れている。一節だけ引用すると、次のようなものだ。

ずっとスタートラインに 憧れていた
やっとたどりつけたよ いつだってやり直せるんだよ

ここでいうスタートラインとは、デビューのことではなく、言うまでもなく、フラワーフラワーの現在のことだと思う。彼女はやっと、自分が憧れていた自分らしい場所にたどりついたのだと思う。彼女ほどの高みではないけど、ぼくにもこの気持ちはわかる。ぼくは、塾講師だった頃、たぶん、最も自分の市場価値が高かったのだと思う。最も、多くの利便性を市場に与えることができたのだと思う。でも、ぼくには、それは幸せではなかった。いわば、「職業同一性障害」とでも呼ぶべきものを患っていた。機能的には、その仕事が最も大きい価値を生み出すのに、最もカネになるのに、自分にはそれで満足が得られないのだ。ぼくの「スタートライン」は、経済学と出会ってからだった。ぼくは、やっとぼくらしくなった。それがぼくの「スタートライン」だった。そういう意味で、yuiの気持ちはよくわかるし、だからこそ、心から応援したい。
 もしも、これからこのアルバムを買うつもりの人がいたら、DVD付きをお勧めする。ライブ映像で見ると、より鮮明にいまのyuiがわかる。フラワーフラワーが、ライブバンドであることが如実にわかる。そして、打ち上げ花火のように、「今」に輝いていることがわかる。願わくば、yuiパニック障害や、オーバードーズが、今のyuiの音楽性の根拠でなくあって欲しい。彼女は、彼女の天才性を証明するように、そのオリジナリティを健康に突っ走って行って欲しい、と切実に願う。

 今は、午前4時20分。テキーラを飲みながら、フラワーフラワーをリピートしてる。すっごくすっごく久々に、音楽を聴いて、涙が止まらない。音楽を聴いて、止めどなく涙が溢れるのは、すごくひさしぶりの経験だと思う。