一般の人が、数学を本を読んで理解しようとするとき、二つの障壁を乗り越えねばならない。一つは、語られている概念が抽象的であること、そしてもう一つは、それを語っている「言葉」が数式というこれまた「読みにくい言語」だ、ということだ。書き手が後者を突破する道は二者択一である。第一の道は、数式を使わず、極力日常の言語で表現すること。第二の道は、あえて「数式言語の読み方をレクチャーする」ことである。でも、第二の道を選択する書き手はほぼ皆無である。なぜなら、相当しんどい作業になる上、それだけの努力が本の売り上げに貢献するとは考えられないからだ。かくいうぼくも、第二の道を試みたことは一回しかない。それは『文系のための数学教室』講談社現代新書で、「ルベーグ積分」を題材に、積分記号の読解の作法を伝授した部分だ。そこでのメッセージは、「数式には独特の読解の仕方がある。記号を記号のまま受け入れようとせずに、自分の懐に引きつけ、自分の感性で読むように心がければいい。そうすれば数式から逃げなくてもよくなる」ということであった。でも、こういう勇気ある試みをしたのは、これ一回であった。だって、なんたって、編集者が嫌がるからね。「せんせー、今回は縦組みで行きましょう!」と毎回言われるから、数式の入れようがないじゃないか。
この険しい第二の道に、勇猛果敢に挑んだのが、新井紀子『数学は言葉』東京図書である。新井さんは、今をときめく売れっ子数学ライターでありながら、こういう不毛地帯に突撃したのはさすがの思いっきりだとアッパレに思う。
- 作者: 新井紀子,上野健爾・新井紀子
- 出版社/メーカー: 東京図書
- 発売日: 2009/09/07
- メディア: 単行本
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もちろん、忙しい大学生・社会人は、もう一つ言語を身につける時間の余裕がないだろう。だから、さきほど言った第一の道を選択している数学本でお茶を濁して、それなりの数学文化ライフを送ることだってできる。そのランクだって十分にリッチ感が体験できる。でも、それよりも、もう一歩高みに登って、さらなる有益な数学摂取ライフを望むなら、この一回だけに限って投資をしてみるといい。「数式を言語として身につける」という投資である。その見返りは十分ある。この投資は、一生モノである。追加投資は必要ないし、バブルはじけて価格下落することもない。今までは、この投資には大きな自助努力が必要だったが、本書『数学は言葉』東京図書が現れた今は、投資は安全にして確実である。1800円を投じて、数時間じっくりとこの本と取り組めば必ずや成果が得られるのだ。
この本では、「論理式」の読解の仕方をいちから懇切丁寧にレクチャーしてくれる。それはもう、著者が記号論理学(あるいは数学基礎論)の専門家だから、本領発揮である。しかし、この本のプロットの最も優れたところは、その「論理式」のレクチャーを、中学校や高校の数学の標準的な教科書の記述に対して行っているところなのである。これは実にすばらしい着眼点である。多くの人は、「教科書は平易に記述しているだろう」、と思いこんでいる。でも、教科書さえ、「第一の道」を選んで、読者にへつらってしまっている。そういう安易な読者への迎合が、結局は、読者の数学への一生もののアレルギーを生み出してしまっているのが悲しい。教科書は、面白くない上、記述が厳密でもなければ、わかりやすくもない。だから、教科書など何度読み返しても、「数学のわからなさ」を払拭することはできない。なぜなら、教科書さえ、「数式をわからせよう」という努力を怠っているからだ。
そこで、新井さんは、「教科書の記述を論理文に書き換えるノウハウ」の伝授をしてくれる。それを、新井さんは、「数文和訳」とか「和文数訳」とか呼んでいる。これは最初に言った「二つの障壁」の第一の壁を上手に避けることでもある。つまり、中高の数学教科書という誰でも一度は目を通した題材を使うことによって「語られている概念が抽象的であること」という絶壁が消滅しているのである。これは、同じ数学ライターとしては、一本取られた感がある。ぼくは、こんなこと思いつきもしなかった。
こんなことをいうと、「教科書と同じように詰まんない無味無臭な本では?」とかんぐられてしまいそうだが、実は、全くその逆。ところどころに面白いネタが散りばめられている。一番のけぞり、そして、気に入ったのは次。
高価なものがすべて一流なものであるとはかぎりません。
(叶 恭子『叶 恭子の知のジュエリー12か月』より)
いったい誰が、数学書に叶恭子の本からの引用を発見するなどと想像できるだろうか。そして、いったい誰が、この叶恭子の名言を論理文に翻訳するレクチャーなど期待しただろうか。他にも、高橋源一郎や夏目漱石やルイス・キャロルなどの小説から引用などもあって、新井紀子という人のパーソナリティーがそこここに炸裂している。もちろん、そういうウィットのある文に混じって、「n次元ホモトピー球面はn次元球面に同相」などという高度な数学文もさりげなくころがっているから油断もすきもない。(ちなみにこれはポアンカレ予想というやつ)。これらの文を同列に扱う、というのは、まさに数学を単なる記号の羅列とみる基礎論の学者の本領といったところだろう。
多くの人は、とりわけ、大学で数理のかかわる分野の勉強をしている人は、密かに「数式の理解にもやもや感がある」という持病をひた隠しているに違いない。「すべて」「ある」が2重3重にかかると意味がわからなくなる、「すべて」や「ある」を否定するとどうなるか掴めない、などという病状をお持ちなのではないだろうか。ぼくが30代後半に経済学の大学院に行ったときは、若い院生に、こういう隠し病を持った人が散見された。彼らはみんな恥ずかしくてカミングアウトできないのだろうな、と感じたものだった。でもだいじょうぶ。この新井紀子『数学は言葉』東京図書がしっかりと、しかも内緒で、治療してくれる。この本は、買って、隠れて読んで、院生仲間や同僚が来訪したときは、ベッドの布団の下に隠しておけばいい。「そんなもん読んでませんよ〜」的な、エロ本のような、そんな風に、でも大切にいつまでもニヤニヤしながら眺め続ければいい本だと思う。本書は、一生もののエロ本なのだ。
- 作者: 小島寛之
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2004/11/19
- メディア: 新書
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