魂ほとばしるゲーム理論の本

 相対性理論の新譜『シンクロニシティーン』は、あまりに傑作すぎるアルバムで、一日に五回ぐらい聞いている。『シフォン主義』と『ハイファイ新書』を合体させることに成功し、演奏の水準もアップしてる。やくしまるえつこのボーカルは、麻薬性があると思う。あの不安定な魅力は、ブライアン・フェリー以来の衝撃である。このバンドは、「日本版フランク・ザッパバンド」に向かって突き進んでいる気がしている。要するに、「めちゃめちゃバラィエティのあるハイテクな演奏に、超くだらない歌詞を乗せる」ってこと。
 ま、そんなことはどーでもよく、今回紹介するのは、ゲーム理論についての新刊、松井彰彦『高校生からのゲーム理論ちくまプリマー新書だ。

高校生からのゲーム理論 (ちくまプリマー新書)

高校生からのゲーム理論 (ちくまプリマー新書)

この本は、あまりにすばらしい。梶井厚志『戦略的思考の技術』中公新書に匹敵する傑作だと思う。ゲーム理論の専門的教科書にはすばらしいものが多いが、啓蒙書には、正直、良いものはほとんどないとぼくは思っている。ゲームのフォーマットとナッシュ均衡を説明するのに四苦八苦していて、ゲーム理論のもつモチベーションや問題意識や深遠さを語る段階に行ってない。こういう言い方もなんだけど、ゲーム理論の論文を書いたことのない人の書いた啓蒙書に価値あるものはほぼない、と判断して間違いはないと思う。ゲーム理論の論文を書いて査読を通過するためには、既存のゲームを徹底的に理解した上で、それを何か凌駕するアイデアを出さなければならない。それを達成したことのある人は、既存のゲームの構造に何が足りないか、どこに届いていないか、それをよく知っている。そういう人だからこそ、ゲームやその均衡から我々が何を受けとるべきか、それを深く理解しているのだ。そうでない人は、たぶん、ゲーム理論の数学的ファーマットを表層的に理解しているだけの水準でしかないだろう。こういう人には凡庸な啓蒙書しか書けないし、そんなものを読むのは時間の無駄だと思う。
 松井さんの本のすばらしいところは、ナッシュ均衡とはなんであるかを説明することに腐心していないことである。「解」とか「安定的」とか言ってさらっと流している。ナッシュ均衡の定義が重要なのではなく、ゲームの結末が何を物語っているかを受けとることが大事なのだ、という著者の徹底した主張が聞こえてきそうである。梶井さんに個人的に『戦略的思考の技術』の話を聞いたとき、「とにかく囚人のジレンマから距離を置きたかった」というような主旨のことをおっしゃっていた。このスピリットが、『戦略的思考の技術』のような超傑作を生んだのだと思う。松井さんのほうにも同じようなこだわりを感じる。
 松井彰彦『高校生からのゲーム理論ちくまプリマー新書は、凡百のゲーム理論啓蒙書と違って、実際の事例をゲーム理論から分析することをふんだんに行っている。ぼくにはとりわけ、第3章の「市場編」が面白かった。例えば、日本のガソリン販売の規制緩和によって新規参入が促進されなかったにもかかわらず価格崩壊が起きた理由、大志を抱いて羽田ー千歳間の航空運行に参入したエアドゥが結局倒産に追い込まれた理由、日本に老舗が多い理由などなどである。これらの事例はわくわくで読んだ。何より面白かったのは、この章の冒頭にある「市場取引」の意義を、新美南吉の名作童話「手袋を買いに」を使って説明している部分だ。ぼくも、大学でミクロ経済学の講義をするとき、必ず、市場価格取引の意義として「匿名性」を挙げる。市場で価格をつけて財を売買することの最も重要な効能は、「差別や暴力が起こらない」ということだと思う。ついている価格で買う限り、それがどんな人種であれ、どんな過去の遺恨を持っている人であれ、どんなに気に入らないやつであれ、それを妨げられることはない。直接的な物々交換だとこうは行かないだろう。そこは、力関係や関係性や歴史的遺恨の渦巻く世界となるだろう。市場価格取引は、経済をスムースにするだけでなく、民主的にする効能も持っている。だからこそ、経済発展に貢献するのだ。ぼくは、ミクロ経済学の講義の最初で必ずこのことを力説する。でも、ここで「手袋を買いに」を喩えに持ち出すことには思いも至らなかった。これは松井さんの本で是非読んでもらいたいから、これ以上は言わないけど、先週のミクロの講義でこの「手袋を買いに」の話をしたら、学生への効果はてきめんだった。彼らの表情の変化はみごとなものだった。松井さんに感謝。
 でも、ぼくが本当に心にじーんと来たのは、第4章「社会編」と第5章「未来編」だ。この二章は、著者の魂がほとばしる論説である。「社会編」では、「なぜ、黒人が住む地域の地価が下がるか」とか、「なぜ、肖像画を描いた単なる紙切れが、貨幣という価値を持つのか」ということを説明している。これらは、外側のどこかに確たる理由があるのではなく、内部的なある種のフィードバック機能から生じていることを説明している。あまり認知している人は多くないと思うけど、ゲーム理論はこういう自己正当化的なフィードバックをみごとに描写して説明することができるのである。ゲーム理論を深く深く理解し、その限界を思い知り、その上でその限界を突破して行こうと努力している松井さんだからこそ、こういうことを大仰にではなく、また、わけのわからん文系的レトリックでなく、上手に書くことができたのだと思う。少しだけ引用しよう。

ここでお金は法律で決めてあるから価値がある、という人がいるかもしれないので、もう少し例を出しながら説明しておこう。(中略)。トルコの遺跡に近いクシャダシという町に滞在したときのこと。イスタンブールのアタトゥルク空港でトルコリラに換えて持っていったのだが、何とどこへ行ってもドルとユーロが使える。つまり、受け取ってもらえるのだ。しかも交換レートたるや、計算してみると、空港でドルとトルコリラに換えるよりも割がいいこともあった。聞くと、円も受けとっているという。この町はエーゲ海の保養地となっており、観光客が多く訪れることからドルやユーロを受けとっても、わざわざトルコリラに換えずに使い道があるのだろう。(中略)。トルコ政府がドルやユーロは受けとるべし、という法律を出しているわけではない。みんながドルやユーロを受け取るから自分も受け取るのである。
 社会現象の多くは、このような性質を持っている。つまり、ある貨幣が価値を持つか否か、黒人には高い家賃を要求すべき否かという判断はみんながどう判断しているかに大きく依存している。真実はみんなの「意見」でつくるものなのである

 そ。貨幣が価値を持たなくなることもありうるってこと。貨幣の価値は、中央銀行が決めるのではなく、みんなの意見で決まるのだね。わかったかな、よい子のみんな。それはともかく、この「社会編」の最後には、みんながバイリンガルの島の話が出てくる。ここがまたじーんと来る。バイリンガルと言っても、「母国語」と「手話」とのバイリンガルなのだ。この島は先天的ろう者の率がきわめて高く、それゆえ、「社会の側が適応した」のだと松井さんは言う。ここは、松井さんが最近取り組んでいる「障害と社会構造」の問題につながっているのだろうと思う。詳しくは、関係性の社会思想へ - hiroyukikojimaの日記を参照のこと。ね、ゲーム理論の本を読むなら、こういう魂ほとばしる本を読まなきゃだめだ。大事なのは、ゲームの構造を理解しているかではなく、ゲームの向こう側に何をかいま見ているか、だと思う。凡庸なゲーム理論入門書を10冊読むくらいなら、松井さんのこの本(や梶井さんの前掲の本)を10回読もうよ。松井さんは第5章「未来編」でこう言っている。

社会はゲームであり、ゲーム理論の起源は社会の分析にあると言ってもよい。
人間は物質から成り立っているのであるから、物体としての人間を分析すれば現在は無理にしても、究極的には人間関係の分析も社会の分析も可能になるという考え方があるが、ぼくは反対だ。物質の科学よりも人間の科学のほうがより根本的であり、ゲーム理論は社会の中での人間を科学するという極めて根本的な学問である。

こんな風に、この本には松井彰彦の魂がそこかしこで妖しい輝きを放っている。しかも、松井さんどうしちゃったんだろう、というぐらい、自分の来歴についてカミングアウトをしている。松井彰彦は、単なる天才、単なる優等生と思っていたが、どうもその印象は間違いだったみたいだ。いや、レトリックに騙されているのかもしれないけどね。
 ちょっと誉めすぎなので、最後に、ちょっとだけ小言を。松井さんにしても、梶井さんにしても、中国史とかに詳しすぎ。第2章「歴史編」では、項羽だとか劉邦だとか登場する。梶井さんも、前掲の本の続編として『故事成語でわかる経済学のキーワード』中公新書で似たような試みを行った。うん、君たちが教養溢れるのはわかった。でも、世の中にはぼくのような漢文音痴がいることも理解しておくなまし。漢字の人名がぞろぞろ出てくる話をゲームの構造で説明されるのはめっちゃ苦痛なのだ。こういう人にもっと伝わるように解説を書いてほしい。自分たちは登場人物の機微を知っているから書いていてイメージがあるのかもしれないけど、音痴の人間にはただの記号の羅列に見えるのだよ。情けないけど、第2章は読み飛ばしてしまった。いまどきの高校生が、君たちほど教養溢れるというのは、単なる思いこみだと思うぞ。(註)
 そんなこんなもあるけど、とにかく、松井彰彦『高校生からのゲーム理論ちくまプリマー新書は、今、絶対目を通すべき本だということは確約する。ほんとに面白いって。これを読んでる皆さんは、なんでこうもこの本を激しく持ち上げるんだと、いぶかってることだろう。種明かしをしよう。あとがきにぼくの名前が出てきて、そこでは「単なる(年上の)教え子」から「友人」に昇格していたのが嬉しかったから、ってことなのだ。
(註) 友人がメールで、「高校生が中国の歴史上の人物たちのイメージを持っているかという件ですが、近年の大ヒットゲームである「・・無双」シリーズには(よくしらないけど)「三国無双」とか「戦国無双」とかいろいろあり、様々なキャラクターを操るので、そういうゲームをやっている子たちは項羽と劉邦とかすごく詳しい可能性は高いです。著者がそれを考えたかどうか知りませんが。」というコメントをくれましたので、謹んで訂正します。くっしょー、ぼくの漢文音痴は高校生にも劣るのかよ。