障害を問い直す

このごろ、「障害」のことを考えることがときどきある。
経済学は、これまで貧困を大事な問題として扱ってきたけど、障害というものを正面から扱ったことは少なかったと思う。そういう意味で松井・川島・長瀬著『障害を問い直す』は、画期的な試みだと思う。

障害を問い直す

障害を問い直す

この本の帯には、「経済学と障害学の対話から何が生まれるか」とある。経済学をかじった人には、非常に奇異な耳障りだと思う。すなわち、このキャッチコピーは成功している。このことを速攻で理解するには、編者の一人である経済学者・松井彰彦の書いた序章「社会の中の障害者」と第5章「『ふつう』の人の国の障害者就労」を最初に読むといい。いくつか引用してみよう。

経済学と障害学。奇妙なカップリングだと思われる読者も多いことだろう。まず出自からして違う。(中略)。現実問題を考える際も、経済学はいかに効率的にモノを作り、配分するかというメカニズムについて考察をめぐらせてきた。一方で、障害問題の研究者たちは、障害者をはじめとした社会にいる経済弱者をいかにすくいとるかという問題を考えてきた。前者を効率性追求の学問と考えるのであれば、後者は公平性追求の学問といってもよい。(中略)。しかし、経済学が公平性を犠牲にしてまで効率性を追求してきたかというと、実は決してそのようなことはない。経済学における最適課税論にしても、基本的な考え方は、ある経済外な要請を所与として、もっともそれを効率的に達成する方法は何かを探る点にある。

もう一つ引用しよう。

それにしても、効率性ないしは費用対効果の追求そのものの評判が「福祉の世界」ではすこぶる悪い。
2010年に参加した知的障害者とその家族のための組織、インクルージョン・インターナショナル(国際育成会連盟)のベルリン大会では、ナチスドイツ時代の数学の教科書に、障害者に使っている費用を他の有益な投資に回したらどのくらい効果があるか、いう問題が載っていたという逸話も披露され、暗に経済学が槍玉にあがっていた。

そう、世の中の多くの人は、経済学に「お金の話ばかりする学問」だという印象を持っているに違いない。実際、世の中で経済学者をきどって発言している人に、そういう連中が多いから仕方ない。でも、松井彰彦さんのように、通念的な経済学の引力圏から脱出して、社会について人間味あることを語ろうとしている方も少なくない。できれば、この本のような本を読んで、経済学についての悪イメージを払しょくしていただければ、と思う。松井さんは、経済学が障害学にアプローチ可能であることを、ゲーム理論という道具建てから示そうとしている。たとえば、次のようにいっている。

現代の経済学は、ゲーム理論を取り入れることによって、大きく変貌を遂げている。ゲーム理論は、互いに相手のことを考えた結果、人々がどのような行動を採るかを分析する学問である。(中略)。状況によっては、みな同じ行動を採ることが重要な場面もある。混雑した駅の通路で、みんなが右側通行をしているとき、一人だけ左側を通るのは難しいからだ。障害者の社会参加も同じような側面がある。
一人の車椅子ユーザーの社会参加のためにスロープをつけてほしいと言っても、行政側はなかなか首を縦に振らない。しかし、100人のために必要だと言えば、行政も動く。たった一回の出費で100人の人がその恩恵を受けられるからである。効果が費用を上回るか否かは人々の行動によるのである。

これは、慧眼だといっていい。我々は、費用とか効果とかを、どこか「固定的なもの」と見なしがちだが、実はそうではない、ということだ。費用対効果は、障害者がどのくらい社会参加をするかに依存する。障害者がどのくらい社会参加をするか、は、市民がそれをどうあるべきと考えるかに依存する。つまり、市民が障害者について、どう考えるか、それが費用対効果のありかたを決め、社会の方向性を決めるのである。「みんなが、障害者の社会参加を当然のことと思えば、それは効率性をもクリアするし、そう思わなければ、効率性が障壁となる」、そういうことなのだ。このように、障害の問題はある意味で「自己言及的」な構造を持っている。自己言及的構造(相互言及的というべきかもしれない)を解こうする営為こそ、まさにゲーム理論なのだ。松井さんは、障害の問題を考えるうえで重要な思考モデルとして、「帰納論的ゲーム」というものを例示している。この理論は、ゲームの内側にいるプレーヤーが、自分たちがどんなゲームに参加しているのかを明確には知らず、経験から自分たちが参加しているゲームを空想しながら再構成するプロセスを与えるものである。ゲーム理論におけるほとんどのゲームは、自分が参加しているゲームの構造自体はプレーヤーは知っている、と仮定されている。しかし、現実の社会はそうではない。自分たちが参加しているゲームがどんなものであるか、我々はその全貌を知らず、その構造をも推論の対象としているのが一般的である。いってみれば、「このゲームがどんなゲームか、ということさえも、ゲームの一部」だといっていい。このような自己言及的構造、あるいは形式化の構造は時に、我々を大きな誤解と誤謬に落とし入れるだろう。差別や偏見が、そういうところから生じるだろう。それが、松井さん(と金子守さんの)帰納論的ゲームの意味するところなんだと思う。
第1章の西倉実季「顔の異形は障害である」は、本全体に通底する非常に重要な論点を与えている。本書を読むならまず、西倉氏の与えた例をよく理解して読みすすむとよいだろう。西倉氏の与えた例というのは、顔にやけどや痣のある女性が、会社の受付業務に応募したとき、はなっから排除された事例である。面接業務というものを、「訪ねてきた人の質問に的確にこたえ、その人をしかるべき場所へ誘導する」、というものだと定義するなら、その業務にはなんら支障がない。しかし、顔にやけどや痣があるという理由だけでその業務から排除されてしまうのである。それはたぶん、人に奇異な印象を与える、とか、失礼があるかもしれない、とかいった理由からであろう。
この事例で、著者がいいたいことは、受付業務の定義のことではない。そうではなく、もしもこのような差別がなされるなら、顔のやけどや痣はれっきとした「障害」ととらえれるべきだ、ということなのだ。障害というと、「何かができない(ディスアビリティ)」と捉えられがちである。しかし、この事例の人は、「何かができない」わけではない。この人が受付業務につけないのは、「顔にやけどや痣のある人は、受付業務につくべきではない」という社会通念のためであり、そういう社会通念がディスアビリティを「創り出している」、というのが著者の主張なのだ。つまり、障害とは、個人だけに付随するものではなく、社会(通念)全体に付随するもの、ということだろう。この視点は、障害を問い直す上で、とても重要なものの見方を与えてくれると思う。これを「ものさし」にして、社会を見まわしてみると、障害についての見え方は大きく変わってくることだろう。
 ぼくは、拙著『使える!経済学の考え方』ちくま新書において、アマルティア・センの考え方を紹介するために彼の理論を勉強したが、そのとき彼が頻繁に障害者の例を引くので驚いた経験を持っている。まあ、具体的には拙著を読んでほしいが、センは、障害者を例にすることで、経済学がある意味で自明としている功利主義的な貧困救済の考え方が、必ずしも自明でも、また、最善でもないことを論証しているのである。センは、障害の視点を「ものさし」に自分の理論を組み立てているのだ。
 友人に、特別支援学校の教員をしている人がいるので、よくそういう子供たちの話を聞かせてもらう機会がある。それから学ぶことは、障害とは、本人のディスアビリティと、家庭(や保護者)の持つ特殊性と、そして社会構造(インフラや制度)との三つ巴の問題であり、単なる「その子供のハンディキャップ」だけの問題ではないようだ。ハンディキャップは、保護者にあるかもしれず、インフラや制度にあるかもしれず、その3つすべてのかねあいから生じるのかもしれない。だからこそ難しいし、けれどだからこそやれることもたくさんある、ということである。
そんなこんなを考える出発点として、松井・川島・長瀬著『障害を問い直す』は、とてもよい「ものさし」を皆さんに与えることと思う。是非とも、読んでほしい。