「同じと見なす」ことの素晴らしさと難しさ

 これまで三回にわたって、ぼくの新著『数学は世界をこう見る 数と空間への現代的なアプローチ』PHP新書の販促エントリーをしてきた(これこれこれ)。四回目の今回は、もう少し内容に踏み込んだエントリーをしようと思う。

この本には、複数のコンセプトが込められているのだけど、その中で非常に大きいのが、「同じと見なす」という数学固有のテクニックをこれでもか、というぐらいに徹底的に解説することだ。「同じと見なす」ということを、数学の専門の言葉では「同一視」という。この「同じと見なす」という数学の手法は、高校までの数学ではほとんど表れない。というか、本当は随所でニアミスしているだけれど、高校までの数学教育で強調されることは(情熱のある特殊な先生を除けば)全くない。
 例をあげるなら、平面上の4点A, B, C, Dに対して、ABCDが平行四辺形となっている場合、[ベクトルAB]と[ベクトルDC]は等しいと定義され、[ベクトルAB]=[ベクトルDC]という等号で結ばれる。しかし、よくよく考えると、ABのある場所とDCのある場所は異なっているのだから、どう見ても、これは異なるもののように思える。なのに、等号で結べるのはどうしてか、といえば、それは「同じと見なす」と定義をしているからに他ならない。
 実は、こういうことは、それ以前にも知らず知らずのうちに何回も経験しているのだ。ただ、そう意識していないから、記憶に残らないだけなのである。例えば、小学生のときに、分数(1/2)と分数(2/4)は同じ数と教わる。これは、「2等分の中の1つ」と「4等分の中の2つ」は同じだから、などと説明されるのだろう。しかし、2等分と4等分は違う作業であるから、用心深い生徒は「なぜ、同じなんだ?」と戸惑うに違いない。実際、分数(1/2)と分数(2/4)は見た目が違う。見た目が違うのに、なぜ同じなんだ、というのは自然な疑問である。数学者のこれに対する答えは簡単で、「同じと見なす」と定義しているから、ということである。
 高校までとはうって変わって、数学科に進学すると、この「同じと見なす」の嵐になる。この作業のない数学分野をぼくは知らない。そもそも、19世紀にカントールデデキント集合論を打ち立ててから、数は「発見されるもの」ではなく「同一視を駆使して創造されるもの」となった。だから、数を扱う分野は、必ず、「同一視」の洗礼を受けることになるのである。
 『数学は世界をこう見る 数と空間への現代的なアプローチ』に、そもそも、ぼくが「同じと見なす」ことをプロットとして導入しようと思ったきっかけは、(あとがきにも書いたことだが)、数学者の黒川信重先生と共著を作るのに対談している最中、「数学では、この『同じと見なす』という操作がすごく大事で、本質的だよね」という意見が一致したことにあった。そして、「そんなに大事なことなのに、『同じと見なす』を主軸に据えて、きちんと解説した本ってないよね」ということも同じ見解だった。黒川先生は「いずれ、そういう本を書いてみたい」と仰っていたので、黒川先生がお書きになるのがベストだと思う。けれど、先生はプロの数学者なので、やはり、数学者の卵を意識された本を執筆されるに違いない。ならばぼくは、数学エッセイスト(∈{非数学者})として、一般の数学ファンにも訴えかけられるような「同じと見なす」ことの解説書を書こうと考えたのである。
 それで、「同じと見なす」ことの徹底解説にトライしたのが本書であった。具体的には、素数周期で数を同一視することで得られる有限体、中身の詰まった単体の'へり'を0と同一視することで図形を分類するホモロジー、1変数多項式に、「2つの多項式の差が特定の多項式の倍数になる場合は同じと見なす」ことで得られる剰余体(例えば、ルート2や虚数単位はこの方法で'創造'される)を解説した。そして、全体を貫いているのは、イデアルというアイテムだ。イデアルは、19世紀のクンマーがフェルマーの最終定理を解こうとして端緒を掴み、それをデデキント集合論を使って実体化させ、さらに、ヒルベルト代数幾何に応用してその威力を知らしめた。たぶん、20世紀の数学の中で、最も重要な数学概念の一つであろう。非常に多くの数学的素材の中にイデアルが表れ、イデアルを使って「同じと見なす」ことを駆使することで、さまざまな豊かな武器が手に入る。だから、ぼくは、「同じと見なす」ことの解説とイデアルというアイテムの普遍性の解説とを同時並行的に書いてみたいと思ったのだ。
 ただ、アマゾンに現在唯一あがっている書評を見て、これらのことは万人にとって「すごく楽しいこと」とはならないんだなあ、という残念な気分になった。その書評は、「抽象的すぎて理解できなかった」と一言で済む内容を数十行にもわたってくだくだ書いているご苦労さんな書評である。理解できてないんだから、書いてることはすべてトンチンカンでとても不憫になった。下戸にビンテージワインを売りつけてしまった罪悪感さえ浮上する(ここで、ビンテージワインは、ぼくの本のことではなく、抽象数学のこと。念のため)。その一方で、「数学は世界をこう見る 数と空間への現代的なアプローチ」読了 - Wolfeyes Bioinformatics betaのような嬉しいレビューもある。一部、引用してみると、

読んでみて分かるのだが,この本は最後のほうまで流れるように読めてしまう.それはあたかも原理から定理をどんどん作り上げていくような感覚だ.しかも内容も抜群に面白くて考えても見なかった発想がどんどんでてくるものだから,細かい証明や具体的はある程度読み飛ばして先のトピックへと急いでしまう.余分な要素がなくて必要最小限の知識だけで組み立てているからだと思うのだけれども,これには自分でも驚いた.

この人はたぶん、「同じと見なす」ことの素晴らしさを理解でき、そういう数学の世界観の「楽しさ」を共有できた人だと思う。もしかすると、知性や能力の高低ではなく、先天的に、こういう「抽象化」を理解し楽しめる人と、からっきしダメな人に分かれているのかもしれないな、と思えてきた。実際、ぼくは、数学がよく理解できた頃(中高生のとき)も、思うように理解できなくなってしまった頃(大学以降)でも、この「抽象化」にはほとんど苦痛を感じることがなかった。むしろ、ギターを演奏するときやゲームをしているときや、泳いでるときなどの、無我夢中に楽しむ感じに近いと思う。血のにじむ努力がいらない、という意味では、ぼくは抽象的なことを理解する資質に先天的に恵まれているのかもしれないな、と思う。
 もちろん、ぼくの書き方が下手くそだから伝わらないのであって、例えば黒川先生がお書きになれば、もっと多くの読者に伝わる可能性はあるだろう。
 ぼくが、「同じと見なす」ことを自覚的に面白く感じたのは、たぶん、大学1年生のときに解析学を勉強したときだと思う。東大の理科1類の1年生の解析学の講義は、一応、「実数論」から始まった。つまり、数列の収束をきちんとやるためには、「実数のコーシー列は収束列」(数列がコーシー列という性質を持っていれば、その数列は収束値を持つ)といういわゆる実数の完備性が必要になり、そこから始まった記憶がある。実数の完備性を証明するには、実数をきちんと定義する(=創造する)必要がある。講義ではきちんとした議論は省略されたので、高木『解析概論』をひもといた。そこには「デデキントの切断」という方法で解説されていた。デデキントの切断というのは、「実数というのは、数直線上の数だ」という素朴なイメージを公理化したものである。すなわち、「直線をどこかで2つに切断したら、切り口にあたる点は、どちらか一方の直線に属する」という性質を丁寧に公理化したものだ。そして、直線を二つに切断したときの、それぞれの直線上の有理数の集合の境目(切り口)の点を「数」と見なして、実数を構成するのである。ただし、ここでも、切り口が有理数なら、できた2本の直線のどちらにあるかで2通りの場合があるので、それを「同じと見なす」ことが必要になる。さらには、このように定義した<実数>に四則計算を定義する場合、「同じと見なす」テクニックが鬼のように使われる。その上で、数列の収束性の定理を証明するのだけど、ぼくには当時、このデデキントの方法があまりピンとこなかった。
 一方、講義で指定された教科書には、付録として実数論が収録されていた。それは、デデキントのものではなく、カントールの実数論だった。ぼくは、それが面白くて、むさぼるように読解した記憶がある。
 カントールの実数論は、「コーシー列が収束列になる」ということを直接のターゲットにして<実数>を創造するものである。有理数の数列でコーシー列となっているもの一つ一つをそれぞれ<実数>だと見なしてしまうのである。だから、有理数のコーシー列は、「自分自身に収束する」ように仕組まれる。言ってみれば、「欲しい性質をそのまま数と化させてしまう」ということである。このとき、この<実数>は、次のような「同一視」で有理数全体を含む。すなわち、例えば、数2は、2,2,2,…という有理数列(もちろん、これはコーシー列)と「同じと見なす」わけである。このように定義すると、自然に、有理数のコーシー列は(自分自身が表す<実数>に)収束することが示される。さらにすごいことに、<実数>から成るコーシー列も<実数>に収束値を持つことが証明できる。この点に、カントールの方法論の破壊力がある。一部に無理強いした都合の良い性質が自律的に全体に波及するからだ。その上で、カントールは、<実数>の四則計算を定義する。ここも、「同じと見なす」ことの嵐となる。
 ぼくには、このカントールの創造法のほうが、しっくりときたし、とてもエキサイトしたことを覚えている。まあ、こういうことに興奮するというのは、ある種の「変態」なのであろう(笑)。でも、ぼくが、現在も数学を学び続けることができ、さらには、数学の啓蒙書を刊行し続けることができる推進力は、この「同じと見なす」フェチによるところが大きいと思う。だから、『数学は世界をこう見る 数と空間への現代的なアプローチ』では、一生懸命に、「同じと見なす」ことの会得の仕方を一般の数学ファンに伝えようと努力したわけだ。言うなら、「幸せのお裾分け」なんだけど、まあ、「苦痛の押しつけ」になってしまう読者の方々もいるわけで、そういう人たちには素直に申し訳なく思う。
 デデキントの実数論と、カントールの実数論については、拙著『無限を読みとく数学入門』角川ソフィア文庫におおざっぱな解説を書いた。自然数の「創造」方法については、拙著『数学でつまずくのはなぜか』講談社現代新書および拙著『数学入門』ちくま新書に書いた。でも、数の創造を「同じと見なす」という立場から、相対的に簡単な例(有限体、ルート2、虚数単位)を用いて、統一的に書いたのは、本書であるから、「同じと見なすテクニックを楽しめるようになりたいな」と望む人は、本書から読むことをお勧めしたい。(他には、こういう視点で書いた易しい数学書はないと思う)。
  (*ちょっと専門的な付記)実は、自分の書いてることがほんとかな、と思って、当該の教科書を探したらなかったので、仕方なく彌永昌吉・健一『集合と位相1』岩波をひっぱり出して眺めてみた。この本では、<実数>の創造はカントールの方法を使っているが、なんと、イデアル理論をベースにしていて、びっくら。つまり、有理数列のコーシー列すべての集合をCとする。Cの中で0に収束するものの全体をNとすると、NはCの極大イデアルになる。だから、Cを極大イデアルNで割った商は体になるんだけど、それを<実数>Rと定義するんだとさ。。。今、初めて知ったよ。なんということでしょう、ここにも、イデアルが大活躍だったわけです。

数学でつまずくのはなぜか (講談社現代新書)

数学でつまずくのはなぜか (講談社現代新書)

数学入門 (ちくま新書)

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