酔いどれ日記16

 このところ、ずっと小野善康さんの『資本主義の方程式』についてエントリーしてて、まだ、1,2回、論じたいことがあるんだけど、今夜はまた、酔いどれ日記のほうに戻ろうと思う。(書評は、書くのに緊張感が必要なので、疲れるんだよね)。

 今夜は、カオールの赤ワインを飲んでる。甘みがあって、濃厚。色の深いルビー色。ぐびぐびは飲めないけど、値段の割に豊かな味わいだと思う。

 今日は、「集合と位相」について戯れ言を書こうと思う。

ここのところ、「集合と位相」を勉強し直している。その理由は、今書いている本の次に書く本に、必要になるアイテムなので、自分の理解を深めることとどういうアプローチが最も読者にわかりやすいかを探求するためなのだ。

「集合と位相」というのは、集合論位相空間論を解説する分野だ。ぼくは、数学科に進学が決まった2年生の後期に(駒場で)講義を受けた。そのときぼくは、講義を聞きながら何か参考書も併用しようと思った。当時は、岩波基礎数学の彌永昌吉・健一『集合と位相』を持ってたんだけど、(というか、基礎数学は全巻持っていた)、どうも読みこなせる気がしなくて、松坂和夫『集合・位相入門』岩波書店を主に使ったように記憶している(実は曖昧な記憶なんだけど)。この松坂本は非常に名著で、今でもたぶん、初学者が「集合と位相」を勉強するのに最も良い教科書ではないかと思う。

ところが今、両方を読み直してみて、彌永本を非常に面白いと思うようになったのだ。ここで皆さんに強くお伝えしたいことは、「自分にとって最良の教科書」というのは、時期によって、それからモチベによって異なる、ということだ。自分というのは常に同じではなく、時とともに変化する。知識も興味も忍耐力も立場も変化する。だから、それらの変化によって、今の自分にフィットした教科書や専門書というのは当然異なることになるのだね。

今回、久しぶりに彌永本を読んでまず興味をひかれたのは、位相空間の構築の仕方だった。通常は「開集合」の導入から始めるのが定番だと思う。開集合を知らない人は、周を含まない円をイメージすれば良い。それらを合併したり、共通部分をとったりしてできる図形が開集合だ。それに対して、彌永本では「閉包」から導入している。閉包というのは、点集合Sを変形する操作で、おおざっぱにいえば、Sの点列が密集している場所にある点をSに付け加えてできる点集合のことだ。Sの閉包(密集部にある点を付け加えた集合)をcl(S)と記す。ここで、「密集」というのは、普通の平面ならイメージできるけど、一般の空間ではなんだかよくわからない概念なので、むしろ、閉包の持つべき性質を定義することによって特徴づける。それが、以下の4つの性質だ。

(i) cl(\emptyset)=\emptyset 空集合の閉包は空集合

(ii) cl(S \cup T)=cl(S) \cup cl(T) 合併の閉包は閉包の合併

(iii)  S \subset cl(S)  閉包は元の集合を含む。

(iv) cl(cl(S))=cl(S)  閉包の閉包をとると、変化しない。

閉包を「密集している点(近づいていく先)を取り込む」だとイメージすれば、上記の4つは当然そうなるだろうな、と受け入れられるだろう。位相空間論では、逆にこの4つがなりたつとき、cl(S)Sが密集する点を取り込んだ図形だと定義している。その空間に固有の「密集」を定義している、ということ。そして、このcl(S)から、開集合とか閉集合とか近傍とかを順次定義していくことになる。例えば、cl(S)=SとなるS閉集合で、閉集合の補集合が開集合というあんばいである。ちなみに、このように位相空間を構成するのは、クラウスキーという数学者の流儀らしい。

ぼくは、大学生のときは、この構成法にまったく親近感を持てずに、定番の開集合から導入する構成法で理解したのだけど、今回彌永本でこれを読んで、新鮮な気持ちで受け入れることになった。理由はいくつかあるが、(その中には専門の経済学の観点もあるけど、それは面倒なので説明しない)、ひとつは「無限概念が表向きには混入していない」ということ。例えば、開集合から導入する場合には無限概念が出てくる。すなわち、開集合は無限個の開集合を合併しても開集合で、有限個の開集合の共通部分は開集合、と設定される。無限個を許す場合と許さない場合に分かれる。もうひとつの理由のほうが大事なんだけど、それは「関数の連続性の定義がとても自然だ」ということだ。

開集合を主役とした定番の教科書では、「空間Xから空間Yへの関数fが連続」ということが、「空間Yの任意の開集合OfによるXへの引き戻しf^{-1}(O)Xの開集合」と定義されるんだけど、「引き戻し」というのがどうにも違和感がある。なぜなら、「関数が連続」の定義は、雑な言い方だけど、「xaに近づくなら、関数値f(x)f(a)に近づく」というものだから、「引き戻し」で語られてないからだ。

ところが閉包を使って連続関数を定義するなら、「空間Xの任意の部分集合Sについて、Sの閉包の関数値の集合が、Sの関数値の集合のYにおける閉包に含まれる、すなわち、f(cl_X(S)) \subset cl_Y(f(S))」となる。この定義は、さきほど書いた「xaに近づくなら、関数値f(x)f(a)に近づく」とまんま同じだと解釈できるように思える。「周辺の点を周辺に写す」ということだからだ。以前は、全くそんなことを考えもしなかった。でも今は、「何が自然だと思うか」ということに当時と違う感覚があるんだね。

 あと、彌永本で感心したのは、順序集合における「ツォルンの補題」の証明の方法だ。「ツォルンの補題」というのは、「順序集合の任意の空でない全順序部分集合が上限を有するとき、極大元が存在する」という定理。数学全般で利用される汎用性のある定理だ。普通はたぶん、「整列集合」(任意の空でない部分集合が最小元を持つ集合)と「超限帰納法」(数学的帰納法の拡張版)と「選択公理」(無限個の集合の族から1個ずつ元を取り出していい)を利用するんだと思うけど、それだと証明がめっちゃ長くなる。それに対して、彌永本では、「選択公理」だけからかなり短い証明を与えている。これは、これはHalmos(ハルモス?)という数学者の証明らしい。この証明は、単に極大元の存在がわかるだけじゃなく、それがとある全順序集合の最大限であることまでわかる。非常に抽象的な証明だけど、短いし、鋭い証明だと思う。

 彌永本は、形式的な自然数論とか実数論から開始されていて、大学生のころのぼくにはその意義がわからなかったけど、今はとても頭にしみる。とりわけ、実数の集合の構成をコーシー列の集合をとある極大イデアルでの商集合で実行して「体」に仕立てるあたり、感動すら覚える。人は変わるものなのだ。

 駒場の2年後期の数学科(進学内定者向け)の講義は、たしか、「代数」「複素関数」「集合と位相」だった。「代数」では、たぶん、単因子論かなんかやっていて、複素関数論はコーシーの積分定理をやっていたと思う。どちらもあんまり興味を持てなかった。でも、「集合と位相」だけは面白く受講してた記憶がある。特に、教員がなかなかユニークな人で、「ツォルンの補題」と「チコノフの定理」(コンパクト空間の集合の直積空間はコンパクト)については、「教えちゃうのはもったいないから、レポート課題にします」と仰って、宿題に課された。なのでぼくは、普段の講義はそんなに理解してなかったけど、この二つの定理は自分なりに必死に理解して、教科書を写すのではなく、自分なりに再構成してレポートを出した記憶がある。期末試験も、他の二つに比べればよく解答できた。(なんと、「代数」は追試になってもうた)。

 一応、販促すると、「集合と位相」については、拙著『数学入門』ちくま新書にかなりわかりやすく、かなり文学的に、かなり直感が得られるように解説しているので、手に取ってみてほしい。

 もう一度言うけど、年齢とともに人は変わる。興味もモチベも変わる。だから、今は頭が受け付けなくても捨て去ってはいけない。頭の片隅においておくと、いつか「その日」がやってくるかもしれないのだ。