関係性の社会思想へ

 ちょっと前にすでに出ているけど、改めて、雑誌『現代思想』8月号((目次→青土社)を紹介しようと思う。

現代思想2008年8月号 特集=ゲーム理論 非合理な世界の合理性

現代思想2008年8月号 特集=ゲーム理論 非合理な世界の合理性

 これには、ぼくは、松井彰彦さんとの対談と、それから『社会の「協力」に、理論はどこまで迫れるか』という論説の2本で、参加している。
最初、編集者からぼくにコーディネイトの話が来たきたけど、「専門家でないので」、といって別のもっと適切な人に頼むべきだと遠慮もうしあげたのだが、ふたを開けてみてたら、誰がコーディネイトしたのか、執筆陣はほぼ会ったことのある人ばかりとなっていた。松井彰彦さん、渡辺隆裕さん、岡田章さん、西村直子さん、丸田利昌さんとは宴席をごいっしょさせていただいたことがあるし、松島斉さんは大学院のセミナーに参加したことがある。ゲーム理論の研究者はたくさんいるし、そのほとんどの人とは酒を飲んだことがないのに、ここまで面識ある人が揃ったのは奇遇だった。そういう意味で、(ぼくには) とてもいい人選だったと思える。
 それはともかく、のけぞったのは、茂木健一郎さんが執筆陣にいたことだった。
いや、今、ゲーム理論では「神経経済学(ニューロエコノミクス)」が流行しているらしいので、(これについて、松島さんが、賛同と批判を合わせた詳しい記事を書いているので、それで読んでくださいな)、別に茂木さんがゲーム理論の論説を書くのはぜんぜん不思議ではない。そうではなく、「茂木さんって、どうして、こんなにたくさん仕事ができるの?」というのがすごく疑問だったのだ。
ぼくは昔、Zardの故・坂井泉水がCGである、という仮説を長い間持っていた。ぜんぜん、ライブシーンが出ないし、プロモはいつも同じ角度のものだけで、しかも動きがスローでいかにも重いプログラムで動くCGみたいだったからだ。また、ロックボーカリストにしてはあの人間離れした美人ぶりでもそう思ったのだった。それは否定的な解決を見たのだけど、今は、ぼくは新たに、茂木健一郎ロボット説、という仮説を密かに暖めている。たぶん、同じ茂木型ロボットが5体ぐらいあるんじゃないかな。そうじゃなきゃ、あんなにテレビに出たり、あんなに雑誌でインタビュー受けたり、あんなに頻繁に本を刊行したり、あんなにベストセラーにしたり(これはひがみ)、さらに論文書いたりできないっしょ。きっと、かなり茂木人気が完全になった頃に、ソニーコンピュータサイエンス研究所が記者会見して、「実は、茂木はうちの新型ロボットでした」、みたいな衝撃の事実を公開するに違いない。そして、ソニーの科学力を世界にアピールする、という段取りなのだ。今のうちにソニーの株買っとくかな。
 という冗談はさておき、『現代思想ゲーム理論特集である。
 ゲーム理論の重力場 - hiroyukikojimaの日記の日記で、松井さんとの対談の雰囲気はちょっとだけ書いたのだけど、そこで予告した通り、今回は少しだけ内容を紹介しようと思う。
松井さんとの討論のタイトルは、「関係性の社会思想へ」というものだった。ぼくは松井さんからゲーム理論についての「想い」を聞き出すなら、絶対、帰納ゲーム理論、のことを聞きたいとたくらんでいた。普通、ゲーム理論で扱うゲームというのは、プレーヤーがゲームの構造をよくわかっていて、演繹的に戦略を考える、という風になっている。そんな中で松井さんが、何人かの共著者と構築しつつあるゲームというのは、プレーヤーのゲームの構造に関する知識が不完全で、要するに自分がどんなゲームに参加しているのか曖昧な中で、「自分が参加しているはずのゲームを勝手に想像しながら」、戦略を考えていく、というようなものである。この場合、「経験」というのが大事になる。勝手に想像しているゲームの中で適当な戦略を選ぶと、その「帰結」が外から与えられる。これが経験である。経験からゲームに関する「思いこみ」が改訂されていくのだ。つまり、松井さんの構築しているゲームのプレーヤーは、ある意味で、「帰納的」思考をしていることになる。(帰納と演繹の違いについては、統計学の面白さはどこにあるか - hiroyukikojimaの日記を参照のこと) 。松井さんは、こういう方法論で、例えば、「偏見から差別が生まれるのではなく、差別から偏見が生まれるのだ」、というような非常に深い主張を導いたりするのだ。(このことは今回は解説する余裕がないので、興味ある人は、拙著『確率的発想法』NHKブックスで読んでね。松井さんの『慣習と規範の経済学』東洋経済がオリジナルだけど、こっちはすごく難しいので、まずぼくのほうを前座で読むべし) 。
 今回の討論で松井さんが、「自己言及的」、ということばを使うのと聞いて、ぼくは松井さんたちの帰納ゲーム理論が、ひとことでいうとどういうものであるかを、電撃のように悟ったのだ。そう・・・「自己言及的」というのが、まさにピッタシなのだ。「自己言及」というのは、例の、「この文章は嘘です」というような、自分が自分について語っているような構造のことをいう。この手法を使って、ゲーデルが「自然数論を含む公理系には、ある論理文が存在し、その文もその否定文も証明できない」ということを証明したのは有名だ。いわゆる「不完全性定理」というものである。松井さんたちが向かっているのは、そういう不完全性定理的な世界観の経済学版なのだ、とわかった。
 例えば、今回、二人で意気投合した「障害」の問題である。(ぼくの「障害」に対する考え方は、『数学でつまずくのはなぜか』 - hiroyukikojimaの日記の日記参照のこと)。詳しくは、『現代思想』を読んでもらいたいけど、松井さんは「障害」というものの見方が「自己言及的」だといっている。どうしてか。例えば、14階建ての建物には必ずエレベーターがついているし、法律でもつけるように指示されている。しかし、多くの2階建ての家屋にはエレベーターはついていない。そこには、2階ぐらいなら「普通の」人間はあがれるが、14階までは「普通の」人間は昇れない、ということからだ。そして、そのことから、「2階に自力で昇ることのできない人」が、そのことをもってして「障害者」と呼ばれる。ここに自己言及の構造があるのである。よく考えると、最初に、2階ぐらいなら「普通の」人間はあがれるが、14階までは「普通の」人間は昇れない、と「勝手に決めつけておいて」、そこで生じる「昇れない」という結果から、「障害」というレッテルを貼る。つまり、そもそも「普通の人」というのを先に決めておいて、ある種の生活構造を作るから、それに適しない形で「障害」という概念が形成される。これは確かに「自己言及的」な構造をしている、といえるだろう。松井さんはいう。「仮に、2階まで昇り棒みたいもので昇らないとならない家屋を造ったとすれば、われわれのほとんどは障害者となってしまう」と。
もちろん、「障害の規定」というのは、こういうフィードバック機能だけですべてを論じ尽くせるわけではなく、もっといろいろな様相を持っている複雑な問題だろう。コスト・ベネフィットの問題もあるし、多数・少数の問題もあるだろう。でも、「普通」っていったい何?、という問いかけはとても重要な出発点だということだけは確かだろう。しかも、それをゲーム理論の立場からアプローチしようとしている。ゲーム理論というのは、かいつまむと、複数の人間の関係性と、彼らをとりまくスキームの働きに注目するものだ。だから、「障害」と「ゲーム理論」という取り合わせは、突飛どころか、とてもマッチしているのだ。それこそ「関係性の社会思想」という意味で。
 ぼくも、このところ、「障害」の問題について考えてきて、このブログにも何回か考えを綴ってみたけど、さすが世界的学者の松井彰彦、ぼくとは切れ味が違う、と思い知らされた。学会とか、セミナーとかだと、こういうゲーム理論の背後に込められている社会思想的なことを膝を詰めて話し合うチャンスは希有なので、(なんでか、経済学者のマナーとして、そういう言説は避けるようなんだよね)、こういう雑誌でこそ、そういうことができるのが有益だと思う。学術ジャーナルや学会ばかりではなく、このような雑誌を媒体として議論することには、それなりに大きな意義があるな、と再認識したのだった。