『容疑者ケインズ』出ております。(序文をサービス)

 以前、グッバイ・ケインズ - hiroyukikojimaの日記で予告しましたぼくの新刊『容疑者ケインズ』プレジデント社が先週末から書店に並んでおります。カバーは、こんな感じ。

容疑者ケインズ (ピンポイント選書)

容疑者ケインズ (ピンポイント選書)

はい。皆さんが今発している独り言、わかります。「容疑者って、いったい、ナニ?
まったくおっしゃる通り。正直、ぼくにも意味がわからん。これは編集者のつけたタイトル。当初は、「ご冗談でしょう、ケインズさん」というアイデアが浮上してたんだけど、ぼくが泣きながらすがってやめてもらった。ぼくは相当なえげつない書名まで許容できる図太さを持っているが、さすがにこれで自分の限界を知った。ファインマンの名著のタイトルを自分の本につける勇気とふてぶてしさは持ち合わせなかった。まだ修行が足りないようだ。そんな経緯で、この書名『容疑者ケインズ』になったわけだが、編集者から聞いてはいないんだけど、東野『容疑者Xの献身』あたりから持ってきたのかな、と憶測してる。違うかもしれないけど。(田中秀臣さんにも、ブログでちゃかされてるし。でも、ご紹介、ありがたいっす)。
 イメージはなんとなく伝わるかな。それは、「ぼくがケインズになにがしかの疑いを持ってる」、って意味でもあるし、「現代の経済社会をこのようにしてしまった真犯人か?」という意味にもなるし、「この男はまだ何か知っているはず」って意味にも取れる。ダブルミーニング、トリプルミーニングの味わい深いタイトルだともいえよう。
 実は、ぼくが自分の本に自分で書名をつけたのは、デビュー作の『数学迷宮』だけなんだよね。このときは編集者とタイトルをいくつか出し合って、その中からぼくの出した案が採用された。あとの本は、すべて編集者がタイトルをつけた。中には、気に入ってるものもあるし、正直、ピントはずれだな、とか、ちょっと恥ずかしい、と思っているものもある。でも、餅は餅屋だし、スタッフワークというのは尊重すべきものだし、何よりも「書名が悪くて売れない」というリスクを編集者がかぶってくれるのはありがたいことなのだ。
 例えば、『数学でつまずくのはなぜか』講談社現代新書は、依頼を受けたときは、『<こども>のなかの数学』だった。そういうプロットで本を書いたし、今でもこのタイトルのほうが中身を的確に表していると思うけど、最終段階の編集会議で現在のタイトルに変わったのだ。編集者がいうには、元々のタイトルはとてもいいけど、そういうタイトルで本が売れるような牧歌的な時代じゃない、ということだそうな。とにかく手にとってもらわないことには仕方ない、目次を開いてみてもらわないことには、ということなのだ。実際、タイトルのおかげで、この本は非常に初速がよかった。反面、「本の後半(集合論を解説するところ)は、タイトルとはぜんぜん違うじゃないか」という批判もブログやアマゾンの書評で見かける。そういうのを読むと胸が(良心が?)痛くなるのだけれど、逆に、易しい数学つまずき本だとばかり思って読んだんだけど、後半の現代数学のところも含めて面白い、数学に目覚めた、という感想もあって、そういう人は、元々のタイトルでは手にさえ取らなかったのかも、と思うと結果オーライか、という気にもなる。
 ちょっと話がそれるが、「書名」から「中身に関する情報」が失われはじめている、という現象は、ものごとの「市場化」ということと関係がある気がしている。
システムが「市場化」されることは社会にとって良いことだと論じられるが、必ずしもそうではなさそうだ、という経済学者としての直感がある。例えば、会社の所有権である株式を売買する証券市場が整備されたことは、もちろん、資本主義を発展させる推進力だったわけだけど、ほんとうに良いことだけか、といえばそうではないだろう。株式市場では、実は、企業情報が的確に反映されず、付和雷同やパニックを引き起こす不安定性を抱える問題も生じているのだ。それは、市場参加者たちが、ある意味で、「騙しあい」のようなことをするからであり、「リアルな情報」以外のノイジーな情報要素が大きくなるからだ。本の市場におけるタイトルや装丁なんかにも、そういう「騙しあい」の様相があるんじゃないかな、などと漠然と感じたりしているわけだ。ちなみに、このような株式市場における情報の効率性の問題は、グロスマンとスティグリッツによる「効率的市場の不可能性定理」として知られており、これは『容疑者ケインズの第2章ですごくわかりやすく解説されているので要チェックだね。(と、無理矢理、宣伝宣伝)。
 さらにいうなら、受験業界の成立後の受験戦争とか、リクルート業界成立後の就職戦争とかも、似たような問題を抱えているような気がしている。採用する側もされる側も、有効に情報をシグナリングできないような「不安定性」が出てきてはいまいか。今問題になっている派遣市場なんかも、早晩、そういう非効率性を抱える心配もある。でも、これらのことは、単なるぼくの直感であって、全然根拠はないし、実際、このことを現代思想2008年8月号特集=ゲーム理論(関係性の社会思想へ - hiroyukikojimaの日記参照)で松井さんと議論したときは、松井さんに批判されてしまった。
 と、ものすごく脇道にそれてしまったので、もとに戻すと、とにかく、『容疑者ケインズ』だ。
この本は、ケインズの仕事を3つの分野に分けて、それぞれに一章分ずつ使って論じている。第1章は、いわずと知れた「一般理論」。この理論の構造を詳しく解説するとともに、問題点もいっしょに語った。とりわけ、小野善康さんが論文「乗数効果の誤謬」や『不況のメカニズム』中公新書で論じた「公共事業で景気対策、なんてまやかしなんだよ」ということを、ぼくなりに平明に解説した。今までのぼくの本と異なるのは、徹底的にことばだけで解説してる、ってこと。数式を使ってないけど、ちゃんと経済理論特有のモデル分析の形式を踏襲してる。(小野さんとは違う見方で同じ内容のことを再論したので、合わせて読むと理解が深まると思う) 。でも、この章の本意は、ケインズのいう貨幣選好(流動性選好という)を、ぼく独自の見方から論じて、第3章の新しい選好理論の潮流への伏線としていることにある。最後の1ページを読んだときに、( 推理小説のように)、著者の意図が解明され、突然視界が開けることとなることうけあい。(なんちゃって)。
で、第2章は、さっきもいった通り、資産市場のさまざまな問題を扱っている。とりわけ、経済物理学の結果やエプスタインたちの論文など、今世紀になってからの研究を紹介しているのが自慢だ。そして、最終章は、「意思決定理論」とか「確率的選好理論」と呼ばれる、ぼくの専門分野の話。ここでも、グルとペッセンドルファーによる最新の研究を使って、経済理論が、匍匐前進ながらも、人間固有の心理的な部分に迫ってきていることを紹介しているのだ。そんでもって、最後は、第1章に仕掛けた伏線(謎)の解決で終わる、ってわけだね。
 薄い本だから、すぐに読了できちゃうと思うけど、内容はかなり濃いし、潤沢だと思うので、(著者としては)損はさせないつもり。
そんなわけで、ブログ読者への特別サービスとして、序文をさらしておくね。

「容疑者ケインズ」まえがき
   
       ケインズとは何ものだったのか

 ジョン・メイナード・ケインズ。この男の名を、あなたはきっと耳にしたことがあるだろう。だからこそ、この本を手に取り、このまえがきを読んでいるはず。
 でも、この男が何ものかをどの程度知っているかは、あなたがどの世代に属するかでかなり異なるに違いない。あなたがけっこう年季を重ねているかたなら、ケインズを「資本主義社会の行方を左右した偉大な男」と理解しているだろう。けれども、あなたがまだ中年にさしかかったかそれ未満のかたなら、「名前ぐらいは聞いたことあるけど、実際のところ良く知らない」、そんなところに違いない。
 それもそのはず、ケインズほど、その評価が変転した学者は珍しいのだ。
 ケインズは経済学者である。そして、おおよそ今から70年前、1936年に『雇用、利子および貨幣の一般理論』(以下、『一般理論』)という本を出版し、大きなセンセーションを巻き起こした。折しも世界大恐慌の直後、資本主義社会の不安定性を論証しその処方箋を示したこの本は、驚きと畏敬を持って迎えられた。その理論は、「ケインズ革命」とまで称され、前世紀の多くの国家の経済政策に強い影響力を持った。ある意味で、ケインズの理論が、この時代の経済社会のあり方を変えてしまった、といっていいのだ。
 けれど、その栄光は確固としたものとはならなかった。
 前世紀の終盤から今世紀にかけて、多くの経済学者から造反の「反革命」が起きた。これは見ようにもよるが、ある意味、「ケインズの理論は完膚無きまで叩きのめされてしまった」、といえなくもない。あなたが、ケインズの名を知っているにもかかわらず、最近あまり耳にしないのは、そういう事情によるのだ。
 ぼく自身、ケインズには現在、アンビバレントな気持ちを抱いている。
 詳しくはあとがきに書いたが、ぼくはケインズの経済学に憧れて、数学の道から経済学の道に転身した。経済に関してど素人だったときは、ケインズ理論はとても深淵でみごとな論理性を備えた理論だと思っていた。けれども、経済学の修行の途上で、緻密にひとつひとつ検討していった結果、思っていたものとはだいぶ違うものであることに気づいてしまったのだ。つまり、無理な決めつけや都合の悪い要素の無視などが散見される、ひどくアドホックな論理展開、そんな風な感触を持った。
 とはいっても、がっかりしたわけではない。道すがら、ケインズとは別の場所で何度も再会するはめとなったからだ。いったいどこか。
 現在の経済社会では、金融の高度な発達やグローバル化によって、さまざまな新しい問題が引き起こされている。今新聞をにぎわせているサブプライムローンによる株式市場の混乱が最たる例である。このところ先進国は、何度も新種のバブルとその崩壊、そしてその後遺症としての金融危機を経験している。このような金融市場での混乱に、最も先鋭的な分析を行ったのが、誰あろうケインズなのである。現代の経済学では、このようなリスクと思惑が絡み合う生臭い金融の世界を数理的手法で読み解く方法論が整備されつつあるが、それは皆ケインズを起源にしている、といっても過言ではない。
 いったい、ケインズとは何ものなのだろう。
 この本は、この疑問へのぼくの現段階での解答を示したものだ。ちょっと先走りにすぎて軽率だが、めちゃめちゃ鋭い洞察力を持つアイデアマン。でまかせも言うが、真実を知っているのもこの男。それが現在のぼくのケインズ像である。この本では、そういう視点から、ケインズのどこがダメでどこをスゴイと思っているか、それを正直に書いた。一番のウリは、ケインズ像をここ20年の最新の経済学の研究成果から振り返っている、という点だろう。
 第一章は、ケインズの『一般理論』の批判的解説である。この理論は、「資本主義は決して安定的ではなく、放置しておくと慢性的な不況に陥り、失業や格差を生み出す」、ということを論証したものであった。この理論がとても野心的なアプローチを持ちながらも、いろいろ無茶をしていて、ケインズ自身も混乱と錯誤を起こしている、ということをできる限り平明に解説したつもりだ。
 第二章では、日本に平成不況をもたらした土地バブルや現在アメリカで進行しているサブプライムローンによる金融不安などに代表される今日的な金融市場の問題に、最新の経済理論からアプローチした。道具立ては、「ナイト流不確実性理論」、「経済物理学」、「効率的市場の不可能性定理」など、ぴっかぴかの最新兵器だが、読者はその背後に、容疑者・ケインズの影をかいま見るだろう。
 第三章は、ぼくが専門とする「意思決定理論」という分野での最新の研究の紹介だ。それは、人がだらしなく何か誘惑されたり、優柔不断だったりする性向を、どうやったら数理的に表現できるか、それを追求した理論である。またこれらの理論は、「貨幣とは何か」という経済学の「永遠の謎」にも結びつく。そして、この分野のハシリもまた、ケインズに求めることができるのだ。
 読者の皆さんが、この本で、ケインズという男の証言にじっくり耳を傾けながらも、決してこの男の悪魔的で魅力的な話術に騙されず、この男だけが知っていたに違いない「経済社会の真相」を冷徹に聞き出していただければ本望である。