田中秀臣さんは愛に満ちた敵

田中秀臣さんが、拙著新刊『容疑者ケインズ』プレジデント社を、3回にもわたって、ご自身のブログで紹介してくださった。とりわけ面白かったのが、田中秀臣ブログの8月14日の日記の出だしであった。

献本いただく。どうもありがとうご‥‥って、これで二冊目やん! 笑)。

さらには、こうも書いている。

やがて郵便ポストに音がする。何が来たかな? と思って開封したら、また同じ『容疑者ケインズ』だ。小島さんからではなくまたもや編集の方々からだ。田中の弱い心はボキっと音を立てる。僕は「誘惑」に打ち負けて、こんなエントリーをまたまた書いて、皆さんに本書を激しくおススメしている。笑)

これで思い出すのは、PKディックの名作短編「探検隊帰る」だよね。どっかの惑星に探検に行った飛行士が、帰ってくるんだけど、おかしくなってるから、そいつをみんなで始末すると、また、そいつが宇宙から帰ってくる。何度でも何度でも繰り返される。結局は、その惑星の宇宙人が、飛行士のクローンを作って、何度でも地球に送り返してきてただけだった・・・とかそんな感じのストーリー。笑ってしまうような、戦慄するような。田中さんの日記にも、同じ雰囲気が漂っているね。
あと、乙一の傑作短編「ZOO」。ある男のところに毎朝、自分の恋人の惨殺死体の写真が送られてくる。実は、送っているのは自分。その写真から、死体のありかを突き止め、そこで写真を撮って、自分に送る。そして、また、翌朝に、送られた写真を見て、死体を探しに行く。その繰り返し・・・う〜すばらしい。田中さん、ひょっとすると、自分で買っては、自分に向けて送り続けてるのかも。おぉ、こわこわ。笑い。
 あ、関係ないけど、ホラー話のついでに、シャマランの新作『ハプニング』観てきた。いやあ、すばらしかった。評判は悪いけど、それはシャマランの意図を読み誤ってると思うな。今回は、みまごうことなきB級ホラー映画のトリビュート映画を作ったのだと思う。ずいしょずいしょに名作ホラーへのオマージュが観られる。おおまかにいうと、ロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」とヒッチコックの「サイコ」じゃないかな、と思う。人ががんがん死んで恐いんだけど、「殺人」じゃない、というところが画期的なのだね。めっちゃ恐いんだけど。これ以上は観てのお楽しみ。
 っと、元に戻ろう。田中さんは、こうも書いてる。

小島マクロ経済理論を批判して本書をゴミ箱にでも叩き込みたい気持ちがあるものの

にもかかわらず、3回にもわたって、紹介してくださっている。短い文章の中に、敵対心と愛とが入り交じってる。それじゃまるで、「巨人の星」の花形満みたいじゃないかね。花形は、星を終生の敵としているわけだけど、その屈折した愛を徹底するが故、星が巨人軍に入団するのに荷担し、自分は好きでもない阪神に入り、星の大リーグボールを打つために体をぼろぼろにし、おまけに星の姉ちゃんまで嫁に迎えてしまう。これこそが、完全無欠の敵対心、というものだろう。ほんとうに自分の見合う敵になってもらうためには、どんな努力も惜しまない。自分が倒すに価する敵となってもらうために、すべてを投げうつこの愛。田中さんにそんな愛を感じてしまった今日この頃。
 とかなんとか、下らない話をしてないで、すこし、まともなことも書こう。(定期試験の答案を1500枚も採点して成績つけたストレスで、ちょっとオツムが変になってるわたしなのであります。ケロロであります)。

優柔不断な俺たち=日本人だから、停滞してもやむをえない。金融政策なんか効果ないから優柔不断に何かが終わるの待つべし」なんてことになりかねない小島理論はまるで、不況の前に指をくわえて佇む某厨銀みたい

ここはどうなんだろう。ぼくは、そういう風には思ってないように、自分では思う。容疑者『ケインズには、そのへんをあまり書く紙数がなかったので、このブログのほうに書いて、補足としよう。
「不完全均衡なんてない」とは思わないし、「公共事業の景気浮上効果はない」とも断言できない。あったっていいと思うし、直感的にはあるような気がする。というか、あってくれたほうが学問的には面白い。でもあったとしてもそれは、ケインズのいってる仕組みじゃない、という気がするだけ。本に書いたように、ケインズの論理にはひどい錯綜と破綻が見られるから。でも、説明が芳しくない、というか、完成度が低い、とは思うのだけど、全面的に間違ってるか、というと、そうも思わないんだよね。いい線いってる感触がある。( 偉そうに聞こえたらスンマセン。)
 この感じをわかってもらうためには、物理学における「熱現象」の解明の歴史が一番適切な喩えだと思う。熱とは何か。熱が伝わって行くとはどういうことか、という問題。最初は、「熱素」という物質があって、それが物質の中を流れていくのだと思われていた。でも、それではうまく説明のできないことがいっぱい出てきて、この説は否定されることになる。そして、かなりたってから、分子運動論が提唱されてうまく説明されることとなった。でも、分子運動論だって、分子の運動エネルギーが、衝突や振動や磁気現象なんかで伝播していく、ってことだから、「熱素」説とそんなにめっちゃ違うわけじゃない。だから、こそ、「熱素」という正確でない解釈でも、蒸気機関が成功したわけだし、その程度にはこの説の有効性はあったわけだ。(別に、熱素説から蒸気機関が発明されたわけじゃないけど、蒸気機関(熱機関)の研究から、エントロピーの概念が生まれて、熱力学が誕生したのは有名。分子の発見は、そのずっと後のこと)。
 ケインズの仮説だって、「熱素」説ぐらいの、あるいはそれ以上の真実を含み、うまいツボを突いてる可能性があると思うのだ。だから、財政政策も金融政策も、効く場面はけっこうあるんじゃないか、と思う。経験としてそう感じている政治家や歴史家がいるわけだし。そういう意味では不要な仮説だとか、クズだということは全くない。(と思うからこそ、すごい労力をかけて、一冊本を書きあげたわけだしさ)。だけど、「熱素」説と同じように、どこかに不備とか飛躍とか考え落としとか論理破綻とかがあるので、そこはそれ、ケインズの着想は活かしながらも、一歩前進、もう一歩前進を目指すのが、経済学者の仕事なんじゃないかな、と思うわけ。仮に、ぼくの貨幣論に正しい部分があって、人が優柔不断でいるために貨幣を保有することが不況の原因だったとして、それでも金融政策が有効性を持つことが完全に否定されるわけじゃない。あるときは、単に、「お札の枚数」を増やすことでも、「優柔不断を解消する」ことができることもあるだろうし、ある場面ではそうではないだろう。「お札を印刷してもダメ」な場面で有効な金融的な技術というのは、何かあったっていい。蒸気機関程度には、今の金融政策だって役に立つものだろうけど、(いうまでもないが、蒸気機関は大発明の一つだ)、もうワンレベル・ツーレベル、精度のいい制御をするには、「熱とは何か」を正確に掌握したような発見を、マクロ経済学が実現する必要があるのだ、と思う。さらにいうなら、現在だって、熱現象の科学(熱・統計力学)は完成してなくて、物理学者が地道な解明努力を積み重ねてるわけだから、マクロ経済学においてだって、そうするのが、ぼくや田中さんの使命なんじゃないの? と、花形に血染めのボールを送り返すぼくであった。