小野善康『消費低迷と日本経済』は、賛否にかかわらず読んで欲しい本

 小野善康『消費低迷と日本経済』朝日新書が刊行されたので、満を持して、紹介したい。

「満を持して」とは、どういう意味か、というと、この本の企画にぼくが多少の関わりを持っているということ。あとがきに書かれているが、ぼくがぼくの担当編集者さんに小野さんの理論を紹介したことがきっかけで、この本の企画が誕生したからだ。ぼくは、この編集者さんと過去に『数学的思考の技術』ベスト新書を作った。この本には、宇沢先生の思想とともに、小野さんの理論も紹介している。この新書を作って以来、編集者さんとはことあるごとに小野さんの理論について話をしてきた。とりわけ、小野さんが朝日新聞大阪版で「ミダス王の誘惑」という連載を開始したときは、「絶対に読むべき」と伝えた。それを受けて、編集者さんは、「ミダス王の誘惑」をベースに新書化する企画を立ててくれたのだ。
「ミダス王の誘惑」は、マクロ経済学の知見に関する画期的な連載なので、大阪版ではなく全国版で連載すべきものだと思っていた。そういう判断をしなかった朝日新聞は、とてももったいない過失をおかしたと思う。そういう意味で、朝日新書から本書が刊行されたのは、本当に良かった。ちなみに、「ミダス王」とは、ギリシャ神話に出て来る王で、神ディオニュソスから望みのものを与えると言われて、触れたものをすべて金に変える能力を授かった。はじめは喜んだが、食べ物も飲み物も触れるたびに黄金に変わり、食べることができなくなり、おおいに困って元に戻してもらった、という逸話である。国民が金銭欲にはまったために経済が低迷する社会の象徴として、小野さんがタイトルに使ったのだ。小野さんの理論を一言で表現する優れた記事タイトルだと思う。
 本書『消費低迷と日本経済』について、とくに強調したい点が二つある。
第一は、小野さんにしては珍しく、実証データを基軸に主張を展開している、という点。小野さんは、理論家なので、これまではほとんどデータを示してこなかった。実は、ぼくは以前、ワークショップで同席した著名で業績の高いマクロ経済学者と小野理論について議論させていただいたことがあり、そのとき、その学者さんは、「小野さんの理論を高く評価しているが、小野さんはもっとデータに関心を持つべきだ」と仰った。ぼくも、そうしてくれればもっと多くの人たちに小野さんの理論が認められるのに、と感じた。そういう意味で、本書はその待望に答えるものとなった。本書では、「これでもか」というほどたくさんのデータが提示されている。これを見れば、小野さんがデータ音痴なのではなく、実はちゃんとデータによっても自己の理論を検証しているのだ、とわかるだろう。
第二は、本書が小野善康による『一般理論』になった、という点。小野さんと研究会をしたときの懇親会で、ぼくは小野さんに「21世紀の『一般理論』になる本に仕立てて欲しい」とお願いした。そのとき、小野さんは、「それは『貨幣経済の動学理論〜ケインズ復権』でやった」と答えてくださった。確かに、理論書としてはそうだと思う。でも、ケインズ『一般理論』は、理論書であるとともに、新しい経済学を啓蒙するパンフレットでもあった。そういう捉え方をするなら、『貨幣経済の動学理論〜ケインズ復権』は、一般の人には敷居が高すぎる。小野さんの啓蒙パンフレットとしての「一般理論」は、本書『消費低迷と日本経済』なのだと思う。
 本書は、一言で言えば、「普通の人が思っている経済の常識をことごとく覆す本」だ。だから、人によっては、「トンデモ」と評価することだろう。実際、素人と見受けられる方々が、ツイッターで、小野さんの主張を「トンデモ」呼ばわりしているのをよく見かける。そういう人たちは、たぶん、自分の印象や先入観をして「常識」と捉えているのだと思う。正直、ぼくはそういう人たちのことは気にならない。きちんと勉強をして、自分の先入観や印象を検証しようとしない人は、説得しようがないからだ。実際、「アインシュタイン特殊相対性理論は間違っている」などと、アインシュタインを「トンデモ」呼ばわりする人が今も散見される。そういう人たちの主張を見ると、きちんと特殊相対性理論を理解していない。さらには、「物理理論が正しいとはどういうことか」という科学的方法論についての理解もない。そういう人たちがいるのは仕方ないし、学問側からは放っておくしかないと思う。理論は、専門家たちの議論と検証によって正否を決め、正しいとなったら、学者たちが総力をあげて社会に広めていくべきなのだ。
 小野さんの理論は「常識を覆す」ような内容を多々持っている。褒めすぎかもしれないけど、「時間が歪んだり、物質の長さが縮んだりする」特殊相対性理論に比肩しうる経済理論だとぼくは感じている。個人的すぎる感想だが、小野さんの理論を理解したときの興奮は、特殊相対性理論がわかったときに匹敵するものだった。小野さんの理論は、消費選択に関する方程式(ρ+π=v'(m)/u'(c))と貨幣効用に関する極限法則(lim v'(m)>0)の2式だけから成る。前者は、ケインズとラムゼーが発見し、シドラウスキーが(宇沢先生の指導の下で)発展させた方程式で、別に小野さんの独創ではない。後者の式も、単なる効用関数に関する仮定であり、新奇なものではない。この二つを組み合わせるだけで、「常識を覆す」帰結が次々出てくる、というのは、特殊相対性理論と似ているとぼくには思える。特殊相対性理論は、「相対性原理」「光速度不変の原理」だけからさまざまな「常識を覆す」帰結を導くからだ(特殊相対性理論の簡単な説明では、例えば、拙著『世界は2乗でできている』参照のこと)。念のため付け加えると、本書では、小野さんは一切理論に触れていないので、普通の経済本として読める。
もちろん、経済学の理論として広く認められていないこの段階では、「常識を覆す新理論」である可能性と、「いずれ忘れ去られてしまう理論」である可能性とどちらもあると思う。ぼくも、絶対に正しいという確信は持ってない。それは十分な時間をかけた検証によって、いずれはっきりすることだろう。ただし、「広く認められていない」と言っても、「トンデモ呼ばわり」する素人の人の判断は、無知な言いがかりに過ぎないことは言っておきたい。小野さんの理論は最初、IERという一流のジャーナルに公刊され、その後の継承論文もJERなどちゃんと査読のあるジャーナルに掲載されているからだ。
さらに付け加えると、最近は、欧米のマクロ経済学の研究者で、小野さんの理論とほぼ同内容の論文を書いている人が何人か出てきた。例えば、その中の二人に、Emmanuel SaezとPascal Michaillatがいる。彼らは、超一流のジャーナルAERやQJEにたくさん公刊を持っているような優れた学者たちだ。じわじわではあるが、小野さんと同じ発想を持つ経済学者が現れ始めている、ということであり、素人が印象だけでバカにできるようなレベルではないのである。
 では、本書は、どんなふうに「常識を覆している」のであろうか。最も大事なことは、小野さんが成熟社会と呼ぶ「需要不足の社会」では、私たちの経済に関する印象論がすべてがあべこべとなる、ということだ。いくつか列挙すると、
*企業が効率化をすると、かえって不況を悪化させる。
地震、水害などの供給ショックはあまり深刻化しないが、リーマン・ショックのような需要ショックは深刻化する。
*所得が低いから消費できないのではなく、貯蓄意欲が高く消費意欲が低いから所得が低迷し、貯蓄できない。
増税は(税収を正しく使うなら)景気を冷やさない。減税には景気刺激効果はない。
*金融緩和政策は効かない。
脱原発コストは負担にならない。むしろ、景気刺激効果さえある。
*外国人観光客が増えても、輸出企業が儲かっても、景気回復にはつながらない。
これらを読んだら多くの人は、「そんなバカな」と思うことだろう。ぼくも、経済学を勉強していなければ、そう思ったに違いない。でも、小野さんの理論を理解すると、これら「常識を覆す」帰結はすべて正当だと感じられてくる。本書では、それがデータの方角から説得されるようになっている。賛否は人それぞれだろうし、納得できない人も多かろう。そういう人たちでも本書は読む価値があると思う。本書のデータを見た上で、小野さんの理論を勉強するなり、自分の反論を再整備して磨き直すなり、したらいいと思う。
 ただ一つ残念なのは、本書が衆院選前に刊行されなかったことだ。なぜなら、本書は、アベノミクスに対する強烈な批判の書であるからだ。その点について、最も重要で衝撃的な事実だと思われる一点だけ引用して、紹介を終えよう(91ページから93ページ)。

経済成長もインフレも起こらないなかで、政府が強調するアベノミクスの成果とは、株価の上昇と雇用の拡大、特に女性の就業者数の拡大である。
このうち、株価はバブル特有の乱高下を繰り返すだけで実体がないが、就業者数の拡大や失業率の低下は実体経済の指標であり、本当であれば非常に望ましい。
 しかし、中身を吟味すると、とても成果とは言えない厳しい現実が見えてくる。グラフ3-7は、男女合計および男女別の就業者数の動きを、実質GDPの推移とともに示している。(中略)。
 このグラフから、アベノミクス以前の就業者数の変化は、リーマン・ショックによる男性就業者の大幅減少によるものであり、安倍政権発足直後の13年以降は男性就業者は伸びず、もっぱら女性の就業者増が総就業者の増加を支えていることがわかる。同時に注目すべきは、この間、実質GDPが横ばいという点である。
 これは何を意味するか。
 安倍首相は繰り返し女性の活躍を訴えており、確かに女性の就業が増えている。しかし、GDPが増えないまま、女性の就業者数だけが増えているということは、以前と変わらない総量の仕事を男女で分け合っていることを意味する。そのため一人あたりの生産性は低下しているはずだ。このことは賃金が下がっていることからも、裏付けられる。

小野さんは、現在の失業率の低さや求人倍率の高さを、アベノミクスの成果ではなく団塊世代の退職による人口動態の帰結と判断している。上記の女性の就業の事実は、さらに深刻な実体を指摘したものなのだ。