踏み倒しの合理性

 小室哲哉の逮捕には驚いた。90年代、音楽の重心が洋楽からJpopに移動していくなか、それに乗り遅れたぼくらは焦りと疑心暗鬼の中にいた。みんながあだ花を追っているのか、自分たちがゾンビにしがみついているのか、ぼくらには自己判断ができない状態だった。
結局、マーケットはJpopに席巻され、ぼくも今ではほぼ邦楽しか聞かない音楽消費生活になってしまった。そんな来るべき時代への移り変わりの中で、小室の存在は最も気になるものだった。この人物を天才ミュージシャンと認めるべきなのか、単なるセールスマンとして無視すべきなのか。とりわけ、イギリス系のプログレ音楽やハードロックで育ってきたぼくらは当惑の日々だった。昨日、つれあいが「この人の真価について、当時、いろいろ語り合ったよね」と言ったので、「そうだったっけ」とふいに当時の意識が懐かしさとともに蘇ったのだった。
 その上で、ぼくとつれあいが話したのは、「小室は、ある時点から、借金を返す気はさらさらなくなっていたのではないか」という憶測だった。全く根拠はないのだけれど、報道される小室の行動からそういうことが推測された。そう考えると、マスコミが「転落」とか「凋落」とか「バブリィな生活から抜けられなかった」とか騒ぐけど、ぼくにはちょっと違う風景が見える。それは、「踏み倒しの合理性」ということだ。
 返す気のない借金は、基本的に巨額になる。あたりまえだ、どうせ返さないで「自己破産」するか「差し押さえ」になるか「詐欺で逮捕される」かするわけだから、いくら借金が大きくなったって関係ない。むしろ、できるだけ借金を大きくしながら、できるだけ借り換えをつないでいって、破綻を先延ばしにして、借り換えの差額を消費にあてていったほうが幸せである。もちろん、破綻の経路に突入する前は、なんとかどこかで正常な生活に戻るように考えるのが合理的だけど、一度破綻への経路に入ってしまえば、むしろ「借金を可能なかぎり膨らます」のが合理的行動だといえるだろう。
 どうもこの「踏み倒しの合理性」が、今回のアメリカのサブプライムローンでも働いていたようである。様々な報道やこれを扱った本に、「ローン契約者は元金を地道に返済する意志はもともとなく、実際には金利分しか支払っていなかった」とある。実際、アメリカに住んでいる旧友と去年話したところ、彼は「それがアメリカ人の基本的なライフスタイルだ」というニュアンスのことをいっていた。もちろん、彼の日本人としてのユーモアだということは割り引いても、まだそういうアメリカ人の側面はかなり残るのだろう。実際、彼も異動のたびに転居して3件の家をローンとともに所有している、ということをいっていた記憶があったので、そのとき心配したぼくは家を所有しているのはやばいんじゃないか、とサジェスチョンした。それを聞いた彼は、「それはもうちゃんと売ったよ」と笑いながらいった。これが昨年の夏ぐらいのことなので、これから1年のできごとを考えると、彼は(結果的にではあるが)「売り抜け」に成功した人、ということになるだろう。
本筋からは離れるが、このときぼくが「アメリカの住宅バブルは崩壊して大変な事態を引き起こすかもよ」といったことばの意味を、彼はあまり深刻には受けとらない印象を受けた。そういう意味でいうと、彼と話すたび、アメリカ居住者と自分との感覚の違いに気づかされる。例えば、彼がだいぶ前に帰国したとき、ちょうど「松本サリン」が起きた直後だったので、ぼくがその話をすると、彼の奥さんがすかさず「テロか?」と聞いた。その時点では、日本人は、何かの事故か愉快犯のように考えていたのだが、彼女の直感が当たっていたことが少しあとにもっと大きな悲劇で判明することになった。このように、良し悪しというのではない形で、アメリカ居住者と日本居住者との間には、大きな感覚や考え方の違いがあるように思えるのだ。
 本筋に戻ろう。要するに、アメリカのサブプライムローン利用者の多くは、ある時点(住宅価格がある価格水準まで高騰した時点)から、もうローンを返済する気がなく、ローンを借り換えていったのではないか、ということも推測される。そうなれば、できるだけ長く借り換えをして、差額で豪勢な消費をしたほうがハッピーである。何かの報道記事で読んだ記憶があるのだが、アメリカの住宅ローンは、住宅が担保物件として差し押さえられた場合、その評価額が借り入れ金を下回っていても、その残金が個人の借金として残ることはないシステムだそうだ。ここは、日本とは根本的に違う。家を手放せば、リセットになるみたいなのだ。だとすれば、「踏み倒しの合理性」はより高まるだろう。
 このような「踏み倒しの合理性」は、経済学では邪道ではなく、すでに正道である。これを取り込んだ経済理論がちゃんとあるからだ。それが、ノーベル賞受賞者スティグリッツと、ワイスの有名な「信用割り当て」についての論文である。
この論文は、要するに、「銀行の貸し付けは、金利をかなめにした需要と供給の一致によっては決まらないよ」ということを論証したもので、めちゃくちゃ画期的な仕事だった。それまでの新古典派理論の資金の貸し借りのモデルは、資金の需要と供給が、金利を通じて調整されて、それが一致する水準で取引がなされる、としてきた。でも、現実の銀行の貸し出しなんかはぜんぜんそうなっていない。住宅ローンや事業の資金を表示の金利で申し込んでも断られることが多い。つまり、同じ金利であっても、借りられる人と借りられない人がいる。需要と供給がつりあわせられるなら、「その金利で借りたい人がちょうど全員借りられる」水準に取引が決まるのだが、そうはなっていないのだ。それがなぜか、ということを、スティグリッツとワイスは次のように、「情報の非対称性」による「モラルハザード」を使って説明したのだ。つまり、金利水準を高くしすぎてしまうと、借り手をリスキーな行動に誘導してしまうかもしれない。つまり、「踏み倒しの合理性」を発現させて、返せないことを覚悟でリスキーな一発勝負の事業をやってしまうかもしれない。だから、銀行にとって、金利を上昇させることはある段階からはかえって利子収益を減少させることになる。それで銀行は、「ほどよい金利」を設定して、それで借りたい需要が余っていても、それ以上金利をあげることをしないのである。
 なんてことを確認するために、スティグリッツご本人の『新しい金融論〜信用と情報の経済学』東京大学出版会(グリーンワルドとの共著)を読んでいたら、めっちゃ面白い話が載っていた。ぼくは、スティグリッツ先生のこういうユーモアがめちゃめちゃ好きである。

新しい金融論―信用と情報の経済学

新しい金融論―信用と情報の経済学

ほんとに笑うので、そのまま引用しよう。

もう何年も前、スティグリッツは賃貸することを決めた農場をニュージャージー州に持っていた。その時期は、彼がアンディ・ワイスと一緒に信用割当に関する論文を書いた後まもなくの頃だったが、彼はその意味することを完全には理解できていなかったがために、結局、悲惨な結果を被ることになった。彼は農場賃貸について非公式なオークションを行った。彼はその落札値が予想以上であることを喜ぶ一方、それは、落札者の方はおそらく彼以上にその農場の美しさを評価し、また、地主が正直でかつ率直であることを評価した結果だと考えた。スティグリッツが見抜けなかったことは、借り手の方が彼以上に賃貸市場の経済学を真に理解していたということである。賃貸料を仮に支払うつもりがないなら、"約束する"賃貸料がいくらであるかは問題ではない。彼はニュージャージー州の法律で、人を立ち退かせるのにどれだけの期間がかかるかを知っていた。彼は高い賃貸料の支払いを約束することにより、6ヶ月間の家賃を無料にできたのだった!(色強調は、ぼくによる)

ああ、なんど読んでも笑ってしまう。自分で「スティグリッツは」とか書いてるところがいいよなぁ。「スティグリッツが見抜けなかったことは、借り手の方が彼以上に賃貸市場の経済学を真に理解していたということである」だって、腹がよじれるよ。スティグリッツの経済学の教科書

スティグリッツ入門経済学 <第3版>

スティグリッツ入門経済学 <第3版>

は、かなり冗長で、講義で使うには逡巡するんだけど、読むにはとても面白くて、ぼくは経済学の修行の中でとても大きな影響を受けた。スティグリッツのユーモアで楽しみたいなら、このシリーズで勉強することをお勧めする。
信用割当に関する画期的な論文を書いたスティグリッツ先生だってこのありさまなのだから、小室に騙されたり、世界中の金融機関がアメリカ人にぼったくられたりするのも、決して「貸した側の非」ともいえないだろうな、と思う。「踏み倒しの合理性」は、正常な経済行動の中にいる人には、直感できないたぐいのものなのだろうから。