小野善康『成熟社会の経済学』の紹介その1

小野善康さんの新著『成熟社会の経済学』岩波新書が出た。出てすぐに一度読み、今、二度目を読んでいるところだ。この本は、是非、多くの人に読んでもらいたいので、何回かに分けて紹介したいと思う。

成熟社会の経済学――長期不況をどう克服するか (岩波新書)

成熟社会の経済学――長期不況をどう克服するか (岩波新書)

この本は、ずばり、「小野善康、国民の疑問すべてに答える」、というものだといっていい。小野さんは、菅直人氏が総理だったときに、経済政策のブレインとして起用され、話題となった。そのとき、小野さんの提案する政策に対して、マスコミや国民から多くの疑問が巻き起こった。かくいうぼくも朝日新聞に論説を寄稿し、小野さんの理論に賛同しながらもいくつかの疑問を投げかけた一人だった。中には、罵詈雑言や際物呼ばわりする誹謗中傷のようなものまで見受けられた。小野さん自身がどう思ってるかはわからないが、ぼくは、自分が最も説得される理論である小野さんの不況理論が、賛否はともかく、多くの人の知るところとなったのは喜ばしいことだと思っている。今回の本は、小野さんが、その議論の渦中となった経験を踏まえて、そのときに発せられた全ての疑問に答えた本だと言っていい。この本を読んでまず感じたのは、「一度政策立案の中心に入る、というのはすごいことなんだな」ということだった。マクロの理論家という立場からは、理論派であればあるほどあまり抵触しないような、そういう「実務的な」議論にまで踏み込んでいる。それこそ、公務員削減とか、年金とか、介護とか、産業政策とか、農業保護とか、言ってみれば「生臭い」話にまで幅広い提案をしている。そういう意味では、小野さんのこれまでの著作と比べて異色だと言っていい。
 この本で最も重要な主張は、「増税による景気回復」論だと言い切れるだろう。この主張こそ、これまでの経済学の常識を覆すものだからだ。「不景気だから増税」というのは、経済学でもマスコミレベルでも聞いたことがない。小野さんはこれを以下のように書いている。

景気が悪くなれば増税して資金を集め、雇用を生む分野に財政支出を行い、景気が回復して人手が不足してきたら、減税して政府事業や支援を削ればいいのです。それで職を失う公務員や公共事業関連者が出ても、そのときは民間で人手不足だから喜んで雇ってくれます。(92ページ)

多くの読者が、「反対じゃないの?」と思うことだろう。実際、現実の政策としてこれまでの政治が行ってきたことと逆転している。だから、「政治的にナンセンスだ」という批判をしているかたもおり、その批判はその通りだろうと思う。ただ、「政治的に実現できるかどうか」と「理論的に正しいかどうか」は別の話だし、そんなことを言っていたら、奴隷制だって絶対君主制だっていつまでも覆らないことになってしまう。理論的な正しさやその正義性に対する国民の認識・理解が広まれば、いつか社会実験として実現されることになるだろう。菅直人氏を通して、議論の俎上にのったのは、その微かな萌しといえなくもない。
ぼくが小野さん本人に、この「不況時増税論」への驚きを告白したとき、小野さんから、「不況下での増税が景気を悪化させる、というマクロの理論も見たことがない」と切り返された。ここで「マクロの」というのは、「一般均衡での」という意味だろう。確かに、ミクロ経済学では、課税によって(市場に歪みが生じて)厚生が下がるモデルはたくさんある。というか、常識と言っていい。しかし、これは特定の財市場を分析する「部分均衡」であって、社会全体を扱う「一般均衡」ではない。ぼくも、経済学の教育を受ける中で、知らず知らずのうちに部分均衡的帰結を普遍化してしまっていたのかもしれない、と思った。それは、納税したお金が「どっかに消えてしまう」という錯覚に依拠する。実際は、徴収された税金は公共事業を通じて必ず国民のもとに戻ってくる。それをきちんと思い描くには、「一般均衡的に」ものを考える癖をつける必要があるのだ。
 さて、この「増税による景気回復」という一見パラドキシカルな結論を理解するためには、小野さんのいう「成熟社会」というのをきちんと理解しなければならない。小野さんは、経済社会を、二種類の分類する。発展途上社会成熟社会である。ただし、その分類については、経済学的な定義をぜんぜん書いていない。それが本書の第二の特徴である。小野さんは、覚悟の上で、本書には理論的なバックボーンを全く導入しなかったのである。これは、勇気のある決断だ。理論的なバックボーンが与えられていないことから起きる誤解や浅い理解をガマンしてでも、誰にでもわかる(読める)本を書こう、という心意気だと推察されるからだ。
なので、これから書くことは、小野さんにとって余計なお世話になるだろう。しかし、あえてここでは、本書の理論的根拠についてのぼくの理解を書いておこうと思う。このブログの読者と、小野さんが本書で想定する読者とはだいぶずれているだろうから、ぼくがここで理論的なサポートしても、そんなに邪魔ではないと思うからだ。
 ぼくの理解では、小野さんのいう「発展途上社会」とは、生産技術が完成の域に達しておらず、生産設備も不足気味かちょうど良い程度にあり、国民の消費意欲(飢餓感)が十分にあるような、「完全雇用が簡単に実現される」社会である。他方、「成熟社会」とは、生産技術が完成し、生産設備が過剰で、国民の消費意欲が低く、「失業が恒常化する」社会である。教科書的な経済学(新古典派経済学と言い換えてもいい)が扱っているのが前者であり、後者は、ケインズ経済学、そしてその発展系としての小野さんの経済学が扱っているものだ。マスコミレベルでしか経済を知らない人はいうまでもなく、経済学を学んだことのある多くの人も、経済というと前者をイメージしてしまう。後者の社会をイメージするには、それなりの修練が必要なんだと思う。
 小野さんは、社会を「発展途上社会」と「成熟社会」に分離した上で、後者の社会に起きる不況を「短期不況」と「長期不況」に分けている。ここが小野さんの真骨頂である。「長期不況」という考え方は、ケインズにさえなかった。理論的にいうと、ケインズの手法では長期不況を描写することができないからだ。
「短期不況」とは、経済活動にはでこぼこがあって、その「ぼこ」の状態にあること。長期的には需給が調整され完全雇用が達成されるけれど、その調整が済むまでの過渡期には一時的に失業が出て不景気になる、ということを表現するものである。言い換えるなら、「少し先には完全雇用が見えるが現段階は不景気」、ということだ。ケインズのモデルも、クルーグマンのモデルも、ニューケインジアンのモデルもこの枠内のものと言っていい。小野さんはこれと区別して、「長期不況」という概念を打ち出す。それは、失業が恒常化し、不完全雇用からの脱出の時期が全く見えないような状態のことである。小野さんは、不況がバブル崩壊後20年も続いている日本は、この「長期不況」にはまり込んでいる、という。専門的に説明すると、それは「定常状態」と呼ばれる動学的な経路にはまった状態である。要するに、「物価下降率が一定で動かず、就業者数が不完全雇用の一定水準に張り付いて動かなくなってしまった」状態ことをいう。このような「不況定常状態」は、ぼくの知っている限りでは、小野さんのモデルしかない。「不況定常状態」を論証するのには、経済学の常識に挑戦しないとならないからである。経済学の常識とは、「価格変化による需給の調整」だ。市場経済では、与えられた価格環境の中、自分の行動を変化させればもっとよい効用を得られるなら、それは自ずと実行され、誰もいつまでも不利な状況の中にはとどまっていない、と論証される。ある人に関する状態を改善することが可能なら、賃金交渉や消費量の変更や貯蓄量の変更や資産ポートフォリオの変更などで、その改善は実現される、と考える。それは、物価の変化、株価の変化、利子率の変化、失業率の変化などを促す。したがって、物価変化率が(マイナスの)一定値に張り付き、失業者数が(自然率よりも高い)一定値に固定されるようなモデルを作ることはとても困難なのである。これが可能になるのは、非才なぼくが思うには、小野さんの仮定した「貨幣の限界効用の正の下限」の導入しかない。
 経済学では、どんな財もたくさん消費すれば1単位の追加的な消費から得られる効用の増分はどんどん小さくなり、いくらでもゼロに近づく、と仮定する。これに対し、小野さんは、貨幣を(単位期間)保有することの効用については、「どんどん小さくなり」は成り立っても、「いくらでもゼロに近づく」ということは成り立たない、と仮定したのである。つまり、1万円を余分に保有することの与える効用の増加分は、たとえば、10単位の気持ちよさからは減らなくなる、というようなことである(限界効用が減少しながら10に漸近する)。
 このような経済学上では異端な仮定を導入すれば、不況定常状態=「長期不況」は実現できる。大胆にまとめるなら、豊かな社会で豊富な消費をしているなら、1万円分の消費の追加する効用は非常に小さく、たとえば2単位になっているが、貨幣で保有すれば少なくとも10単位の追加的効用を得られるので、物価が下がって同じ金で消費できる量が増えても消費に全くまわらないからである。(ちなみに、1万円分の消費の追加する効用が12単位の状態の場合は、1万円分の貨幣保有の与える追加的効用が下がってきて12単位にまで至ると、貨幣保有をやめて消費に回すようになる。これが短期不況からの脱出である)。
 ここに、金融緩和派の人たちと袂を分かつキモがあるのだ。小野さんも、金融緩和派も、同じように「人々の貨幣保有動機」が不況の原因と考える。しかし、金融緩和派の人たちが「お金が足りないから、人々がお金をためこんで不況になる。だから、お金を刷ってばらまけば不況が解決する」と主張することに、小野さんが与しないのは、「不況なのは、人々の貨幣保有の限界効用が正の下限に達しているからであって、お金が足りないからではない」と考えているからなのだ。金融緩和派の人は、貨幣が足りないために、貨幣価値があがるデフレが起きており、貨幣を増やせばデフレが止まる、と考えている。このデフレは経済が需給の均衡に向かう価格調整課程であり、だから小野さんの表現での「短期不況」を想定しているのと同じである。「放っておいてもいずれ完全雇用になるけど、金融政策によってそれを早めよう」、ということである。他方、小野さんのいう「貨幣の限界効用の正の下限にはまりこんだ」不況は、デフレが自己実現的となる定常均衡である。人々はお金が足りないからモノを買わないのではなく、貨幣保有に比べてモノの消費が超えられないハードル的に魅力がないから買わないのである。ここに「単なるでこぼこの不況」=「短期不況」と、「不況定常状態」=「長期不況」の決定的な、そして、相容れない差異があるのだ。
このように、素人目には同じ「お金への執着」と見える、金融緩和派の考える不況の原因と小野さんの考える不況の原因は、帰結的には非常に大きな違いをもたらすからおもしろいのだ。理論というのは、小さな仮定の違いが劇的に大きな帰結の違いを生み出すほど面白いのだ、と(理論を専門とする)ぼくは思う。「貨幣の限界効用の正の下限」→「不況定常均衡」(長期不況)という仕組みだからこそ、素人にも普通の専門家にもパラドキシカルに見える帰結を生みだすことが可能なのである。たとえば、お金を動かすだけのばらまき政策(減税、無意味な公共事業)は効かない、とか、国債発行による乗数効果は効かない、とか、貨幣増発による金融緩和は効かない、とか、インフレ目標は効かない、などなど。また、「増税を財源とする公共事業は、その事業の有益部分の分が効き、さらに雇用増加がデフレ緩和を促し消費を刺激する経路でも効く」、というのも、この仕組みの最たる帰結である。
 ケインズクルーグマン的な不況理論(短期不況理論)と小野さんの「貨幣の限界効用の正の下限」→「不況定常均衡」という長期不況理論についてのこれ以上の詳しい説明については、拙著『景気を読みとく数学入門』角川ソファア文庫を参照していただければ幸いだ。
 もうだいぶ長くなってしまったので、今回はこのくらいにして、「成熟社会型不況」に対する小野さんの財政政策や金融政策や為替政策などについての考え方については、次回以降に解説しようと思う。ここでは、もう一つだけ引用しておく。それは、「貨幣の限界効用の正の下限」について、小野さんがショーペンハウアーのエッセイ(『孤独と人生』所収)を引用して説明している部分だ。

食物はただ飢えた者にとってだけ、ぶどう酒は健康者にとってだけ、医薬品は病人にとってだけ、毛皮は冬にとってだけ、女は若者にとってだけ、それぞれありがたいものとなる。したがってこうしたものはいずれも「きまった目的の財貨」であり、ただ相対的にありがたいだけのはなしである。だが、金だけは絶対的な宝である。なぜなら金は具体的に一つの要求を満たすのではなく、抽象的に要求一般を満たすからである。(10ページ)

(「女」を財貨にするのは時代を感じさせるが、それはさておき)、このエッセイには痺れる。なぜなら、このような意味で貨幣効用をモデル化するのが、まさに現在のぼくの研究の目標だからだ。そのアイデアの一端は、「曖昧な消費欲」という形で、拙著『使える!経済学の考え方』ちくま新書に書いてある。今は、「任意性選好」とか「欠如回避」とか呼び変えたほうがいいかな、とも考えている。現在、このアイデアを、きちんとした数理モデルとして構築する途上にあるのだ。この目的のために、シュマイドラーとギルボアの意思決定理論(ナイト流不確実性理論)を勉強してきた。まさにそのアイデアの核の部分が、このショーペンハウアーの言葉にみごとに結晶していて、すごく嬉しくなってしまった。なんとか論文にすべく、がんばらなくては。
(その2に続く・・・予定)。

景気を読みとく数学入門 (角川ソフィア文庫)

景気を読みとく数学入門 (角川ソフィア文庫)