『フランダースの犬』と社会的共通資本の理論

 今回は、ウィーダ『フランダースの犬について語ろうと思う。それも、この物語が宇沢弘文先生の社会的共通資本の理論の根拠づけになるんじゃないか、というちょっと突飛な視点だ。

 ちなみにこのことは、前から考えていたんだけど、先日の資本主義研究会での講演

宇沢先生の思想について講演をします。 - hiroyukikojima’s blog

のために、前から温めていた考えをまとめて、満を持して発表したものだ。

 前もって言っておくと、ぼくは日本のアニメ「フランダースの犬」は(最終回以外は)全く観ていないので、アニメ版とは話が食い違っているかもしれない。

 ウィーダの原作を最初に読んだのはもう、20年以上昔のことになる。ベルギーに観光旅行に行ったときだった。『フランダースの犬』はベルギーのアントワープ地方を舞台とする有名な物語だから読んだほうがいいな、と思って、何の気なしにホテルで読んだのだ。

 そしたら、あまりの悲しい物語に号泣してしまった。しかし、それは主人公ネロに対する村人の非道な仕打ちのことではなかったんだ。以下、そのことを書く。今回読んだのは、新潮文庫

フランダースの犬 (新潮文庫)

フランダースの犬 (新潮文庫)

 

  思うに、作者のウィーダ女史がこの物語に込めた想いは、ルーベンスの絵に関することではないだろうか。

 ネロ少年は貧しいあばらやで祖父と二人で暮らしている。そこにひどい労役で死にそうになっておきざりにされた犬のパトラシエを祖父が助け、連れてきたことで、一緒に暮らすこととなった。物語は、少年ネロと犬のパトラシエの友情を描いていく。

 ぼくがこの物語の本質だと思うのは、ネロ少年が絵を描くことに情熱をもっていて、教会が所蔵しているルーベンスの絵を鑑賞することを熱望している、という点だ。しかし、教会はルーベンスの絵の鑑賞に課金をしており、貧乏なネロは見ることが叶わないのである。このことは次のように描写されている。まず、パトラシエの視点

パトラシエを不安がらせたのは、出てくるときのネロのようすがいつも異様で、ひどく顔を紅潮させているかと思えばひどく青ざめていることもあり、教会堂へ立ち寄った日には家に帰っても遊ぼうともせず夢想にふけりながら、黙りこくってすわったまま、運河のかなたの夕空を悲しげな面持でながめている、そのことであった。

「いったい何だろう?」

パトラシエは不思議におもった。とにかく小さい子供がこうして沈み込んでいるのは、あたりまえのことではない、と考え、物言えぬ身ながらネロを日のあたる原や賑やかな市場で、自分のそばにひきつけておこうと、せいいっぱい身ぶりを示して努力した。しかしあいかわらず教会へとネロは行くのであった。

 このように、ネロは教会のルーベンスの絵が見たいがために、何度も教会に足を運んでは失意のうちに帰ってきた。ルーベンスの二枚の絵にはいつもおおいがかけられているからだ。ネロの気持ちは次のパトラシエへのつぶやきに端的に示されている。

「あれが見られないなんて、たまらないなあ、パトラシエ、貧乏でお金が払えないばっかりに! この絵を描いたとき、あの人は貧乏人に見せまいなどとは夢にも考えなかったんだよ。どんな日でも、いや、毎日でも見せてくれたろうに、それだのに、あんなおおいをしておくなんてー暗いところにせっかくの美しいものを!ーだから金持の人が来てお金を払うまでは、日の目にもあわないし、人の目にもふれないんだ。あれが見られさえしたら、ぼくは死んでもいい」

この文章の中に作者ウィーダの強い怒りが結晶しているように思う。教会が拝金主義に陥って、市民みんなの財産であるはずのルーベンスの絵画を金儲けの道具にしている。よりによって教会がそういうことをしている。そういうとめどない怒りなのだと思う。

 市場原理主義の権化で宇沢先生の終生の敵であったミルトン・フリードマンならこういうかもしれない。すなわち、価値あるものは市場で価格を付けて取引されるのが最も効率的である。ネロもそんなに絵が見たいなら、働いて相応の金銭を稼げばいいではないか、と。

うん、そういう考え方があるのはわかるし、そういう考えを信奉する人が少なからずいることは知ってる。それに対して、作者ウィーダは、次のようなシーンを用意して答えたように思う。

 ネロは、村一番に裕福な家の娘アロアと親しくなる。アロアはネロやパトラシエの貧困や不幸なおいたちのことは気にせず、しじゅう一緒に遊ぶ気立てのいい娘だった。ある日にネロはアロアの肖像画を描く。アロアの父親はネロが娘に近づくのが気に入らなかったが、その肖像画には見惚れてしまい、1フランで買い取ることを申し出た。しかしネロは、お金の受取を拒否して、絵を無償であげてしまう。その気持ちはネロの次の言葉に表現されている。

「あの1フランであれが見られたのだがな。だけど、ぼくにはどうしてもアロアの絵は売れなかったんだよーあれのためでさえね」

つまり、ネロは、たとえルーベンスの絵を見たいがためと言っても、自分が心を込めて描いた愛するアロアの大事な絵を、金銭に代えることが我慢ならなかったんだと思う。それは「汚れた行為」だと感じるんではないだろうか。

 こういう感情について、ばかげていると思う人は多いだろう。また「危険な正義感」「危険な倫理観」だという人もいるだろう。しかし、ぼくが共感するのはそういう反論とははずれたところにある作者の思いなのだ。みんなの共有の財産である、教会や、絵画を、市場原理に晒すことに対する作者の怒り。絵画を無償で公開するなど、なんでもないことで、そうすればネロのような少年も、たとえ金銭的な苦境にあっても幸せに暮らすことができるのに、そうしない教会に対する憤慨がこの物語を書かせたに違いないと思うのだ。

 ベルギーで読んだときはただの悲しい物語だと思ったにすぎないのだけど、今回、講演のために読み返してみて、ぼくはこの物語の中に宇沢先生の「社会的共通資本の理論」が結晶していると確信するようになった。

 もちろん、生産設備を十分に確保し、需要を刺激し、雇用を安定させることで、人々は物質的な豊かさを享受できる。それは市民を豊かにする一つの在り方だ。でも他方で、生活基盤インフラや教育や医療や芸術など、人々の厚生の中心になる公共的な財を豊富に整備し、社会で共有の財産として管理運営していくことが、市民が安心して暮らせる、そして豊かであることを無理に自覚することなく享受していく大事な制度に違いないと思えるのだ。それが、宇沢先生が言いたかったことではないかと。

 この『フランダースの犬』は、悲劇的なエンディングを持っている。ネロとパトラシエは、クリスマスイヴの夜に教会で餓死することになる。しかし、死の直前にネロは、念願のルーベンスの絵を見ることになる。作者は、だれがおおいを取ってくれたのかについては触れていない。そこに、作者の強い想いが込められていると思う。それは次の表現に現れている。

この世に生きながらえるよりもふたりにとって死のほうが情け深かった。愛には報いず、信じる心にはその信念の実現をみせようとしない世界から、死は忠実な愛をいだいたままの犬と、信じる清い心のままの少年と、この二つの生命を引き取ったのである。

作者ウィーダの怒りと失望の深さはよくわかる。でも、死に幸せを委ねるなんて悲しいことをしなくても、この世界はちょっとした工夫で、ちょっとした発想の転換で、ネロとパトラシエを幸せにすることはできる。金銭を仲立ちとしない仕組みを市場世界の一部に導入すればいいだけだ。それこそが宇沢先生の思想の根幹だと思うのだ。

 ちなみに、つい先日、宇沢先生の評伝『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』講談社を著者の佐々木実さんが送ってくださった。ぼくも取材を受けて、ちょっとだけ貢献したからだ。まだ読んでいないので、読後に書評を挙げるつもりだ。

 うれしいことに、佐々木さんがこの本への思いを綴っているサイトに、「宇沢先生をしのぶ会」で上映されたアメリカの経済学者の追悼のインタビューがアップロードされている。是非、ご覧になっていただきたい。

世界随一の経済学者が、すべてを投げ捨てても守りたかったもの(佐々木 実) | 現代新書 | 講談社(1/3)

アカロフスティグリッツとソローとアローの4人。全員がノーベル経済学賞受賞者。すごすぎるメンバーだ。宇沢先生がどんなに彼らに愛されていたか、どんなに尊敬されていたかがよくわかる。

 

資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界

資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界