WEBRONZAのレギュラー筆者になりました

 今月から、朝日新聞社WEBRONZAのレギュラー筆者に就任した。二ヶ月おきぐらいに投稿するとのこと。
すでに、二回論考を投稿したので、リンクをはっておく。購読している人は是非、読んでほしい。
3月の投稿
高校数学での統計学必修化は間違っている - 小島寛之|WEBRONZA - 朝日新聞社の言論サイト
4月の投稿
アベノミクスの目玉、異次元緩和政策の問題点 - 小島寛之|WEBRONZA - 朝日新聞社の言論サイト
 
これだけでは何なので、少し近況も書いておこう。
現在は、次に刊行する本を執筆している。タイトルは未定だけど、ビットコインブロックチェーン(分散型台帳)に関する本だ。
ビットコインというのはネット上のお金のことで、最近では連日、世間を賑わしている。ビットコインという技術は、Satoshi Nakamotoという匿名の人物がアップロードした論文によって発明されたものだ。コピペなどによる偽造や、二重支払いなどの不正な取引が、ほとんど不可能なように工夫されている。それを可能にしたのが、ブロックチェーンという技術なのである。ブロックチェーンは、数理暗号という数学的な技術と、演算量証明という経済学的な技術(動機付け)によって成立している。やられてみると、実に見事な工夫である。
ブロックチェーンのポイントは、中央集権的な権威とか、権力とかが不要なことだ。取引や信用の付与を分散的に可能にするのである。その巧みな仕組みから、ビットコインなどの暗号通貨以外にも応用することができる。匿名の掲示板とか、音楽配信とか、自家発電で作った電気の販売とか、選挙の投票などだ。きっと、あと十年くらいのうちに、とんでもない変化を社会にもたらすことになるだろう。
 ビットコインのことを執筆するにあたって、とても役に立った本を紹介しよう。ケネス・S・ロゴフ『現金の呪い』日経BPだ。

著者のロゴフは、マクロ経済学の重鎮で、業績の高い学者である。本書では、「紙幣を廃止すべし」という実に過激な主張をしている。なぜかというと、紙幣、特に高額紙幣は地下経済で悪用されているだけだから、ということなのだ。
本書は、貨幣の歴史の本としても読める。また、紙幣がどんな経済の中で流通しているかもデータ的にわかる。シニョレッジ(通貨発行益)がいったい何かということも理解できる。さらには、マイナス金利政策やインフレ目標の意味を知るのにもよい。
その上で、デジタル通貨、すなわち、ビットコインなどの暗号通貨についても先見の明を発揮している。暗号通貨こそ、紙幣の廃止に最も有力なツールだからだ。でも、残念ながら、ロゴフはそう考えていない。その部分を少し引用しよう。

分散型台帳技術が保証する先端的なセキュリティや暗号通貨に埋め込まれて天才的なアルゴリズムは、掛け値なしにすばらしい。それは十分に認めるが、ビットコインを始めとする暗号通貨が近い将来ドルに取って代わると考えるのは、単純すぎる。通貨革命を起こそうとした人々が過去千年間で学んだのは、このゲームで恒久的に政府を打ち負かすのはまず無理だ、ということである。というのもこれは、政府が勝つまでルールを変えられるようなゲームだからだ。こと通貨に関する限り、民間部門が政府よりうまくやる方法を考え出した場合、政府は最終的には完全に状況を理解し、最後は自分たちが勝つようにルールを決める。もし暗号通貨技術はもう止められないとわかったら、勝者(たとえば、ビットコイン3.0)は結局、政府が管理する「ベンコイン」(ベンジャミン・フランクリンにちなんだ私の命名である)の露払いで終わるだろう。(345ページ)

ロゴフはこのように、政府権力による圧力によって、暗号通貨が支配下に置かれる、と考えている。しかし、それでは、そもそもブロックチェーンの持つ分散管理システムが意味をなさない。この点については、ロゴフは予想の誤謬をおかしている、とぼくは思う。
いずれにしても本書は、とても読みやすく、刺激的で、得るものが多い本だ。読んで損はないと思う。

現代思想の316冊

 今週に刊行される現代思想』の特集『現代思想の316冊 ブックガイド2018』青土社に寄稿したので、宣伝のエントリーをしたい。

この特集は、若い読者をターゲットとしたブックガイド。哲学、人類学、社会学から、精神医学まで、まあ、言ってみれば、思想寄りのブックガイドとなっている。理学系分野は、統計学、数学、生物学の3分野だ。
そして、なんと! ぼくは数学分野のブックガイドをを書いている。
経済学じゃないんだな。経済学者なのに、経済学じゃないんだな。笑。経済学は別の人(塚本恭章さん)が執筆している。数学なんだな、数学者じゃないのに。笑。ちょっと残念でもあり、ちょっと誇らしくもある。
 今回の執筆はかなり難しかった。編集者のご要望は、「今日的な状況と、入門〜応用向けの必読書」ということで、教科書ではなく、お話本でもない本を紹介しなくてはならない。いったいどうしたものか、と途方に暮れた。
 それで思いついたのが、おおまかには4つの分類をして紹介をすればいいんじゃないか、ということ。次の4分類だ。
(1) どんな数学を勉強するのにも、どんな数理科学を勉強するにも、知っておくべき基礎微積分、線形代数
(2) 現代の数学の問題意識とシンクロするために知っておくべき分野ミレニアム問題
(3) 最先端の数学をつまみ食いするための道具→群とガロア理論トポロジー、数論
(4) 「数学とは何か」を哲学的に鳥瞰するためのMRI装置→数理論理学、数学基礎論
このような分類から、以下のような本を紹介・推薦した。(自著も2冊入ってますが、ご愛嬌ということで。だって、他に良書がないんだもん)。

(1) 微積分、線形代数
微積分→堀川穎二『新しい解析入門コース』(日本評論社)
線形代数小島寛之『ゼロから学ぶ線形代数』(講談社)
(2) ミレニアム問題
リーマン予想黒川信重リーマン予想の探求』(技術評論社)
バーチ・スィンナートン=ダイヤー予想(BSD予想)→Chahal『数論講義 数と楕円曲線』(織田進・訳、共立出版)
P≠NP問題→野崎昭弘『「P≠NP」問題』(講談社ブルーバックス)
(3) 群とガロア理論トポロジー、数論
群とガロア理論
(i)P・デュピュイ『ガロアガロア理論』(東京図書)のおまけとしてついている、第2部の辻雄『ガロア理論とその後の現代数学
(ii)久賀道郎『ガロアの夢〜群論微分方程式』(日本評論社
トポロジー瀬山士郎トポロジー・柔らかい幾何学日本評論社
数論→加藤和也黒川信重・斉藤毅『数論 1・2』(岩波書店)
(4) 数理論理学、数学基礎論
数理論理学・数学基礎論
(i)前原昭二『記号論理学入門』(日本評論社)
(ii)小島寛之『証明と論理に強くなる』(技術評論社)

これらの分野がなんであるか、なぜこれらの分野を選らんだのか、どうしてこれらの本を推薦するのか、については、現代思想』の特集『現代思想の316冊 ブックガイド2018』青土社のぼくの文章で読んでほしい。

AimerのライブをNHKホールで観てきました

 女性ボーカリストAimer(エメと発音する)のライブを、NHKホールで観てきました。
前回のライブの感想はAimerのライブは、誠実さと斬新さの同居する奇蹟のライブだった - hiroyukikojimaの日記にエントリーし、それがいかに奇蹟の演奏だったかを書いたが、今回も、まんま奇蹟のライブだった。
前回は、武道館に360度回転するステージを作り、あらゆる方向に向かって歌うことができるようにしたが、今回はNHKホールなのでもちろん、観客は正面だけから観ることができる。その分、やはり、武道館公演よりも今回のほうが親近感のわくステージングだった。
曲目は、武道館公演とほとんどかぶらないように選曲されており、それでも遜色がないくらいすばらしいセトリだったので、彼女の楽曲がいかに名曲揃いか思い知らされる。季節がら、冬や雪や雨などにまつわる曲が中心とされていて、季節感を堪能できる曲たちだった。中でも、雨にまつわる新曲「Ref:rain」はすばらしかった。これは、最新のCDのメイン曲だ。

このシングルには4曲収録されており、ぼく自身は、前掲のメイン曲とセルフカバー「After Rain」が気に入っている。このセルフカバーは、アレンジが違うだけでこうも違う格好良さが出るものか、と驚かされた。
Aimerのライブでは、毎回、そのトーンコントロールのすごさに圧倒される。たぶん、同じ曲を同じように歌っても、他の人ではこういうふうにはならないだろう。それは、ボーカルというのが、単に旋律をなぞるだけのものではなく、声質、強弱、発音、ビブラートなど総合的な表現テクニックの所産だということを思い知らせるものだ。
彼女のライブでは、特にトーンコントロールが困難な曲の前に、彼女はいったんステージから去って少し休憩をとる演出になっている。だから、彼女がステージから消えた次の曲は(衣装を着替えることも含めて)非常に期待大となる。今回は、「冬のダイヤモンド」「us」の前にステージから消えた。そして、どちらの曲も、あまりにすばらしい演奏となった。特に前者は、アルバムでは静かなナンバーとなっていたが、ライブで聴くと情感たっぷりの切ない切ない曲であり、うるうるなってしまった。後者は、彼女の最高のナンバーの一つであり、武道館のときと同じく、すごく工夫されたアーティスティックなライティングで感涙むせんだ。
 武道館での奇蹟のライブは、ブルーレイとなって発売されている。
Aimer Live in 武道館 “blanc et noir

Aimer Live in 武道館 “blanc et noir"(初回生産限定盤)(Blu-ray Disc)

この映像作品は、武道館のライブを一曲もカットせず、MCも、アンコールの拍手の時間も完全収録しているコンプリート版であるから、Aimerに関心のある人は絶対観るべきだと思う。これは、もう、家宝級のブルーレイだ。アンコールの最後の曲「六等星の夜」のとき、彼女にしては珍しく、感極まって少し歌を崩してしまっている。オーバーダビングで修正することもできるのに、そのまま収録している。これは、このライブを完全な記録として残そうという、彼女とスタッフの意気込みを意味するだろう。
 実は武道館ライブでは、ファンの間で、Twitterにおいて多少の騒動があった。この「六等星の夜」で一部のファンがペンライトを灯したり、スマホを点灯させたりした行為に対して、従来からのファンが批判をしたことだった。ぼくは知らなかったが、彼女のライブではファンマナーとしてそういうことはしないルールらしい。
実際、「六等星の夜」という曲は、肉眼で見える最も暗い星に自分を喩えて、それを見つけ出してくれるファン(彼氏?)に感謝をする、という体裁の歌詞の曲だ。だから、武道館ライブでは真っ暗なステージの中で歌い始め、最後には上空から淡い光の星たちが降り注ぐ演出となっていた。そういう演出がなされている中でのペンライトやスマホライトは、確かに、演出を著しく損なうものとなったと思う。実際、今回のNHKホールの入り口には、ペンライト禁止の注意書きがなされていたのが、その証拠なのだろう。でも、「六等星の夜」のときに、彼女を照らし出してあげたい、というファンたちがいることも理解できないわけではない。どちらも、ファン心理としてありうるものだと思った。

「ヤマトナデシコ」とモジュラー形式と

今回は、最近観たテレビドラマ「ヤマトナデシコ」のことを書こうと思う。その前に、宣伝を一つ。
現代思想青土社の3月増刊号「現代を生きるための映像ガイド」が刊行されたんだけど、それにぼくも映画批評を寄稿してる。

これには、編集者さんから「現在を知るために必見と思われる映像作品を紹介して論じて欲しい」と依頼されて寄稿した。悩みに悩んだ末に、映画は、『ギルバート・グレイプ』を選んだ。キューブリックの映画とか、スピルバーグの映画とか、クローネンバーグのホラー映画とか、書きたいものはいろいろあったけど、きっと他の専門的な識者が取り上げるだろうと思って避けたんだ。でも、刷り上がりを見てみると、みんなが同じように考えたのか、取り上げられた映画がみんなマニアックになっていて、笑ってしまった。もっと、スタンダードな映画の批評集にすべきじゃなかったんだろうか。
ぼくの批評のタイトルは、ギルバート・グレイプ』が変えた「障害」への考え方、だ。この映画では、少年の頃のレオナルド・ディカプリオが知的障害のある少年の役を演じていて、それが白眉なんだけど、それと絡めて映画「くちびるに歌を」も批評した。この映画は、中田永一氏(実は、推理作家の乙一氏)のラノベ作品の映像化なんだけど、明らかに『ギルバート・グレイプ』へのトリビュートになっているので。(この二つの映画については、前に映画『くちびるに歌を』は日本版「ギルバートグレイプ」 - hiroyukikojimaの日記にエントリーしてる)。さらには、これらの映画を題材にして、経済学者としての立場から、「障害」に関する松井彰彦・東大教授のゲーム論的アプローチを紹介した(この理論については、関係性の社会思想へ - hiroyukikojimaの日記とか障害を問い直す - hiroyukikojimaの日記とかにエントリーしている)。
 さて、『現代思想』の販促はこれくらいにして、テレビドラマ「ヤマトナデシコについて書くとしよう。このドラマは、親しい二人の友人から、別個に、執拗に勧められた(強制された、と言ったほうが正しい)ので、仕方なく、笑、観てみたのだ。
でも、とても面白いドラマだったので、観てみてよかったと思う。これは、バブル期を彷彿させるCA(ドラマでは、スッチーと呼ばれているが)の婚活ドラマだ。当時に旬で結婚前の二人の女優、松嶋菜々子さんと矢田亜希子さんが主演している。男優は堤真一さんが、数学に挫折した魚屋を演じている。堤さんは、このあと、映画『容疑者xの献身』でも挫折数学者を演じているので、はまり役ということができるだろう(『容疑者xの献身』については、数学の道が閉ざされるとき - hiroyukikojimaの日記にエントリーしてる)。
 「ヤマトナデシコ」には、ところどころに数学についてのネタが登場する。それが、ぼくには妙にツボでうるうるなってしまった。これについては、「やまとなでしこ」の数学というサイトで詳しく説明されている。でも、このサイトは完全なネタバレになっているので、これを読む前に是非、ドラマそのものを観ることをお勧めする。
 堤さんが演じる数学者・中原欧介が数学について語る中で、最も好きだったのは、第二話に出てくる次の台詞だ(先ほどの「やまとなでしこ」の数学から引用している)。

…人が素朴に考えたりやってみたりした事は、どれもみな、ようするに、 楕円方程式とモジュラー形式を分類してどちらも同じ数だけあることを示す事だ、 とワイルスは言っています。しかし、問題は楕円方程式もモジュラー形式も無限 に存在するという事で…

2000年に放映のドラマなので、ワイルズによるフェルマー予想解決が取り上げられているのは、とてもタイムリーだと絶賛したい。しかも、楕円曲線とモジュラー形式が対応している、というのは、現在も数論の中心的標的となっているラングランズ予想そのものだから、実に勘のいいネタを選んだと思う。あと、第10話にサイバーグ・ウィッテン理論というのが出てきて(どうもトポロジーの理論らしい)、これにも興味津々になった。
 このドラマを観てから、モジュラー形式と楕円曲線がどんな理屈で対応するのか、猛然と気になってきてしまった。この対応がどんなものかは、黒川信重さんのラマヌジャン探検』で理解していた(ラマヌジャンの正当な評価がわかる本 - hiroyukikojimaの日記で詳しく書いた)んだけど、どうしても証明を知りたくなって、次の本をダウンロードしてもうた。

A First Course in Modular Forms (Graduate Texts in Mathematics)

A First Course in Modular Forms (Graduate Texts in Mathematics)

この本は、ウィキペディアで関係事項を調べたときに参考文献に挙げられていたものだった。ほぼまる一日かけて、「定義」だけをがんがん斜め読みした。(だから、ぜんぜん内容は理解してない)。でも、そうしてみると、この本は真面目に読めばけっこうなんとかなるような本の気がした。楕円曲線とモジュラー形式が対応することの「アイヒラーと志村の関係式」について、ちゃんとした証明が書かれており、やってることはぼんやりとはわかった。ヘッケ作用素と呼ばれる「関数の変換方法」があって、それがフロベニウス写像と呼ばれる写像(素数乗する写像)の和にうまく縮約する、ということが使われるみたいだ。要するに、関数をかき混ぜたり、楕円曲線の点をかき混ぜたりするときに生じる、ある種の群構造を調べると、全く別の世界の存在物に見えるモジュラー形式と楕円曲線を結びつけることができる、みたいな感じなんじゃないかな(違ってたらごめん)。
 さて、「ヤマトナデシコ」に戻ると、登場人物の女性でのぼくの好みの順序は、[人妻の真理子さん(森口瑤子さんが演じてる)>矢田亜希子演じる若葉ちゃん>松嶋菜々子演じる桜子さん]、という具合になる。とりわけ、欧介に恋心を抱きながらも別の夫を選んだ真理子さんの秘めたる心はなんとなくわかる。この三人の中で、欧介を射止めるのが桜子である理由は、最終回で説得されるようになっている。要するに、欧介が数学にのめりこむことにどう向き合えるか、ということで、この女性三人は区別されるんだね。
 最終回近くなって、欧介の数学での師匠にあたる黒河教授というのが出て来る。これはひょっとして、黒川信重さんのことで、数学の監修も黒川さんがしたのではないか、と思って、ご本人に問い合わせたところ、「監修はしてません」との回答だった。それで、ネットで検索をかけてみたら、数学監修について「シナリオの中園さんの友達の予備校講師」と書いている人がいた。それが本当だとすれば、その人は数学を相当ちゃんと勉強していた人だと思う。

中級者にとって最高の数論の教科書

 今回は、数論の教科書を紹介しようと思う。入門段階の人、初級の人にはかなり難しいかもしれないが、ある程度、専門の数学をかじったことのある人には最高の教科書になると思う。それは、雪江明彦『整数論』1, 2, 3日本評論社だ。見てわかるように、三巻組の本で、1巻目は「初等整数論からp進数へ」、2巻目は「代数的整数論の基礎」、3巻目は「解析的整数論への誘い」となっている。

この本は、拙著『世界は素数でできている』角川新書を書くときに、非常に参考にした本である。とりわけ、「素数判定法」に関する部分ですごくお世話になった。
 この教科書の利点は、次の4点にまとめることができる。
(1) 群論、環と加群、体とガロア理論フーリエ級数など、現代の数論を勉強するのに欠かせない道具がきちんと説明されていて、(かなりな程度)self-containedな教科書になっている。
(2) 証明をほとんど省略せず、しかも、導入している証明が、専門家でない学習者にとって、おそらく最もわかりやすいベストなものである。
(3) 現代数学にとって本質的である、「集合と写像の系列」を使った記述を心掛け、その感覚を伝えようとしている。
(4) 普通の数論の本ではあまり触れられていない、20世紀以降の素数判定法について、詳しく書かれている。
以下、それぞれの点について、細かく説明する。
 まず、(1)について。数論は、(黒川信重さんの言葉を借りれば)「応用数学」なので、たくさんの道具が、それこそ何から何まで使われる。普通の数論の教科書では、それらは「他の本で勉強してね」という体裁になっている。でも、この本では、それらの多くを準備している。利用する道具も、同じ著者によって解説してもらうほうがいいに決まっている。そういう意味で、この本はとても親切なのだ。とりわけ環論は、通常の環論の本で勉強すると、それこそとんでもなく広く深いので、たいていの人はうんざりしてしまう。でも、この本では、この本を読むのに必要な分の環論だけなので、読み通すことが可能となっている。
ただ、(1)について一つ残念な点を言えば、複素解析(複素数の関数の微分積分)の説明が省略されていることだ。この分野のハードルも非専門家の我々には十分に高いものなので、著者の説明を導入して欲しかった。
 次に、(2)について。定理の証明というのは、おおまかに言うと、「短くエレガントだが、抽象的で、定理の本質が見えづらいもの」と「多少長くて、泥臭いが、具体的で、定理の本質の部分が見えるもの」とがあると思う。本書では、極力、後者が選ばれている印象がある。とても頭が良い読者には、じれったいかもしれないが、(ぼくを含む)頭の回転がたいして速くない読者にはこの方針はありがたい。
 となると、(3)は(2)と相反するように見えるかもしれない。現代数学は、集合を写像でつないだ「系列」を使って展開される。本書では、かなり初歩の段階から、そのような記述法を試みている。例えば、

命題6.3.3 環Aが環Bの部分環でP⊂Bが素イデアルなら、P⋂AもAの素イデアルである。

のような、愚直に定義を試せば証明できるような命題にまで、「系列」を使った証明を与えている。すなわち、A→B→B/Pという自然な「系列」を使って,準同型定理を使って証明している(B/Pが整域になるのがポイント)。それは、たぶん、読者に、このような「系列」的手法に早く馴染んで欲しいという「親切心」からであろう。ぼくもまだ、あまりこの感覚には慣れていないが、この感覚を身につけることは「数学的に遠出をする」には不可欠なことなのだということはわかっている。大昔に、数学科に進学した頃、すごく簡単な演習問題をこのような「系列」で解いて、先生に褒められた同級生がいて、ぼくはやっかみ半分に「なんだよ、こいつ」と思ったことがあった(笑)。でも、このような感覚は大事なのだ、と今ではわかる。そういう意味で、この本はわざと、初歩からこういう「系列」的手法を導入する書き方をしているのだと思う。
 この本がぼくがとって、最も役に立ったのは、(4)の点である。
拙著『世界は素数でできている』では、素数判定法(与えられた整数が素数かどうかを判定する方法)をいくつか紹介している。その中で、最も現代的な方法としての「数体ふるい法」と「AKSアルゴリズムを投入できたのは、この本のおかげなのだ。
 「数体ふるい法」というのは、代数体の素イデアル分解を使って素因数分解をする方法で、ポラードという数学者が1988年に開発したものだ。この手法の具体的な成果として、1990年に10番目のフェルマー数(2の(2の9乗)乗+1)が素因数分解され、素数でないことが確認されたことが挙げられる。
 他方、「AKSアルゴリズム」とは、2002年のインド工科大学のアグラワル、カヤル、サクセナという3人の数学者が発表したアルゴリズム。基本原理は、「pが素数ならば、p元体の世界において、xを変数とする多項式に対して、(x+a)のp乗=(xのp乗)+a、が成り立つ」という性質を用いるもの。定数aをいろいろ動かした上で、多項式の割り算を使って、等式の可否を判定する。このアルゴリズムが(指数時間的ではなく)多項式時間的であることが証明されており、そういう意味では待望の判定法なのだ。
 どちらの判定法も、簡単なわかりやすい説明は拙著『世界は素数でできている』で読んでほしい。そして、証明も含めて、きちんと理解したい人は、本書、雪江明彦『整数論』1, 2, 3日本評論社を手にしたらいいと思う。(理解するのは相当ヘビーだけど)。

abc予想解決と数学の進化

 先日、望月新一教授によるabc予想解決が、論文として正式に学術誌にアクセプトされたことが、朝日新聞一面で大々的に報道された。数学の結果がこれほど大きな紙面で報じられたのは今回が初めてような気がする。(記憶では、フェルマー予想のときも、ポアンカレ予想のときもこんなでなかったような)。とにかく、今年の数学界最大のイベントであったと思う。ぼく自身も、望月教授がネット上に論文をアップロードして騒ぎになった2012年にエントリーしているので(abc予想が解決された? - hiroyukikojimaの日記)、この予想の解説についてはそちらで読んでほしい。あるいは、黒川信重さんの本の紹介(ABC予想入門 - hiroyukikojimaの日記)のほうでも。
 abc予想がおまけとして(系として)得られる宇宙際タイヒミュラー理論(IUT)は、聞くところによると、新しい数学言語を作り上げた、と言えるぐらいに斬新な方法論らしい。従来の数学の言語だけで書かれていないため、どんなに優れた数学者でも、その知的アドバンスを利用することができず、いちから考えなければならず、それで先端数学者さえも理解することを躊躇したので、審査に5年もかかってしまったのだという。
以前に、加藤文元さんと黒川信重さんとトークイベントをしたとき(黒川信重さん、加藤文元さんとトークイベントをしてきました! - hiroyukikojimaの日記参照のこと)、加藤さんがIUTのことを少しだけ説明してくださった。加藤さんは、IUTの構築過程で望月教授といっしょにセミナーをした方なので、相当に詳しいのである。加藤さんの説明によると、IUTのアイデアを従来の数学の中で素朴に展開しようとすると、ラッセルのパラドクス(集合Xが集合Xを要素に持つ、とすることで矛盾が生じる)のような矛盾が生じてしまうため、それを避けるために新しい数学言語を構築した、というようなことだった。このことは、加藤さんのニコ生の講演で、もっと詳しくもっとわかりやすく説明されているので、そちらで観てほしい。この講演は、素人にもわかるすばらしい講演だ。朝日新聞にしても、週刊新潮の報道にしても、どうして加藤さんに取材しないのか、全くナゾだ。記者の人は、もっとネットにアクセスして、SNSから取材すべき対象をリサーチすべきなんじゃないかと思う。記者がこんなにズレ遅れてしまうと、新聞なんて誰も読まなくなるぞ。
 abc予想解決で、今後の数学の方法論が変わってしまうかもしれない。つまり、1個の未解決問題を証明するために、1個の新奇な数学言語の構築がなされる的な。言い換えると、定理と言語が一対一対応するような。そんな事態になったら、超大変だ。多くの数学学徒は、一生に1個の定理しか理解できなくなっちゃうからだ。まあ、「ユークリッドの第5公理の証明不可能性」を示すために、非ユークリッド幾何(クラインモデル)が作り上げられたり、「5次方程式が、四則と根号で解けない」ことを示すのに、群論が創造されたことなどを、「新しい数学言語の創造」だと見なすなら、それほど危惧することでもないかもしれない。
 IUTみたいな理論に直面するとき大事なのは、「その数学の背後にある思想や哲学はどんなものか」なのだと思う。数学の素人であっても、そういう視点に触れるのは楽しいことだ。加藤さんのニコ生の講演は、まさにそういう観点からなされていて感動する。
ぼくが今年読んだ数学書の中で、数学そのものはよく理解できないけど「その数学の背後にある思想や哲学はどんなものか」だけはびしびし伝わってくるもので、一番だったのが、加藤五郎『コホモロジーのこころ』岩波オンデマンドだった。

コホモロジーのこころ (岩波オンデマンドブックス)

コホモロジーのこころ (岩波オンデマンドブックス)

この本は、カテゴリーとコホモロジーについて解説している。カテゴリーは、代数幾何で構築された概念で、数学の構造を非常に抽象化して扱うものだ。この本で加藤五郎氏は「カテゴリーはコホモロジー代数のため、コホモロジー代数はオイラーガウス、リーマンの考えたことを実らすような数学(すなわち、代数幾何や代数解析)のため」と言っている。この本の斬新さは、「どきどき説明があまりに文学的になる」という点にある。例えば、次のようなものだ。

(1.1.1)におけるYでのコホモロジー(1.1.2)とは、Yの中で他人に影響を与えない部分Ker gで、その中の、他人から影響を受ける部分を捨ててしまえということです。もっといってしまうならYの神髄とでもいうか、Yの本質をYでのコホモロジーというのです。たとえば、Yがたった一人でくらしてた場合を考えてみてください。人は見かけによらないといいますが、Yそのものは見かけでYのほんとうの姿はそのコホモロジーということになりましょうか。

(コホモロジーを理解してなければ)数学的には何を言っているか全くわからないけど、言葉として何を言っているかはよくわかる。「見えているかりそめの姿)」と「本性」とを区別するのはどうするのか、ということを主張しているのだと読み取れる。もちろん、数学の概念をきちんと得たいなら、これは役に立たない。けれど、数学の精密な概念は二の次だが、雰囲気だけわかりたい、「ココロ」をわかりたいなら、むしろこう言ってもらったほうが直で胸に届くのである。序文にはこんなことが書かれている。いわく、

 コホモロジーの始まりは、もう一度いいますと混沌とした存在の中で
 aとbは似ている⇔aとbには共通なものがある
        ⇔どうでもいいところを無視すると
         aとbは本質的には同じだ
と分類して構造が生まれ、もう少し目を大きく開けると・・・・・・,
楽浪の比良山風に海吹けば
  釣りする海女の袂かへる見ゆ  (万葉集, 巻九・一七一五)
という景色が見えてくることです。

もう、ここまで来ると何を言っているかさっぱりわからないが、加藤五郎氏が、コホモロジーの中に「数学的厳密さとは別種のなにか」を見ていることはわかる。こういうことは、数学の才能があって、数学を数学のまま厳密に受け入れられる人には邪魔で蛇足に他ならないだろう。しかし、ぼくと同じような、数学の厳密さには青息吐息になるが、数学の神髄を知りたい・味わいたい人たち、にはこのうえないご馳走になると思う。
全く根拠はないけど、望月教授のIUTも、この本のような「斬新な言語認識」の延長上にあるんじゃないかな、とそんなふうに思っている次第だ。
それでは、皆様、良いお年を。また、来年、このブログでお会いしましょう。

高就業率・不況均衡の可能性?

 ぼくのゼミでは、ゼミライブというのを毎年開催していることは以前にエントリーした(例えば、諦めなければ夢はかなう。望んだ形ではないかもしれないけど。 - hiroyukikojimaの日記など)。今年も、今月に7回目を実施した。現役のゼミ生とともに、卒業5年以内のゼミOBが、全世代にわたって、数人ずつは参加してくれた。本当に、教員冥利につきる。
OB/OGたちと久しぶりに会って、近況を聴いて驚いた。ほとんどすべてのOB/OGが、会社を、辞めたか、転職したか、辞めたがっていた。その理由を聞くと、ほぼすべて、待遇に対する不満である。給料が安い、ボーナスも最低、サービス残業の嵐、ちょっと上くらいの先輩がいろいろ押しつける。しかも、かなり上の先輩の給料を聞くと、ぜんぜん給料が上がらないことが判明。これじゃ、辞めたくなるのは当たり前だ。もちろん、勤めてる会社によるけど、新卒がもう半分くらい辞めてしまったところもけっこうある。
 なぜ、こんなことが起きているんだろうか。
現在の日本は、数字的には低失業率、高求人倍率になっている。普通の経済理論で言えば、こういうときは、賃金上昇を伴うインフレが生じるはずだろう。けれども、賃金も物価も上がらず、人手不足ばかりが話題になっている。名付けるなら、「高就業率・不況均衡」という感じだ。これは、常識的な経済学から言えば、矛盾した表現である。経済学において、好況と言えば、「完全雇用均衡」のことだ。完全雇用に近い就業状態を「不況」と呼ぶのは、定義的に間違っている。でも、そういうことが今の日本ではありうるのかもしれない、とそんな認識になった。
 そこで思い出したのが、前回(小野善康『消費低迷と日本経済』は、賛否にかかわらず読んで欲しい本 - hiroyukikojimaの日記)にエントリーした小野善康『消費低迷と日本経済』朝日新書である。その中に、現在の低失業率のからくりを書いた部分がある、前回のエントリーを読んでもらえば済むことだが、読者の労力を削減するため、もう一度引用しよう。

経済成長もインフレも起こらないなかで、政府が強調するアベノミクスの成果とは、株価の上昇と雇用の拡大、特に女性の就業者数の拡大である。
このうち、株価はバブル特有の乱高下を繰り返すだけで実体がないが、就業者数の拡大や失業率の低下は実体経済の指標であり、本当であれば非常に望ましい。
 しかし、中身を吟味すると、とても成果とは言えない厳しい現実が見えてくる。グラフ3-7は、男女合計および男女別の就業者数の動きを、実質GDPの推移とともに示している。(中略)。
 このグラフから、アベノミクス以前の就業者数の変化は、リーマン・ショックによる男性就業者の大幅減少によるものであり、安倍政権発足直後の13年以降は男性就業者は伸びず、もっぱら女性の就業者増が総就業者の増加を支えていることがわかる。同時に注目すべきは、この間、実質GDPが横ばいという点である。
 これは何を意味するか。
 安倍首相は繰り返し女性の活躍を訴えており、確かに女性の就業が増えている。しかし、GDPが増えないまま、女性の就業者数だけが増えているということは、以前と変わらない総量の仕事を男女で分け合っていることを意味する。そのため一人あたりの生産性は低下しているはずだ。このことは賃金が下がっていることからも、裏付けられる。

小野さんの推論を、わかりやすい喩え話でなぞれば次のようだ(単なるシミュレートであって、実際のデータを言っているわけではないことに注意)。すなわち、一人の定年退職者の仕事を男女二人で分割して就業する。当然、仕事量は半分ずつになり、給料も半分かそれ未満になる(余った分は企業の内部留保)。この場合、生産量は一定だから、GDPは増えない。総所得も横ばいだが、一人当たり平均所得は半分になる。しかし、就業者は増え、失業率は下がり、求人倍率は高くなる。
この推論を新卒の就業に当てはめれば、ゼミのOBたちが遭遇している不幸が説明できる気がしてきたのだ。すなわち、一人の定年退職者の仕事を、新卒二人で分割する。仕事量は半分、給料は半分、しかし就職率は高騰する。仕事量が半分なのに、サービス残業がはびこるのは、新卒はスキルがないにもかかわらず、まともな指導もないから、あっぷあっぷになり、その上、同様に低賃金の先輩が仕事を新入社員に押しつけるからなんだろう。
このように考えると、現代の悲劇を論理的に説明できる気がする。
ここで勘のいい人、あるいは、スタンダードな経済学を学んだ人は、こういう鋭い疑問を抱くことだろう。すなわち、一人が定年退職して二人が就業した場合、減る仕事量は1単位、増える仕事量は2単位だから、1単位分だけ総生産が増加するんじゃないの、と。しかし、そういうあり方は、通常の新古典派的な均衡(ワルラス均衡)だ。言い換えると、「供給が需要を決める」世界観なんだね。
ここに、小野さんの理論の真骨頂がある。小野さんのモデルでは、「(消費)需要が供給を決める」ことが論証されている(数学的には完全に論理矛盾なくシミュレートされている)。だから、消費量が始めから一定と決まっていれば、就業者の増加は所得の減少をもたらすだけになってしまうのだ。
 もちろん、今のロジックは、かなり雑な面がある。なぜなら、不況なら普通は就いている正社員が仕事を辞める行為は自滅行為かもしれない。次の仕事に就くのが大変だからだ。したがって、新卒がすぐに辞めるのは、転職が容易だからと考えるべきである。通常の経済理論では、転職が容易というのは好況下にあることを意味している。
 しかし、これにも多少の反論を加えることは可能だ。新卒が1年程度で辞めた場合、そこにはスキルの定着はほとんどないだろう。スキルがないまま転職する人たち全体を見れば、ただ、互いに職場をぐるぐる取り替えているだけであり、生産力の意味では全体としてなんら蓄積がなされない。マクロで見れば、生産力は一定であり、不況均衡を固定するだけであろう。
 仮に、現状がぼくのいう「高就業率・不況均衡」だとしても、それがいわゆる不況均衡よりはマシ、という考え方はあるかもしれない。失業というのは、ある種、「人格の否定」として機能し、人の心を荒ませる。高失業は、自殺を増やし、犯罪を増やし、最悪の場合、戦争の原因にさえなる。だから、それに比べれば、マシという見解はありうると思う。ただし、そのためには、保育所の不足とか、若者の疲弊とか、将来的な国民のスキルの蓄積不足とか、別の問題に注目し、対処する必要が出て来るだろう。
 もちろん、今の日本は、好況(完全雇用均衡)への過渡的状態であり、これから、賃金が上がり、物価が上がり、消費が増え、総生産が増える、そういう可能性を否定する材料をぼくは持っていない。そうであれば、通常の経済学で説明できることであり、ぼくの直観がはずれたことになる。もちろん、日本国民にとってはめでたい話となる。