万物は固有値である

 最近は、NHK以外の地上波がおそろしくつまらないので、ケーブルTVで海外ドラマばかりを観ている。めっちゃ面白かったのは、『ナンバーズ』一挙放映と『アストリッドとラファエル』一挙放映だ。

『ナンバーズ』はFBI捜査官の兄と天才数学者の弟が協力して難事件を解決する話。解決には、さまざまな応用数学が使われる。中にはむりくりな使い方もあるが、多くは「数学ってこんなふうに使えるのか」と舌を巻く。グラフ理論や最適化アルゴリズムベイズ統計やゲーム理論などが縦横無尽に登場する。なんと言っても、あのリドリー・スコット(「ブレードランナー」とか「エイリアン」とかの監督)が制作に関わっているのだから、つまらないわけがない。

『アストリッドとラファエル』は、フランスの刑事物。異色なのは、犯罪資料局で資料整理の仕事をする主人公のアストリッドが重度の自閉症ということ。しかし彼女は、恐るべき記憶力と推理力を兼ね備えており、女性刑事のラファエルと組んで難事件を解決する。このドラマは事件の新奇さが面白い。さすがフランスは歴史のある国だから、歴史の絡んだ摩訶不思議な話が組み込まれている。でも、それより何よりすばらしいのは、アストリッドの自閉のありようの描き方だ。アストリッドを演じる女優さんの演技が卓越で、自閉症がどんなものであるかが手に取るようにわかる。一方、女刑事のラファエルは自由奔放で発散型の性格をしており、アストリッドとは真逆の精神性を備えている。その対照的な取り合わせが物語に彩りを与えているのだ。NHKで5月に、第1シーズンの一挙放送もあるし、第2シーズンも始まる。是非、観てみてほしい。

 さて、今回紹介したいのは、黒川信重・小山信也『リーマン予想のこれまでとこれから』日本評論社だ。以前にもこの本をエントリーした記憶があるのだけど、見つからないのでリンクははらない。今回、この本を久しぶりに再読したら、前よりずっとわかるようになっていた。なんでかというと、別の専門書でいろいろな知識を吸収してきたからだと思う。そうやってから戻ってみると、本書はものすごく良く書けている専門書だと再認識した次第。

この本のメッセージを一言で言えば、

万物は固有値である

ということだと思う。固有値というのは、普通、線形代数で習う。1次変換f(\vec{x})に対して、f(\vec{x})=\alpha \vec{x}を満たす\vec{x}を「固有ベクトル」、\alphaを「固有値」と呼ぶ。行列で記すなら、A\vec{x}=\alpha \vec{x}ということだ。本書は、一言で言うなら、この固有値」が難攻不落の難問「リーマン予想」の攻略の武器となることをわかりやすく解説した本ということになる。

リーマン予想というのは、簡単に言えば、「ゼータ関数の零点や極の実部が一定値である(虚軸に平行な直線上に並ぶ)」というもので、一部の特殊なゼータ関数で解決しているものの、多くのゼータ関数では未解決なままだ。とくに、オリジナルの予想であるリーマン・ゼータ関数\zeta(s)=\frac{1}{1^s}+\frac{1}{2^s}+\frac{1}{3^s}+\dotsについて、「その虚の零点の実部がすべて1/2である」は、160年以上も未解決の状態だ。本書では、この難問についても、「固有値」が突破口になるのでないか、と示唆している。実際、リーマン予想(の類似)が解決している「合同ゼータ関数」と「セルバーグゼータ関数」については「固有値」が解決のカギとなった。そこでの固有値の働きを解説することで、その他のリーマン予想、とりわけオリジナルのリーマン予想の解決に肉薄しようとしている。

したがって、この本を読むことは、ゼータ関数リーマン予想についての知識を得られるだけではなく、固有値というのが数学全体を貫く一大アイテムであり、数学の主役である、という認識に到達することができるのである。そう「万物は固有値」ということだ。

 本書の根幹には、ヒルベルトとポリアの「ゼータ関数の零点は固有値解釈できるだろう」という予想がある。そのベンチマークとなる理論としての「Z-力学系ゼータ関数」から話をはじめている。これは「置換」(n個のモノの並べ替え)に関するゼータ関数である。例えば、X=\{1, 2, 3\}の並べ替えである\sigma=(1, 2, 3)を考えよう。これは1を2に、2を3に、3を1に動かす写像である。この\sigmaに対して、

\zeta_{\sigma}(s)=exp(\frac{|Fix(\sigma^1)|}{1}e^{-1s}+\frac{|Fix(\sigma^2)|}{2}e^{-2s}+\frac{|Fix(\sigma^3)|}{3}e^{-3s}+\dots)

というゼータ関数を作る。ここで、\sigma^m\sigmam回ほどこしたもの(合成したもの)、|Fix(\sigma^m)|は、それに関する固定点(不動点)の個数である。上記の\sigmaについては、mが3の倍数のときは、\sigma^mは恒等置換(何も動かさない置換)になるから、|Fix(\sigma^m)|=3。その他の場合は固定点がない(全部が動く)ため、|Fix(\sigma^m)|=0となる。このことから、

\zeta_{\sigma}(s)=\frac{1}{1-e^{-3s}}

と計算される。

次に、別の\sigma=(1, 2)(3, 4, 5)を考えよう。この置換は1と2を入れ替え、3を4に、4を5に、5を3に写す写像(置換)である。この場合は、

\zeta_{\sigma}(s)=\frac{1}{1-e^{-2s}}\frac{1}{1-e^{-3s}}

となる。見てわかる通り、オイラー積」の類似の形式が出現している。

本書では、この置換に関するゼータ(Z-力学系ゼータ関数)を行列表現し、その固有値に結びつけていく。

置換\sigmaの行列表現M(\sigma)とは、i\sigma(i)行にだけ1を置き、他を0にした行列のことだ。例えば、\sigma=(1, 2, 3)に対するM(\sigma)は、1列2行、2列3行、3列1行だけに1があり、他は0であるような行列である。このとき、

\zeta_{\sigma}(s)=\frac{1}{det(I-M(\sigma)e^{-s})}

となることが示される。det行列式のことで、分母は固有値を求める方程式と同じものだ(I単位行列)。この計算のポイントになるのは、M(\sigma)固有値\alpha_1, \alpha_2,\dots,\alpha_nとするとき、

|Fix(\sigma^m)|=\alpha_1^m+\alpha_2^m+\dots+\alpha_n^m

が成り立つことだ。これは線形代数あるいは行列の理論で有名な性質、

(行列Aの対角線の和(tr(A))=(行列A固有値の和)

である。本書ではこれを「跡公式」と呼んでいる。

さて、固有値の定義から、

\frac{1}{det(I-M(\sigma)u)}=\frac{1}{1-\alpha_1u}\frac{1}{1-\alpha_2u}\dots\frac{1}{1-\alpha_nu}

よって、\zeta_{\sigma}(s)の極(値が∞となるs)は固有値から計算できることになる。これによって、Z-力学系ゼータ関数リーマン予想が証明されることになる。

 このZ-力学系ゼータ関数の例に本書がやりたいことのすべてが込められている、と言っても過言ではない。このあと、「合同ゼータ関数」と「セルバーグゼータ関数」に対するリーマン予想の攻略法が解説されるが、本質的にはもっと抽象的な対象に関して、上でやったことをなぞることになるからだ。

例えば、合同ゼータ関数リーマン予想解決については、グロタンディークがエタール・コホモロジーを使って、フロベニウス作用素の行列表現の固有値で解釈した方法が概説される。またセルバーグゼータ関数では、「フーリエ展開」の係数が固有値と解釈できることから、フーリエ展開を応用した「ポワソンの和公式」がセルバーグ跡公式の源であることが詳しく説明され、そこからセルバーグゼータ関数リーマン予想解決の急所に向かっていくのである。

これらを読むと、本書ではあまり触れられないが、ラマヌジャンゼータ関数(あるいは、保型形式のゼータ関数)も固有値的な方法論でアプローチされているのだ、ということが実感されるから、「なるほど」という理解に達することができる。

 本書が黒川さんや小山さんの本として異色だと思うのは、初歩的なことにも丁寧な証明がつけられていることと、「数学アプローチの見つめ方」みたいなものが随所に語られていることだ。例えば、有限次元の行列の性質を無限次元の行列に対して拡張することで、合同ゼータ関数にアプローチできるようになったり、さらには、連続無限次に拡張したものが、積分作用素であること、フーリエ級数はその一種であることを詳説したりしていて、とても感動する。それは次の文に結晶している。引用しよう。

数学ではこのように、似ている現象を敏感に察知して展開していくことで研究が進展する。「似ていること」の発見は、論理よりも感性による部分が大きい。根源的なところで数学を進展させているのは、人間の感性なのだろう。

なんと含蓄のある、なんとすばらしいことばだろう。

 さて、本書を読むには、行列の理論、群論・体論、ゼータ関数に慣れておいたほうが良いと思う。いつもの販促であるが、行列には拙著『ゼロから学ぶ線形代数講談社を、群論・体論には拙著『完全版 天才ガロアの発想力技術評論社を、ゼータ関数には拙著『素数ほどステキな数はない技術評論社を推奨しておく。

 

 

 

社会的共通資本を考える シリーズ1第2回『自動車の社会的費用』を読む、に登壇します。

京都大学社会的共通資本と未来寄附研究部門が主催する公開講座シリーズ、社会的共通資本を考える シリーズ1第2回『自動車の社会的費用』を読むに登壇します。来週、3月28日(火)19:00~20:30です。興味あるかたはふるってご参加ください。以下は、京都大学社会的共通資本と未来寄附研究部門のサイトからの引用です。

社会的共通資本を考える シリーズ1『自動車の社会的費用』を読む 第2回のゲストは帝京大学経済学部教授・小島寛之さんです。

小島さんは、宇沢最後の弟子で、『宇沢弘文の数学』を上梓されています。数理経済学者の視点から『自動車の社会的費用』を解説していただきます。

日時 2023/03/28 (火) 19:00 - 20:30 

会場参加とオンライン参加が選べます。申し込みは、以下のサイトからどうぞ。

https://scc-reading20230328.peatix.com/

 

これは、宇沢弘文先生の名著『自動車の社会的費用』岩波新書をいろいろな専門家がリレー的に読み解くもの。さまざまな立場や感受性による読解が聞けて有意義だと思う。

 ぼくがこの本を読んだのは、宇沢先生に指導を受けた30歳前後のことだったと思う。自動車が社会にもたらす弊害を勇気を持って断罪した内容に、非常に大きな衝撃を受け、人生観が変わったと言っても過言ではない。大事なことは、この本が単に著者の持つ自動車への選好のありかたを押しつけたものではなく、経済学の観点から冷静に功罪を論じ、それをバネにして「経済理論自体の不備」をも明らかにしたものだ、という点である。だから、「新古典派経済理論への批判」の書としても、また「新しく有効性のある経済理論の模索」の書としても読める。

今回は準備にあたり、この本の前段階にあたる論説や後日談にあたる論説もサーベイした。この本は1974年に書かれたものだけど、1970年にはすでに構想が完成していたことがわかった。そして、その思索を追ってみると、新古典派経済理論の天才であった宇沢先生が、経済学の意義に疑問をもち、それに煩悶しながら、新しい経済理論を模索していた姿がひしひしと伝わってきた。初読のときは、まだぼくは経済学の素人だったので気づかなかったが、今回はプロの経済学者として読み、この発見は大きな収穫となった。レクチャーでは、そういう観点からも語るつもりなので、興味ある人は是非参加してほしい。

再読して印象的だった部分をひとつだけ引用しておこう。

新古典派の理論は、以上述べたような前提条件をみたす一つの虚構の世界をつくりあげて、そこでの経済循環のプロセスが現実の世界におけるメカニズムを描写するという方法をとってきた。このような理論的前提にもとづいて構築された一般均衡モデルにかんして、その数学的・形式的な面について、一般化・精緻化がこの二十年間にわたってつづけられてきた。この目的のために、多くのすぐれた知的能力をもつ経済学者たちが精力的な努力を試み、この分野における貢献は、戦後の経済学の展開においてもっとも重要なものとされている。サミュエルソン、アロー、ハーヴィッチ、デブルュー、ソロー、スカーフ、ラドナーなど、この分野で活躍してきた経済学者は枚挙のいとまがないほどである。

 これに反して、一般均衡理論の経済学的前提条件に光を当て、現実の市場経済の制度的な要因を抽象して理論化しようという試みは、ほどんどなされてこなかったといってよい。

 このような傾向は、戦後、世界の経済学研究の中心がイギリスの大学からアメリカの大学に移っていったことと無縁ではないようである。そこでは一種のプロフェッショナリゼーションともいうべき現象がみられ、現実の問題と関わりのない研究が許されるようになっただけでなく、逆に若い有能な経済学者の興味をそのような研究に向けるということすらおきている。新古典派理論の虚構性に対して真摯な反省を加えるというより、逆に、理論をもともと虚構の世界における演繹的・論理的演算としてとらえてきたともいえる。このことは、デブルューのような公理主義の立場にもっとも端的なかたちであらわれている。(pp111-112)

この部分は、初読のときはピンとこなかったが、今回は身震いするほどの感動を持って受けとった。ぼくが経済学を研究し始めてから抱いてきた感慨そのものだったからだ。ぼくもほぼ同じようなことを、拙著『経済学の思考法』講談社現代新書『世界一わかりやすいミクロ経済学入門』講談社に書いている。宇沢先生が70年代にたどりついていた問題意識に、ぼくもいつの間にか到達していたのだった。

上記の引用における「プロフェッショナリゼーション」という表現は、皮肉・揶揄のたぐいであろうと思われる。経済学者として活動してきてたびたび驚いたのは、経済学を研究している若い研究者には、「信じられないほど頭の良い人たち」がいる、ということだった。これは皮肉や悪口では全くなく、彼らは、本当にとんでもなく頭がいいのだ。そんな彼らは、その知的能力を存分に発揮して、嬉々として難しい経済理論の論文を書き、ベストいくつと称される学術誌にばんばん公刊している。凡人のぼくは、そういう異例に賢い人たちを見るにつけ、羨望と嫉妬を感じる一方、心の中で密かに思うのは、「なんでこの人たちは、数学や物理に行かないのだろう」ということだ。理論的な難しさと面白さが抜群なのは、数学と物理だと思う。何より「意義」がある。そんなに頭が良いんだから、数学や物理でその知的能力を存分に発揮したらいいのに、と。そういう疑問に対してたぶん、彼らは口を揃えてこう言うだろう。「自分は社会現象に関心があるのだ」。でも、そうなると、ぼくの疑問は宇沢先生の上記の言説に舞い戻ってしまう。そう、それならなぜ、彼らは宇沢先生の言う「現実の市場経済の制度的な要因を抽象して理論化」に向かわず、「虚構の世界」で遊んでいるのだろう。それこそ、知的能力の無駄遣い、経済学でいうところの「社会的非効率性」じゃないのかと。

でも、ある意味では理解できるのだ。

宇沢先生のお弟子さんに、サミュエル・ボウルズという非常に優れた学者がいる。彼は、ハーバード・ギンタスと共著で『アメリカ資本主義と学校教育』という大変ラディカルな本を1976年に書いた。宇沢先生のこの本と同じ頃である。この本こそ、まさに、「現実の市場経済の制度的な要因を抽象して理論化」しようという試みであった。でも、その後、ボウルスもギンタスも、「ゲーム理論」の専門家に転向した。宇沢先生のように「けもの道」に分け入らず、舗装された登山道を歩んだ。これを見ると、宇沢先生の上記の言葉はそんなに簡単なことでも、妥当性のあることでもないかもしれないな、とも思う。

 

 

 

 

 

 

社会的共通資本を考える シリーズ1第2回『自動車の社会的費用』を読む、に登壇します。

京都大学社会的共通資本と未来寄附研究部門が主催する公開講座シリーズ、社会的共通資本を考える シリーズ1第2回『自動車の社会的費用』を読む、に登壇します。来週、3月28日(火)19:00~20:30分です。興味あるかたはふるってご参加ください。以下は、京都大学社会的共通資本と未来寄附研究部門のサイトからの引用です。

社会的共通資本を考える シリーズ1『自動車の社会的費用』を読む 第2回のゲストは帝京大学経済学部教授・小島寛之さんです。

小島さんは、宇沢最後の弟子で、『宇沢弘文の数学』を上梓されています。数理経済学者の視点から『自動車の社会的費用』を解説していただきます。

 

ドラマ総集編のようなすばらしい現代数論の入門書

今回エントリーするのは、山本芳彦『数論入門』岩波書店だ。この本は以前にも、このエントリーで紹介しているが、今回は違う観点から推薦したいと思う。

ゆえあって、最近またこの本を読み始めたのだが、面白くて遂にほぼ全部読んでもうた。そして全体を読破すると、この本がもくろんでいること、この本の特質がひしひしつと伝わってきた。ひとくちに言えば、この本は、「ドラマの優れた総集編を観るようなすばらしい内容」ということなのだ。

ドラマの総集編って、全12話を4話ぐらいでかいつまむ。もちろん、圧縮しているので、カットされたエピソードもあるし、ナレーションで進めちゃう場面もあるし、スルーされるキャラもある。でも、優れた総集編では、本編より本質が浮き彫りになり、面白さが倍増になることも多い。この本は、数論の総集編として、そのメリットがみごとに活かされたものだと思うのだ。

 いろいろメリットがあるのだけど、その中で最も強調したいことは次のことだ。

数論や代数幾何の一般向け専門書を読んでいると、よく出くわすがたいてい説明がスキップされている用語や概念がある。例えば、「類数」、「導手」、「モジュラー」、「虚数乗法」、「j-不変量」、「フロベニウス自己同型」、「主因子」、「微分因子」、「種数」、「リーマン・ロッホの定理」など。これらの用語は、一般の数学ファンが是非知りたいと思う数学、例えば、フェルマー予想とかリーマン予想とかラマヌジャン予想とかの解説に必ず登場する。けれども、用語がアリバイ的に出てくるだけで、その説明は塵ほどもなされないのが常だ。それに対して、本書では、非常に初歩的な方法でこれらの説明がなされるのがすばらしいのである。

 どうしてこういう「総集編」が可能なのか、というと、

1.  証明の難しい定理は、証明をはしょって紹介だけにして、大事な数学概念を説明するための隠し味に使っている。

2. 各章が絶妙な関連性を持って書かれているため、自然な流れの中で大事な数学概念が登場できる。

3.  必ず適切な具体例を紹介することで、その数学概念の実感が掴めるようになっている。

からなのだ。特に、具体例はとても工夫されている。多くの数学書ではトリビアルなものか典型的なものを挙げているのに対し、この本では、その概念の本質を包含しているものや後の章とも関係あるものを、ちゃんとした計算を解説した上で紹介しているのである。定理の証明をスキップされていても、具体例を見ることで当該の定理や数学概念の本領をつかむことができるようになっている。

では、その「絶妙な関連性を持った章構成」について、簡単にまとめてみよう。

第1章:有理整数環

は、まあ、普通の導入だけど、ユークリッドの互除法を行列の積との関連で説明している点は、多少、目新しい。

第2章:合同式

これも普通の解説だけど、さりげなく、フェルマーの小定理の応用として、素数 pについて、 (a+b)^p \equiv a^p+b^p (mod \, p)を証明して、「フロベニウス自己同型」の伏線にしているあたり、にくいところ。

第3章:剰余環

ここでは、合同式の性質を「剰余環」として見直し、それによって素数 pに対する「 p元体」という「有限体」を構成している。他の数論の本よりずっと丁寧に剰余環の概念を説明しているので、一般読者にはとても有益である。しかし、この章の白眉は、一般の有限体「 p^m元体」を構成し、その性質を紹介している点だ。一般の有限体を発見したのはガロアだと何かで読んだけど、「 p^m元体」の構成方法の解説では本書が最もわかりやすい印象を受けた。そして、これは、次章での「平方剰余」へのみごとな伏線となっている。

第4章:平方剰余の相互法則

この章は、平方剰余の説明にあてられる。素数 pを固定したとき、平方剰余とは、 pと互いに素な整数aに対して、2次合同式 x^2 \equiv a (mod \, p)が解を持つ場合のaをいう。このような平方剰余については、「第1補完法則」、「第2補完法則」、「相互法則」の3つの法則が有名である。この章は、この3つの法則の証明にあてられている。

この章がすばらしいのは、これら3つの法則の証明に前章の「有限体( p^m元体)」の方法論が使われていることである。たいていの教科書では、これらの法則は、合同式の初等的な性質を使って、しかし非常にテクニカルな証明を与えている。でも、本書での有限体を使った証明は、概念的には高度であるものの、その証明自体は簡単であり、しかも、平方剰余の観点から p元体の有限次拡大の重要さを身にしみて感じることができる。また、最後に紹介される「ヤコビ記号」は、後の章で展開される「類体論」の伏線になっているのも見逃せない。

第5章:ディリクレ指標

この章では、「法mに関するディリクレ指標」が解説される。これは、「法mに関する乗法群から複素数の乗法群への準同型」、すなわち、「乗法を保存する写像」のことだ。この章の目的は、ひとつには「平方剰余」の応用ということがあるが、もっと大事なのは、有限アーベル群へ拡張することで、「有限アーベル群の指標のなす群が、もとのアーベル群と同型」という双対性を証明することにある。ここには、「ある空間の構造は、その上の関数に宿る」という数学一大思想の一端が垣間見られる。また、この章に「導手」の簡単な解説が含まれる。さらには、この章の最後に、「ヘンゼルの補題(多項式mod \, p^kでの因数分解)」の証明がある。これは、「p進体」の基礎になるものだが、「p進体」には触れずに合同式の水準にとどめているのも本書の優れた工夫と言える。この補題も後の章の伏線になっている。

第6章:2次体の整数論

たぶん、この章が本書のメインディッシュであり、著者が最も力を入れた章だと思える。非常に丁寧に、非常に豊かに解説されている。2次体の理論とは、「(有理数)+(有理数) \sqrt{m}の集合」のような、2次の無理数有理数に添加した体に「整数」を定義して、その素因数分解(素イデアル分解)を分析するものだ。豊かな性質を持っており、いまだに未解決のことも多い。本書では、これを前章の「平方剰余の理論」を用いて上手にさばいている。具体例が多く、類書に比べて、実感として理解できる工夫がなされている。また、この章での数学展開が、このあとのもっと高度な章のお手本となっているように描かれていて、溜飲が下がる。

第7章:代数体の整数論

この章は、第6章の発展として、「1のべき根を有理数に添加した体」での整数論を展開している。これが「類体論」と呼ばれる壮大な理論の出発点である。ここでは、ほとんどのことは証明抜きに結果のみを具体例とともに記述している。これは潔い態度と言っていい(いちいち証明してたら、紙数がとても足りない)。いよいよこの章で、新内と言っていい「リーマン・ゼータ関数」が登場する。また、「フロベニウス自己同型」が平方剰余の類似の記号で定義され、2次体の数論で示された定理の類似の定理が成立することが紹介されている。

第8章:楕円モジュラー関数

この章ではまず、「モジュラー変換」が語られる。モジュラー変換とは、複素平面の上半平面(虚部が正の領域)上のz ad-bc=1を満たす整数a,b,c,dによって、 (az+b)/(cz+d)と変換するものだ。この変換は、2次無理数論や保型形式論などさまざまな数学に現れる。そのあと、「楕円モジュラー関数j(z)」の紹介に進む。ここに、「ラマヌジャン\Delta」や「アイゼンシュタイン関数E_4(z)E_6(z)」などがさっそうと登場する。ここで、ラマヌジャン\Deltaとはこのエントリーで紹介した保型形式で、一方、アイゼンシュタイン関数E_i(z)は、自然数nの約数の(i-1)乗和にe^{2 \pi inz}を掛けて総和したもので作られる保型形式。ラマヌジャン数学の根幹をなすアイテムだ。楕円モジュラー関数j(z)は、j(z)=E_4(z)^3/\Delta(z)で定義される。この関数はモジュラー変換で不変という保型性を備えている。さらには、虚2次無理数の分類と密接な関係を持つ。すべて証明はカットされているけど、それがむしろ功を奏して、面白さだけが伝わってくる。この章の最後は、ヒルベルト類体に関するアルチンの相互法則を紹介して終わる。これは、平方剰余の相互法則を代数体に拡張したものになっている。

第9章:楕円曲線

この章は、現代数学の主役級である「楕円曲線」についての解説だ。楕円曲線とは、Y^2=4X^3-aX-bで定義される複素射影空間上の曲線である。曲線上の点が加法群(アーベル群)をなすというすさまじい性質を持っていて、その群は数理暗号にも利用されるぐらい複雑であり、また多くの未解決問題を提供している魔窟と言っていい。この章では、アーベル群の性質の中で最も証明が困難な「結合法則」については、マティマティカのプログラムを与えることで済ますという画期的な扱いをしており、いちはやく大事な「等分点」の理論に進んでいく。ここも適切な具体例が多く、楕円曲線の性質が身近になる。そして、最後に「虚数乗法」というアマチュア数学愛好家も知りたい概念がわかりやすく(かつ深入りせずに)解説されている。

第10章:超楕円曲線とヤコビ多様体

本書で最も白眉であり、最も卓越していて、大団円であるのはこの章だ。この章は、数論の解説というより、代数幾何の超入門と言ったほうがいい。最初に楕円曲線の拡張にあたる楕円曲線Y^2=X^n+a_1X^{n-1}+\dots+a_nを紹介し、これを材料にして「因子」「主因子」「整因子」「微分因子」などを解説していく。因子とは曲線上の点に係数をつけた形式和だ。とりわけ重要なのは有理関数について、その零点にその位数を掛けたものと、その極(値が無限大になる点)にその位数を掛けたものとを、足し合わせた「主因子」である。これについてはいろいろな代数幾何の本で読んだが、なかなか咀嚼できず、本書でやっと溜飲下がる解説に出会った。とりわけ、種数(図形に空いている穴の個数)の定義を「微分因子」で行っており、いろいろな本で読んだ種数の定義の中で最も手短なもので嬉しかった。(コホモロジー群の次元とかで定義された日にゃあ、溺れ死ぬ)。なにより、具体例が適切で当を得ている。そのあと、あの有名な「リーマン・ロッホの定理」が登場するが、応用の仕方を語るのに終始しているのが良い。最後は「ヤコビ多様体」での代数学が語られる。

代数幾何を勉強したいがどの本でも途中で遭難してしまう(ぼくのような)人は、是非、この第10章から入門すると良いと思う。楕円曲線を知らないなら、第9章から入ればいい。第9章と第10章は他と独立した章として読めるから、この2章だけ読むだけでもすごく有益である。

実は、拙著素数ほどステキな数はない』技術評論社を書いたとき、平方和の数論をガウス整数環を使って説明した章は、本書を大きく参考にした。流れとしては本書よりも初等的で自然な形で記述しているので、ぼくの本を先に読んでから本書に進むほうがベターだと言える(販促として。笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「知らなきゃならない」から「知りたい」へ

 ちょっと前から自分の勉強法が変わって、昔の(学部時代の)自分への後悔をすることがたびたびある。今回のタイトルがそれ。昔の自分は数学について「知らなきゃならない」ことに責め立てられて、焦燥感の海で溺死した。もしも「知りたい」という欲求の中で勉強していたら、少しはマシな学生時代になったのではないか、そう今は思う。

 忘れもしない学部4年の夏休み。所属ゼミの先生に「大学院を受験するなら、その準備の勉強計画について報告しなさい」と呼び出された。学部での2年間、ほとんど何も勉強していないぼくには「知らなきゃならない」ことがてんこ盛りだったため、正直に課題を網羅して報告した。「まず、『解析概論』の多変数の微積分を勉強します」。先生は黙ったまま、頷いた。「それから、佐武『線形代数』をやります」。先生はうつむいて顔をあげない。「それから、基礎数学で『集合と位相』を復習して」、この辺で先生の体が震え始め、「高木か藤崎で『代数的整数論』を・・・」と言ったとき、先生が怒鳴った。「真面目に言っているのか!そんなにできるわけないだろ」。

そう、今思えばできるわけないのだ。ぼくは「やらなきゃならない」「知らないとまずい」ことを列挙しただけで、実現可能性など念頭になかった。先生の怒りは当然のものだった。そして、その夏、バイトに明け暮れたぼくは、その中のただのひとつも勉強しなかった。

「知らなきゃならない」という焦燥感は、勉強の意欲をそいでしまう。「知らなきゃならない」という時点ですでに、「知ることを放棄している」に等しかったのだと思う。勉強にとって大事なのは、「知りたい」というモチベーションなのだ。「知りたい」は、人に試行錯誤と工夫をもたらす。「知りたい」から読んだ本が「わからない」場合は、「わからない」ことが「何が足りないか」を明らかにしてくれるし、「どういうふうに書いてあればわかるか」も教えてくれる。そしたら、その目的に適した別の本にシフトすることができる。「知りたい」は「わかる」ことへの道しるべの発見につながるのだと思う。

 今回そういう想いに至ったのは、「コホモロジー」の勉強の中でだった。

近々執筆する予定の本には、どうしてもコホモロジーの解説を入れたいと思っている。コホモロジーというのは、さまざまな数学的対象の不変量を与えるもの。準備している本は、現代数学における集合と写像の役割を解説するものなので、先端数学の最強の道具であるコホモロジーをどうしても扱いたいのである。それで、できるだけ簡単で、できるだけ端的にわかるコホモロジーの例を探していた。

コホモロジーというのは、(ベクトル空間や群や環などの)演算を持つ集合 A_1, A_2, \dots準同型写像(つまり、演算を保存する写像) f_1, f_2, \dotsのなす図式、

A_1\rightarrow (f_1) \rightarrow A_2 \rightarrow (f_2) \dots  \rightarrow A_n  \rightarrow (f_n) \rightarrow A_{n+1} \rightarrow (f_{n+1})\rightarrow A_{n+2}  \dots

が、すべての nにおいて、任意のx \in A_nf_{n+1}(f_n(x))=0を満たす(つまり、連続して写像すると単位元になる)ときに、 ker f_{n+1}/Im f_nで定義される商集合のことである。ここで、 ker f_{n+1}とは、 f_{n+1}(x)=0を満たす xの集合( 0の逆像)のこと。 Im f_nは、 f_n(x)たちの集合( A_nf_nによる像)を意味する。f_{n+1}(f_n(x))=0という仮定から、 f_n(x)たちは ker f_{n+1}に属するので、 Im f_n \subseteq ker f_{n+1}だから商集合 ker f_{n+1}/Im f_nを構成できる。

このように定義されるコホモロジーは、さまざまな数学対象に応用されている(ようだ)。しかし、ぼくの本では、できるだけ簡略に勘所だけを紹介したいので、なるだけ準備が少なく解説できる素材を探していたのである。

最初に勉強したのは、代数幾何学における「層のコホモロジー」だった。だけど、これは定義に異様に手間がかかり、しかも応用までに長い道のりが必要になる。ぼくの本ではとても無理だ。次に見つけたのは、数論における応用例で、それは小野孝『数論序説』にあった。(この本については以前に、このエントリーで紹介している)。この本でのコホモロジーは、本の前半に登場し、しかも、巡回群というとても単純な対象({a, a^2, a^3,\dots, a^n=e}の成す群)に対して定義される。このコホモロジー群に関して、6角完全系列というのを証明して、「エルブランの商」という商集合に関する補題を導くところまではかなり簡単で、それはめっちゃ助かる。でも、残念ながら、このコホモロジー群が役立つ定理は最後の最後まで行かないと出てこないんだね。しかも、応用のためには、2次体のイデアルとか分数イデアルとかイデアル類群とかを持ち出す必要がある。こりゃあ、途方もないステップだ。

 で、かなり諦め気味だったところで、唐突にいいネタを見つけた。それが「群のコホモロジー」と呼ばれるものだ。これは秋月・鈴木『代数I』に載っていた。ここできちんと定義を述べると長くなるので、詳しい解説はなしにおおざっぱに述べる。可換群 Gと、結合法則を満たし Gの作用域である集合 \Gammaに関するものだ。すなわち、 g \in G, x \in \Gammaに対して、 gx \in Gで、

 (g_1+g_2)x=g_1x+g_2x, (gx_1)x_2=g(x_1x_2)

を満たす対象。この \Gamma上で定義され、 Gの値をとるn変数の関数の全体を C^nとして、その加法を普通の多項式のように定義する。その上で、 C^nから C^{n+1}への写像(準同型) \deltaを次のように定義する(多項式だと思って理解すれば良い)。

 \delta f(x_1, \dots, x_n)=f(x_2, \dots, x_n)

 +\sum_{i=1}^{n}(-1)^if(x_1,\dots,x_ix_{i+1},x_{i+2},\dots, x_{n+1})

 +(-1)^{n+1}f(x_1, \dots, x_n)x_{n+1}

見るからに奇妙な計算だ。言葉で説明すると、n変数の関数 f(x_1, \dots, x_n)から\deltaという写像 x_1, \dots, x_{n+1}を変数とするn+1変数の関数を構成するのだけど、i番目の変数 x_ii+1番目の変数 x_{i+1}をかけ算してx_ix_{i+1}とくっつけて、x_1,\dots,x_ix_{i+1},x_{i+2},\dots, x_{n+1}n変数としてfに入力したものを交互に引いたり足したりして作るのだ。面白いことに、この操作を2回繰り返してできるn+2変数多項式 \delta (\delta f(x_1, \dots, x_n))は、項の打ち消し合いが起きて必ず0となってしまう仕組みなのである。奇妙だけど巧くできている。この作用(準同型) \deltaに関して、コホモロジー群を定義するのが、「群のコホモロジー」というわけだ。

ところが、「このコホモロジーはいったい何をしようとしているのか」を知りたくなって、その前の部分を読んでみて、参ってしまった。どうも「シュライエルの定理」というのが下敷きになっているらしいのだが、秋月・鈴木『代数I』ではその説明が異様にわかりづらいのだ。「シュライエルの定理」というのは、2つの群 N, \Gammaが与えられたとき、 N正規部分群として含む群 Gで商群 G/N \Gammaと同型となるものをすべて求める(というよりも、構成する、と言ったほうが適切なんだけど)ものだ。そこまではわかるのだけど、定理の証明がめちゃくちゃわかりづらかった。それでこの本はあっさり放棄し、これに関して何かいい本はないかと漁ってみたら、ずっと前から持っていた浅野・永尾『群論に解説があることを発見した。(この本については以前、このエントリーで紹介している)。幸運なことに、この本での「シュライエルの定理」の説明はめっちゃわかりやすかったのだ。それで「シュライエルの定理」がきちんと理解できた。それは「因子団」と呼ばれるもので、因子団が決まれば群 Gを構成できる、というものだった。(この定理自体、とても面白く、みごと)。そうして、再度、秋月・鈴木『代数I』の群のコホモロジーに戻ったら、これが何をしようとしているか、前よりずっとわかるようになっていた。

秋月・鈴木『代数I』読み進めてみると、群のコホモロジー群を使って、とある定理を証明していた。これも詳しく説明すると手間がかかるので、おおざっぱにだけ言うけど、可換群が直和分解でき、その直和因子の一方がm正則という性質を持つ場合、\Gamma不変な直和分解を持つ、というような定理だった。

その証明では、すべてのnに対してコホモロジー群が{0}(すなわち、単位元)になることが利用される。上に書いた定義からわかるように、コホモロジー群が{0}ということは、 ker f_{n+1}=Im f_nが成り立つことである。したがって、 f_{n+1}(x)=0なるxに対しては、f_n(y)=xを満たすyを見つけることができる。この性質を利用して、\Gamma不変な直和分解を構成する次第。

すこし穿ったまなざしで見てみると、 ker f_{n+1}=Im f_nという性質がポイントなら、何もコホモロジー群なんて出さないで、直接 ker f_{n+1}=Im f_nから証明すりゃいいやん、とも思うけど、コホモロジー群の系列を作っておくことが、ものごとの見通しをよくするということなんだろうと思う。

そう思えてみると、以前のこのエントリーで紹介した加藤五郎『コホモロジーのこころ』の文章が思い出される。引用すると、

 X, Y, Zの間に連絡fgがあったとき、Yでのコホモロジーとは、 Ker \,g/Im f

という割り算で定義します。上の約束事で Xからの影響を受けている Yの部分Im fZには全く影響なしだからIm f Ker \,gの一部分、すなわち Im f \subset Ker \,gです。だから、 Yでのコホモロジーというのは、 Zにまったく影響を与えない部分 Ker \,gであって、この Ker \,gの一部である Xから影響を受けている部分Im fを無視してもいい部分にあたり、 Ker \,gIm fで割った残りの集まりがコホモロジーです。

こう言ってもいいでしょう。Yでのコホモロジーとは、Yの中で他人に影響を与えない部分 Ker \,gで、その中の、他人から影響を受ける部分を捨ててしまえということです。もっといってしまうならYの神髄とでもいうか、Yの本質をYでのコホモロジーというのです。たとえば、Yがたった一人でくらしてた場合を考えてみてください。人は見かけによらないといいますが、Yそのものは見かけでYのほんとうの姿はそのコホモロジーということになりましょうか。

この場合にあてはめるなら、コホモロジーが{0}ということは、「神髄」というのが存在しないことを意味していて、 Zにまったく影響を与えない部分は Xから影響を受けている部分ぴったりそのものだ、ということになる。

今回は、「知らなきゃならない」ではなく「知りたい」を動機とした行動だったので、実に効率的にそれなりのスピードで成果にたどり着くことができた。おまけに、浅野・永尾『群論については、あまりにわかりやすくて面白かったので、一週間程度で(込み入ったところを除き)一冊読破してしまったぐらいだ。こういう感覚が学部時代にあれば、ぼくの数学生活は豊かなものになったかもしれないと後悔している。でも、受験勉強には、これは妥当な方法論では全くないかもしれないけれどね。

販促として、似たような勉強(「知りたい」からの勉強)の仕方をして書いたぼくの本にリンクを貼っておくね。下は、数学基礎論(とゲーデル不完全性定理)の勉強の成果を本にしたものだ。それだからきっと、いわゆる専門書よりずっとわかりやすいと思う。

 

 

 

 

 

 

受験数学から最先端数学へ

今回は、黒川信重オイラー積原理』現代数学社の一部を紹介しよう。この本は、雑誌「現代数学」の一年間の連載をまとめたものだ。

オイラー積とは、オイラーゼータ関数を全素数を使った積形式で表したことが発祥となったものだ。ゼータ関数とは、自然数s乗の逆数を全自然数にわたって足し合わせもの、すなわち、

\zeta(s)=\frac{1}{1^s}+\frac{1}{2^s}+\frac{1}{3^s}+\dots

のこと。これを全素数を使って、次のように表現することができる。

\zeta(s)=\frac{1}{1-\frac{1}{2^s}}\frac{1}{1-\frac{1}{3^s}}\frac{1}{1-\frac{1}{5^s}}\dots

この積の形式が「オイラー」と呼ばれる。ゼータ関数のこの表現を利用することによって、「十分大きいxについては、x以下の素数の個数は、\frac{x}{log x}で近似できる」という「素数定理」が証明されたりする。\zeta(s)がなぜこのオイラー積で表されるか、とか、なぜこれで「素数定理」が証明されるのか、とかは、拙著『素数ほどステキな数はない』技術評論社で理解してほしい。

黒川さんによると、自然数s乗の逆数を全自然数にわたって足し合わせることがポイントではなく、オイラー積のほうが本質なのだそうだ。その証拠に、オイラー積は「素数の類似」があれば、これ以外にもいろいろ作ることができる。本書は、そんなオイラー積の魅力のすべてを集大成した本なのである。

正直言って、この本の多くの部分は専門家でないぼくには、読みこなすのが困難だ。でも、ところどころに、読んで理解できるところがあり、しかも非常に興奮する話題があるので、今回はそんな中から紹介しようと思う。

ピックアップする話題は、「チェビシェフ多項式」というものだ。チェビシェフ多項式(詳しくは第1種チェビシェフ多項式)とは、cos(n\theta)cos\thetan多項式で表したときのその多項式のことだ。すなわち、cos(n\theta)=T_n(cos\theta)となるn多項式T_n(x)のこと。

いくつか具体的に書いてみる。

cos(2\theta)=2cos^2(\theta)-1だから、T_2(x)=2x^2-1

cos(3\theta)=4cos^3(\theta)-3cos(\theta)だから、T_3(x)=4x^3-3x

という具合。

実は、このチェビシェフ多項式には、次のような性質が知られている。

「最高次係数が1のn多項式(モニック多項式)f(x)で、-1\leq x \leq 1での|f(x)|の最大値が最小となるのは、\frac{1}{2^{n-1}}T_n(x)である」

実は、これは\frac{1}{4}T_3(x)=x^3-\frac{3}{4}xの場合には、大学受験でときどき出題される有名問題なのだ。ぼくも30年ほど前、予備校の講師をしていた頃、この手の問題を解いて、教えた経験がある。ちなみに、3次の場合は愚直にやっても証明できる(という記憶がある)が、一般次数の場合はちょっとしたトリッキーな工夫が必要になる。その非常に鮮やかな証明は、黒川さんのこの本で読んでほしい。

さて、ここからが面白いのだ。

このチェビシェフ多項式がなんと!オイラー積と深い関係を持っているのである。しかも、ラマヌジャンゼータ関数との関係なのだ。

ラマヌジャンは、\Deltaという保型形式を考えた。具体的には、

\Delta=q(1-q)^{24}(1-q^2)^{24}(1-q^3)^{24}\dots

これをqの(無限次)多項式として展開したものを、

\Delta=\tau(1)q+\tau(2)q^2+\tau(3)q^3+\tau(4)q^4+\dots

と記して、関数\tau(n)を定義する。この\tau(n)から作ったディリクレゼータ関数

\frac{\tau(1)}{1^s}+\frac{\tau(2)}{2^s}+\frac{\tau(3)}{3^s}+\dots

が次のように、全素数の積であるオイラー積で表すことができる。しかも、2次のオイラー積でなのである!

\frac{1}{1-\tau(2)2^{-s}+2^{11-2s}}\frac{1}{1-\tau(3)3^{-s}+3^{11-2s}}\frac{1}{1-\tau(5)5^{-s}+5^{11-2s}}\dots

ここで、変数ss+\frac{1}{2}に置きかえることにより、正規化されたオイラー積が得られる。それは、

\frac{a(1)}{1^s}+\frac{a(2)}{2^s}+\frac{a(3)}{3^s}+\dots

=\frac{1}{1-a(2)2^{-s}+2^{-2s}}\frac{1}{1-a(3)3^{-s}+3^{-2s}}\frac{1}{1-a(5)5^{-s}+5^{-2s}}\dots

となる。ちなみにa(n)=\tau(n)n^{-\frac{11}{2}}である。

同じように、整数係数のn次モニック多項式f(x)に対して、次のようなオイラー積を定義する。

Z^f(s)=\frac{1}{1-f(a(2))2^{-s}+2^{-2s}}\frac{1}{1-f(a(3))3^{-s}+3^{-2s}}\frac{1}{1-f(a(5))5^{-s}+5^{-2s}}\dots

これが、な、なんと、チェビシェフ多項式と結びつき、次のような驚愕の定理が得られる、というのだ。

(定理) 次は同値である。

(1) Z^f(s)複素数全体における有理型関数に解析接続できる。

(2) すべての素数pに対して、次が成り立つ。

1-f(a(p))p^{-s}+p^{-2s}=0ならば、sの実部は0

(要するに、リーマン予想を満たす)

(3)  f(x)=2T_n(\frac{x}{2})

あまりの意外性にのけぞるような定理ではありませんか。(解析接続やリーマン予想については、拙著『素数ほどステキな数はない』でわかりやすく解説してあるので、ご利用くださいませ)。ラマヌジャンオイラー積をモニック多項式で変形したものは、それがリーマン予想を満たすためには、チェビシェフ多項式でなければならないというのだ。

チェビシェフ多項式の特徴付けというのは、前半で紹介したように、「変動幅が小さい」ということだけど、それがリーマン予想の成立にまわりまわって関わってくる、ということなんだろうか。それは、門外漢のぼくにはわからない。それはともかく、しかし、受験数学の常連である関数(多項式)が、超最先端の数論まで跳躍するのは、本当に興味深いことである。受験数学もばかにしてはいけない。

ラマヌジャンの他の業績についても、前掲の拙著で読んでおくんなまし。

 

 

 

 

 

 

 

 

酔いどれ日記25

今夜はブルゴーニュピノノワールを飲んでる。おつまみは柿ピー。

今回は、群論のことを書こう。

最近、群論が楽しくて仕方ない。今読んでいるのは、遠い昔に買っておいた浅野・永尾『群論』岩波全書だ。

この本は、30年以上前に買ったまま、ただただ長い間、本棚で眠っていたものだ。ぼくは学部は数学科だったから、当然、群論の講義を受講したし、大学院受験のために多少の勉強をした。でも当時はま~ったく興味を持つことができなかった。(群論の講義で、唯一記憶に残っているのは、先生がルービックキューブの群の行列表現を黒板に書いてみせたことだけだ。笑)。

それがなぜか今になって、群論をとてつもなく面白いと感じるようになったのだから、人生は摩訶不思議である。

面白いと思うようになった理由は自分でもよくわからないが、あえて探してみると、二つあるように思う。第一は、拙著『完全版 天才ガロアの発想力』技術評論社を執筆している過程で群論を再勉強したこと。ガロアの定理「5次以上の方程式には、四則計算と根号では解けないものがある」を証明するには、「群」は必須アイテムだ。とりわけ、一番の佳境のところで5次対称群(1, 2, 3, 4, 5を並べ替える操作の成す群)の特殊な性質が使われる。それは5次方程式の解の対称性を解明するためだ。それでぼくは、最も素人が理解しやすい道筋を探すために、いろいろな文献にあたったのである。これが、ぼくに、群論を身近にしたと言える。

でも、もっと大きい理由は、ぼくの専門での研究分野が「意思決定理論」という非常にマニアックな分野だ、ということであろうと思われる。とりわけ、ぼくが共同研究者と論文を書いている分野は、集合論組み合わせ論と測度論と順序集合論との合わせ技のようなものなので、とにかく「記号操作」の集大成のようなストイックな分野だ。そういうのを毎日やっているうちに、群論のような抽象的な「記号操作」の嵐を面白いと思う嗜好に変わったのかな、と思うのだ。

 「群」というは、

①つなぐことができる(結合法則)。

②変えないことができる(単位元の存在)。

③もとに戻すことができる(逆元の存在)。

で規定される数学構造のことだ(この表現は、拙著『完全版 天才ガロアの発想力』技術評論社より。詳しくは拙著を読んでくれたまえ)。こんな少ない規定で、複雑な数学構造を生み出し、豊かな定理たちを生み出すのだから、神秘そのものだと言えよう。

さて、そこで先ほどの浅野・永尾『群論』岩波全書だ。この本は、ぼくがこれまで読んだ数々の群論の教科書の中で、最もわかりやすく、そして読むのが楽しくなるように書かれている。どこが他書と一線を画すのかを端的に説明することができないのだけれど、たぶん、「目次立ての順序」、「定理の取捨選択」、「定義や定理を表現する文章」、「定理の証明の方法」、「記号法の選択」などが非常に工夫されているからではないか、と思う。

この本を読むと、群論というのが、上記の①②③という単純な仕組みのものにすぎないのに、実に多くのテーマで研究されていることがわかる。

例えば、部分群を包含関係で並べた列で、各部分群が1つ前の部分群の正規部分群となっており、かつ最後は単位元に到達する列、のことを考える。これには「ジョルダン・ヘルダーの定理」というすばらしい結果が存在する。

あるいは、与えられた群が、その部分群の直積と同型になるかどうか、なども問題として考える。これには、「クルル・レマク・シュミットの定理」という有名定理が存在している。

さらには、「p-シロー群」という発想がある。これは、有限群において要素数素数べきの部分群のことだ。「シローの定理」は、このような部分群の存在を保証してくれる。

フラッチニ部分群なんてものも考え出された。これは与えられた群のすべての極大部分群の共通集合の作る部分群のことだ。これも実に奇妙な群になることが示されている。

ガロア理論に関係するのは、可解群というもので、交換子と呼ばれる元の作る群の列と関係するものだ。そして、これがn次方程式が四則計算とべき根で解けるかどうかに本質的な役割を果たすのだ(これについても拙著参照)。

 この本を読むと、数学者たちがある数学的アイテムに関してどのように研究テーマを見つけるかが、非常にコンパクトにわかると思う。数学の受験勉強をいっぱいやれば、数学の問題を解くことにはかなりな程度熟達するだろう。しかし、それだけでは数学者にはなれまい。数学者になるには、構築されている数学的アイテムに新しいテーマを見つける力が必要だ。それが数学でのクリエイティビティを意味する。そういうことの勘所を作るのにも、本書はかなりリーゾナブルな貢献をしてくれるのではないか、と思う。

最後にいつものように販促をしよう。本書を読む前に、とりあえず、拙著『完全版 天才ガロアの発想力』を読んでおくと、効き目倍増になること請け合いなんだぞ。