酔いどれ日記24

今夜は、シャンパンを飲んでる。BENOIT LAHAYEというの。色がきれいで味もふくよかで美味しい。

 朝日新聞10月12日朝刊の原真人さんの多事奏論の中に、ぼくへのインタビューが挿入された。この記事は、バーナンキノーベル経済学賞受賞に疑義を放ち、さらにはアベノミクス批判につなげて行くものだ。ぼくの発言部分だけ引用すると、以下だ。

経済学者で数学エッセイストの小島寛之帝京大教授は「経済学は物理学で言うならまだニュートン以前の段階」という。ニュートン力学の確立は17世紀後半。経済学は3世紀以上も遅れていることになる。

小島氏によると、経済学には致命的な弱点がある。経済活動が「1回しか起きないこと」の積み重ねだということだ。「だから物理学や化学とちがって実験が難しい。経済の法則にはどうしても仮説性がつきまとう。現実を説明できないことも多い」

これはぼくへの1時間以上の取材をまとめたものだけど、拙著『経済学の思考法』講談社現代新書に書いたことを原さんに口頭で説明したものでもある。この本はちょうど10年前に刊行したものだが、この考えは今も変わらない。経済学はぼくの期待していた学問ではなく、疑似科学とまでは言わないが、ニュートン力学以前の未熟な段階だと思っている。原さんの文章には、ぼくの考えのすべてが含まれるわけではないから、少し補強を行いたい。そのために、拙著『経済学の思考法』講談社現代新書のあとがきの一部をさらすことにする。このあとがきに、当時のぼくの想いのすべてが書かれている。

経済学者の著作のほとんどには、「経済学が現実を説明できている」という大前提が見られる。新聞記事などで経済について語る経済学者もみな自信満々だ。はっきり言って、ぼくにはそういう態度は理解できない。そういう人たちが、本当にそう信じてきって言っているのか、職業的立場からわざとそういうスタンスをとっているのかはわからないが、ぼくの感覚とは大きく異なる。序章で説明したように、現実解析の理論としては、経済学は物理学から数百年分遅れた段階にしかないというのが、ぼくの正直な認識なのである。

(中略)。

数学の論理を同じように用いる科学でありながら、経済学と物理学ではどこがどう異なっているだろうか。最も重要な違いは、「法則の正しさ」の検証に関して、物理学は特有の方法論を完成させているが、経済学はそうではない、ということであろう。経済学が「数学モデル」と「データによる検証」を備えたので物理学と同じ水準になった、と信じている人がいるようだが、それは大きな勘違いである。 

物理学のそれぞれの法則は、「数学の論理による演繹」と「データによる検証」だけを支えにしているわけではない。もっと大切なことがあるのだ。それは、さまざまな法則が、相互に関連しあう「網目構造」を形成しており、その「網目構造」が法則の正しさを堅固に支えている、ということである。

物理学には、力学のニュートンの方程式、電磁気学のマックスウェルの方程式、熱力学のクラウジウスの原理、統計力学のボルツマンの原理、量子力学シュレジンガー方程式、相対性理論アインシュタインの原理など、たくさんの方程式や原理がある。大事なのは、それらの法則が、単に個々に孤立した実験によって確かめられているばかりではなく、緊密に連関しあっている、ということなのだ。複数の法則を組み合わせると、特有の物理現象を説明できたり予言できたりする。さらにそれらの現象が、実験で検証される。ニュートン力学電磁気学の重なりの現象、電磁気学量子力学の重なりの現象、量子力学相対性理論の重なりの現象、みたいな具合で、多くの原理が重なりの現象を持ち、それらが複雑な網目模様を構成しているのである。

このような網目構造の利点は何か。それは、一度打ち立てられた法則は、簡単には覆せない、ということだ。例えば、今年2012年に、「ニュートリノは光速を超えている」という実験結果が報告され、相対性理論が間違っている可能性が指摘されて話題となった。しかし、多くの物理学者はこの実験結果を簡単に信じることをしなかった。実験の条件に何か見落としがあるに違いないと考えた。その理由はこういうことだ。「物質の運動は光速を超えることはできない」という相対性理論の結果は、他の分野の法則と絡めることで、あまりにたくさんの事実を説明できる。もしも相対性理論が間違いなら、それらの事実はみな崩れ去ってしまう。別の原理で、それらすべてを整合的に説明できる何かがあるというのは、あまりに奇跡のようなことで、まず考えられないのである。だから、「実験が相対性理論を崩した」とは考えず、「実験自体に間違いがある」と信じたのだ。

他方、経済学のほうは、「数学の論理による演繹」と、多少の「データによる検証」を備えているが、残念ながら、物理学のような網目構造を持っていない。だから、物理学の法則たちが備えている頑強な真理性を持つには至っていないのである。しかし、序章で解説したように、経済学が物理学を模倣することは原理的に無理なのだ。だから、経済学は「物理法則の網目構造」に匹敵する、何か別の固有の原理を見つけなければならないだろう。

 ところで、原さんとこういう議論をしたあと、ぼくは「現代の物理学の前段階」というのが気になってきた。ケプラーニュートン以前の天文学は、「地上から見える星の運行」を円軌道にこだわったまま説明しようとして、理論と合わない部分を、細々した周回円を付け加えて帳尻を合わせようとした。現代の経済学はこういう段階にあるような気がしてならない。

 そんなことを考えていたら、「熱力学の前段階」が気になってきた。最初、熱をつかさどる元素である「熱素」によって説明しようとし、その後、分子の熱運動に切り替えられた。それはどういう経緯をたどったのかが気になって、前から読もうと思っていた山本義隆『熱学思想の史的展開』ちくま学芸文庫を読み始めた。そしたら、これがものすごく面白く、ものすごくためになるのだ。

この本は、熱力学完成までの物理学史を綿密にたどる膨大な本だが、物理思想の書でもあり、17世紀から20世紀にかけてのたくさんの物理学者たちの伝記でもあり、さらにはこの時代の歴史書でもある。山本先生の博学が炸裂している。

この本によれば、熱現象は長い間、「熱素」という特殊な物質によるものと考えられていた。さまざまな現象がこの説でうまく説明されてしまうからだ。熱現象が、機械論的・運動論的なものであるとわかるまで、ものすごい紆余曲折があったのである。3巻組みの本書の2巻の半分ぐらいまでしか読めていないので、そこまでの感想をしたためることにする。

17世紀から18世紀にかけてさまざまな現象が発見され、さまざまな実験が行われ、それらが錯綜しながら「熱素説」が組み上がっていく風景は実に興味深い。中でもとても面白かったのは、かのニュートンがみごとに「間違った理論」を構築したくだりだった。

ニュートンは、熱現象の背後に「粒子間の斥力」があると考えた。それは、「ボイルの法則」と呼ばれる「圧力と体積の積は一定(PV=const)」から来たものだ。簡単なわりに面白いので、山本先生の本の内容をかいつまむことにする。

1辺がlの立方体(体積V=l^3)の中に気体があるとする。これを1辺がl^{'}の立方体(体積V^{'}={l^{'}}^3)に縮める。このとき、粒子間の距離も同じ割合で、すなわち、rからr^{'}へ減少するから、r^{'}/r=l^{'}/lとなる。他方、粒子間斥力をそれぞれ、f(r), f(r^{'})と記す。また、面の受ける圧力をそれぞれP, P{'}とする。立方体のひとつの面に接する粒子数Nは不変だから、壁面のうける力はそれぞれ、Nf(r)=P l^2, Nf(r{'})=P^{'} {l^{'}}^2となる。これより、

\frac{f(r)}{f(r{'})}=\frac{P l^2}{P^{'} {l^{'}}^2}=\frac{PV}{{P^{'}}V^{'}}\frac{l^{'}}{l}=\frac{PV}{{P^{'}}V^{'}}\frac{r^{'}}{r}

から、「PV=constとf(r)\frac{1}{r}に比例することが同値」とわかる。「ボイルの法則」が実験でわかっていることを受けて、ニュートンは、「粒子間の斥力が\frac{1}{r}に比例する」と考えたわけだ。そして、これを逆手にとって、圧力という熱現象を粒子間の斥力から来るものと推測した。このことは、気体の熱膨張などいろいろな現象と整合的でもある。

ところがのちに、空気中の音速を求めることにこの「粒子間の斥力」を応用したニュートンは、計算が実測と合わないことに直面した。けれども、細かい恣意的な修正をほどこすことで、つじつまを合わせてしまったのである。

この例で、何が言いたいかと言うと、「ある計算が現実を説明できたからと言って、その計算の背後にある原理が真理であるとは言えない」ということだ。単なる「偶然の一致」でしかないことも十分にありうる。物理学は丹念にそういう「こじつけ」を排除していったが、経済学はいまだに「恣意的な修正によるこじつけ」を繰り返しているように見える。でもそれはある意味、しょうがないとも言える。それは経済社会のできごとは一回性のものであり、実験がままならないからである。

 山本先生の本は、2巻の真ん中でやっと、「運動」が「熱」に変わることを検証したラムフォードとジュール、そして、熱機関を考察したカルノーとワットにたどり着いた。ここから熱思想がどう転換して行くのか、わくわくしている。

 最後に、途中で出てきた我が本を販促しておく。↓

 

 

 

 

 

酔いどれ日記23

今夜はブルゴーニュピノノワールを飲んでる。LA Mountonniereというの。高価じゃないけど、なかなかの味わいだ。

今回はまず、最近ハマっているライブ映像について話そう。

それは、ずとまよ(ずっと真夜中でいいのに)のライブ・ブルーレイ「鷹は飢えても踊り忘れず」だ。これは、ずとまよが今年の4月に埼玉スーパーアリーナで2日間行ったライブを2枚のブルーレイに収めたもの。

いやあ、このライブはいろいろな面であまりにすごい。まず、舞台のセットがとんでもない美術だ。いつものようにボーカルのACAねさんの顔が見えない演出になっているけど、美術のすごさでそれが気にならない。しかもだ!なんと2日目は1日目とは舞台美術が変わっており、百年経過した、と言う体になっている。スタッフさんは一晩で設営したわけだから大変だったろう。

次にのけぞるは、サポートミュージシャンの豊富さ(大所帯)だ。ストリングスが入っているのは前のライブでもそうだったが、今回はホーン隊も投入されている。それも驚きなんだけど、もっと驚くのはツイン・ドラムであること!「ずとまよ、ついにやっちまったか」となった。もうこれは、ザッパというよりキング・クリムゾンだね。まあ、現在のクリムゾンはトリプル・ドラムだから、ACAねさん、つぎは3器でお願い。

さらに挙げたいのは、レトロなアイテムを使っていること。例えば、舞台に公衆電話ボックスがあって、しかも電話はダイヤル式だ。ACAねさんは途中で、この電話ボックスに入って、ダイヤルをまわして、受話器をもって歌うんだわ。すごすぎる。彼女はレトロなものがとても好きで、別のライブではオープンリールのレコーダーを使って演奏したりしてる。もしかすると、今の20代は70年代ぐらいのレトロに「幻想の郷愁」を抱いているのかもしれない。

ぼくが最も感動したのは、2日目のオープニングの曲で、ACAねさんが泣き崩れて歌えなくなってしまったシーン。ボーカリストが泣き崩れるのはさ、普通は、「初めての武道館公演の最終日のアンコール曲」なんすよ。YUIしかり、Aimerしかり、YOASOBIのイクラさんしかり。でも、ACAねさんは埼玉スーパーアリーナであることはさておき、オープニング曲だからね。まあ、どうしてそうなったかは、ブルーレイを買って知ってね。裏音声でACAねさんが理由をしゃべってるから。

 と、ここで終わっては、このブログらしくないので、(とってつけたように)経済学の本を一冊紹介しておく。それは津川友介『世界一わかりやすい「医療政策」の教科書』医学書だ。

著者の津川さんは医学部を卒業した医師で、その後、ハーバードで「医療政策学」を研究して博士号を得た人だ。医学と経済学の両方に通じている。

ぼくがこの本を読もうと思ったのは、言うまでもなく宇沢先生の「社会的共通資本の理論」を研究しているからに他ならない。医療は、宇沢先生が「制度資本」と呼ぶ非常に重要な社会的共通資本だ。

医療政策とか医療経済の本はあまり読んだことがないんだけど、ぼくが読んだ範囲では、感心できた本は一冊もなかった。だいたいが、細かい制度調査の羅列みたいな本で、科学的でも経済学的でもなかった。高校の社会科の教科書のように退屈極まりないしろものだった。でもこの本は本当にすばらしい内容だ。この本の特徴を箇条書きにすると、

1. 比較的新しい経済理論を使って医療を分析している。

2. 科学的エビデンスをきちんと提出し、出所も明記している。

3. 非常に多くの分野からのアプローチを導入している。

4.無駄に読解しにくい経済モデルなんかを書かず、非常にわかりやすく言葉で説明している。

という感じだ。

まず、1については、例えば、「情報の非対称性」という経済理論におけるモラル・ハザードとか逆選択から説明したり、契約理論におけるプリンシパル・エージェントモデルを援用したりしている。

2については、第1章:医療経済学、第2章:統計学、第3章:政治学、第4章:決断科学、第5章:医療経営学、第6章:医療倫理学、第7章:医療社会学、第8章:オバマケアからトランプケアへ、といった多彩ぶりだ。とくに、第6章でロールズが出てくるのは感涙ものだった。

3については、さまざまな統計データや実験結果がきちんとした評価の上で解説されている。例えば、医療需要の価格弾力性(医療の自己負担が1%増えると、医療の利用が何%減るか)の測定とか、実証研究で流行りの回帰不連続デザインとか。

ぼくは先日の京大での社会的共通資本の理論シンポジウムで、この本からの引用を行った。それは、医療というのを財・サービスと見なしたとき、通常の財・サービスとどう違うか、という点の説明だ。例えば、「病気の多くは予測不能なので、じっくり考えて、周りの人に相談して、慎重に病院を選択することができない」とか、「痛みや呼吸苦があると、冷静な判断ができない」とか、「時間的猶予がないから、遠くの病院を選択できない」とか。これらの特徴を考えて、この財・サービスがチョコレートやハンバーガーやスポーツジムのような財・サービスと同じものだと考える人はいないだろう。医療は、このように他の財・サービスと大きく性質が異なるから制度資本に分類されるのである。

ぼくが本書で最も感動し、共鳴したのは、最後のオバマ・ケアに関する章だ。ここでは、オバマ氏が大統領時代に行ったオバマ・ケア(医療保険制度の整備)とそれを崩そうとするトランプ前大統領のバトルのことをつぶさに分析している。法制度上のバトルである。トランプ氏は、上院で50票を集めることで「財政調整」というものを実行して、オバマケアを実質的に撤廃させようとした。しかし、それは可決されずに失敗に終わったのだ。なぜなら、2名の共和党員が造反して反対票を投じたからだ。そのうち一人は、2週間前に脳腫瘍の手術を受けたばかりの重鎮議員だった。この点だけでも、医療というものが他の財・サービスと決定的に異なる性質のものであることが実感できる。そして、「結局は政治がすべてなんだ」ということも、(経済学者としてむなしく)痛感する。

 最後に、我が教科書を販促するね。単に、タイトルの枕ことばが同じというだけ(笑い)。

 

読むだけでわかる代数幾何の本

今回は久々に数学のことをエントリーしよう。

いろいろわけあって、いま、40年ぶりに代数幾何の勉強をしている。このことは、以前にも、今頃になって、なんでか代数幾何が面白いでエントリーしたので読んでほしい。あるいは、かなり昔のエントリーだが、数学って「思想」なんだよな、も少しだけ関係があるので読んでほしい。

今回紹介するのは、永井保成『代数幾何学入門 代数学の基礎を出発点として』森北出版だ。この本を評すなら、「読むだけでわかる代数幾何の本」ということになる。え?あたりまえじゃないかって? いやあ、そうじゃないんだな、代数幾何の本に限っては。他のほとんどの代数幾何学の本は、「読んで教えてもらわないとわからない」とか、「読んで考え込まないとわからない」とか、「読んで調べないとわからない」とか、「読んで知ってることじゃないとわからない(笑)」とか「読んで生まれ変わらないとわからない(涙)」という類いの本ばかりなんだよ、まじに。そういう意味で、「読むだけでわかる」本書は、ほんとに希有な教科書だと思う。

この本が「読むだけでわかる」のは、著者がいろいろな親切な工夫をほどこしているからだ。箇条書きをすると以下のようになる。

1. 各章がそれぞれすごく短いので、わからなくなる前にひとつの話題が終了する。(そのせいで、なんと、21章もある)。

2. 何のためにそんな概念を考えるのかをいちいち自然言語で説明してくれている。

3. 証明中の、素通りしてはいけない大事な条件や仮定や式変形方法について、わざわざアンダーラインを引いて、読み飛ばさないよう、注意を喚起してくれている。

4. 非常に適切にして試金石になる例が紹介されている。

5. 遠大な道のりが必要な定理を主役とせず、面白い定理ながら短い道のりで到達できるものを主役として選んでいる。

こういう数学書はあるようでそんなにない。もし、本書が講義を原稿化したものなら、きっとすばらしくわかりやすい親切な講義だと思うし、ダイレクトに本で書いたなら、ものすごくよく構成を考えた上で執筆したのだと思う。どちらにしても絶賛ものである。

内容について、ちょっとだけ触れるけど、もうしわけないが、まだ第6章から第10章の5章分を読んだ程度の段階なので、それを前提に読んでほしい。

もともとは別の本で「座標環(多項式環を方程式の生成するイデアルで割った商集合)」を勉強していて、いまいち曖昧模糊として掴めない感があって、この本の第6章にあたってみたのがきっかけであった。それがめちゃめちゃわかりやすかったので、続きの章も読んでいくうち、ついつい面白くて、第10章まで読んでしまったのである。

これらの章だけでも、ぼくが最も興味のある数論に役立つアイテムがてんこもりだった。

まず、第7章の「加群」の章では、ネーター環の解説と「ヒルベルトの基底定理」の証明が紹介されているんだけど、そのついでとして、「完全系列」についても解説される。完全系列というのは、加群(でも環でも群でもいい) A, B, C準同型写像 f, gが作る図式、0\rightarrow  A \rightarrow (f) \rightarrow B \rightarrow (g)  \rightarrow C  \rightarrow 0について、 f単射 fによるAの像と gによる0の逆像が等しい( f(A)=g^{-1}(0))、g全射が成り立つものである(もっと長い列の場合は、ひとつ前の準同型の像と次の準同型の核が等しい、という条件を加えていけばよい)。たぶん、完全系列に慣れてもらおうという魂胆だと思うのだが、完全系列についての「5項補題」と「へび補題」のすごくわかりやすい記述の証明が投入されている。

完全系列は現代の多くの数学で使われる道具なんだけど、どの教科書でも、それがどんなふうに役に立つのかは、かなり先のほうまで読まないとわからないようになっているから、初学者はイライラしてしまう。でも、この本では、この7章自身の最後にちょっとした応用が書かれていて、10章(といってもたったの40ページ先)に応用が出てくるから嬉しい。

次の第8章は、「有限群の表現」という章。これは、有限群から行列の乗法群への準同型写像のことをいう。要するに、群演算の仕組みを行列のかけ算に写し取るわけなんだね。例えば、置換群(n個の対象を入れ替える操作の作る群)の場合、その表現は、n \times n行列の各行・各列に1個だけ1があるような行列たちの乗法群となる。

「群の表現」は、ゼータ関数に関係する数学(とりわけ、保型形式と楕円関数のゼータ対応)に関係するので、初歩ぐらいは知っておきたいアイテムだった。本書では、たったの5ページで解説が終わるからありがたい。それでも「Maschkeの定理」というステキな定理が証明される。

この「群の表現」を紹介しているのは、次の9章から「不変式論」を展開するためだ。不変式というのは、高校数学(というか受験数学)でおなじみの「対称式」を思い起こせば良い。対称式というのは、変数の入れ替えを行っても不変であるような式のこと。3変数の場合の例として、x^3+y^3+z^3のような式のこと。3変数の対称式は、かならず3つの基本対称式x+y+z, xy+yz+zx, xyz多項式で表現できることが知られているんだけど、この章ではその一般化を議論している。「ああ、この話はこういうふうに一般化するのか」と感心した。数学的な定理の証明を考えるのも重要な仕事なのだろうけど、定番となった理論をどうやったら一般化できるのか、その仕組みを作りあげることも才能のいる仕事だと身にしみた。この第9章のメインディッシュは、「ヒルベルト有限生成定理」というやつで、「有限群の表現から定まる不変式環は有限生成である」というすんごい定理だ。感激。

そして、第10章はいよいよ、「次数環とHilbert-Poincare級数」に突入する。「次数環」というのは、ぼくにとって初耳の環の概念だった。「次数環」とは、ようするに、多変数の多項式のなす環みたいな環だと想像すればよい。どんな多項式も、定数+1次単項式+2次単項式+・・・、のように次数別の和で表現できる。このように、環の要素が「適当な次数のついた部分環」の各要素の和で表せるような環を次数環と呼ぶみたいだ。この章では、次数環に対して「次数の拡張」にあたるものである「ヒルベルト-ポワンカレ級数」というのを定義し、その式を特定するのが目標である。そして、その証明のポイントになるのが、第7章で準備した完全系列だというわけなのだ。実によく伏線を張った展開だと思う。

代数幾何の教科書というのは、(ぼくの知っている範囲で)おおまかに言って、「代数曲線論」「リーマン面の理論」「可換環論」「スキーム論」というふうに分類できると思うけど、本書はフレーバーとしては「可換環論」かな、と思う。ぼくは、40年ぐらい前に、大学院を受験するためにしぶしぶ可換環論を勉強したけど、その抽象性と無味乾燥な内容に辟易としてちっとも理解できなかった経験を持つ。でも、本書を読んで、「ああ、もしかして、可換環論も面白いものがあるのかも」と感じる部分もあったから不思議だ。人生、どう転ぶかわからない。

 最後に一応、自著の販促をさせておくんなまし。置換群とか対称式とかについては、拙著『完全版 天才ガロアの発想力』技術評論社をどうぞ。あと、素人が代数幾何を勉強する場合、いきなりプールに飛び込むのは危険なので、「準備運動」の本として拙著『数学は世界をこう見るPHP新書をどうぞ。

 

 

 

 

酔いどれ日記22

前回から、だいぶ間があいてしまった。今夜は、サンテミリオンのClarendelleという赤ワインを飲んでる。サンテミリオンはもともと好きな産地だけど、このワインもコスパの点で良い。

 先日、アマゾン・プライムで映画「コーダ あいのうた」を観た。これは、聾唖の両親のもとに生まれた健常の子供(Codaと呼ばれる)が背負う苦労を描いた物語だ。コーダを扱ったドラマとしては、NHKのドラマ「しずかちゃんとパパ」のことを酔いどれ日記18で紹介した。たぶん、このドラマは「コーダ あいのうた」を参考に作られたものだと思う。「しずかちゃんとパパ」も良かったんだけど、「コーダ あいのうた」ははるかにそれを凌駕するすばらしさだった。まあ、アカデミー賞を作品賞を含め3部門も受賞したんだから当然ではある。

シナリオの完璧さもさることながら、(聾唖の両親の間に生まれながら)音大を目指す主人公が歌う曲がめちゃめちゃツボなのだ。デビッドボーイもジョニ・ミッチェルもぼくの青春の歌手だもんね(ジョニ・ミッチェルの映像は、前回の酔いどれ日記21でリンクを貼ったから、観てね)。

この映画がツボなのは、ガス・ヴァン・サント監督の「グッド・ウィル・ハンティング」とか「小説家を見つけたら」というアメリカのリベラルな「希望と夢」を描いた作品を彷彿とさせるからなんだな。

まあ、いろいろ御託を並べてきたけど、結局、「コーダ あいのうた」の魅力は、主人公の女子高生のかわいさに尽きる。ほんとにかわいい。

 さて、ここからはおまけね。

ぼくは最近、宇沢弘文先生の「社会的共通資本の理論」を進化させるために、いろいろと勉強をしている。その一環として、サミュエル・ボウルズ『不平等と再分配の新しい経済学』大月書店を読んでる。

これを読み始めたのは、ボウルズが宇沢先生の初期のお弟子さんだったからだ。その上、ぼくの経済学事始めが、ボウルズとギンタスの『アメリカ資本主義と学校教育』岩波書店だったからだ。でも、『不平等と再分配の新しい経済学』を読んで、そういう懐古趣味とは違う衝撃を受けた。それは、この本には社会的共通資本の理論を推し進めるためのアイデアが満載だからだ。

まだ、2章までしか読んでいないんだけど、とりあえず、そこまでのことを(酔いどれながら)紹介しよう。

この本の趣旨を一言で言えば、「平等と効率がトレードオフの関係にある」というのが俗説あるいは神話だ、ということだ。平等化は経済の効率性を妨げる、というのは常識のように言われているけど、そんなのは根拠のないデマだ、ということをあの手この手で論証していく。

例えば、実証的根拠の一つとして、Moriguchi and Saez(2008, REStat)を挙げている。ぼくも、すごく気になったので、この論文を今日読んだところ。これは、日本が戦前はひどい不平等社会でありながら、戦中に(戦争におけるさまざまな理由によって)平等化が促進され、さらに進駐軍の政策やその後の土地所有制度・税制改革の結果として、大きく平等化し、その一方で大きな経済成長を遂げたことを実証した論文だ。平等化と経済成長は両立し得る、それどころか、平等化は経済を成長させるとまでいいたげである。

第2章でボウルズは、自分の主張を「資産制約」の問題で正当化している。資産制約とは、金融市場が完備でないため(取引主体に情報の差があるため)、低資産者に借り入れの制約が課されることを言う。ボウルズは、資産制約が富の産出を減少させる、というモデルを利用して、平等化(低資産者の資産を増加させる施策)が資産制約を減じ、マクロの意味で富を増加させることを主張するのである。

とても驚いたのは、この主張をモデル化するのに、「契約理論」(プリンシパル・エージェント・モデル)を援用していることだ。このモデルは、1人のプリンシパル(雇用者)と1人のエージェント(被雇用者)が「契約事項」を書いて契約をすることで、どんな生産とどんな分配が実現するかを記述するもの。ぼくは大学院のときに講義で教わって、それ以来ほとんど接触していないジャンルだった。大学院のときは、数学的な仕組みとしては面白いものの、経済学的にはあまり興味を持てないものだった。(学会でもときどき報告を聞いたけど、そのモデルの複雑さに理解が追いつかなかったものだった)。そのときは、まさか「平等化の根拠」に使えるなど夢にも思わなかった。ボウルズの論証を読んで、自分が大きな見落としをしていたことに気がつかされた。大事なのは「アンテナ」と「感受性」だなと思い知らされた次第。

ボウルズがどんなプリンシパル・エージェント・モデルを使ったかは、機会があれば、(酔いどれでないときに)、紹介しようと思う。

 

 

 

酔いどれ日記21

今夜のワインは、Massaiという赤ワイン。値段のわりには複雑な味わいがある。久々に音楽のことを書こう。

最近、ヨルシカのライブ映像『月光』を観た。これは、今年の3月に行われたライブを収録したもの。あまりのすばらしさにもう10回以上観ている。水族館で行ったライブ映像『前世』も良かったが、ストリングス中心の『前世』よりも、演奏がハードなこの『月光』のほうが好きだ。

何がすばらしいって、ライブが一つの物語になっている。n-bunaさんのモノローグを挟みながら、アルバム『だから僕は音楽を辞めた』とアルバム『エルマ』の曲をつないでひとつの物語として構成していく。こんなライブ、観たことない。ライブの概念を完全に突き破っている。言ってみれば、踊りのないミュージカル、演技のない演劇、会話のない映画、という風情だ。歴史に残る作品だと思う。

物語は、「僕」がエルマという女の子に贈る詩と手紙を綴るための「旅」。ボーカルのsuisさんは、フォルムとしてはエルマを体現しながら、「僕」の物語を歌い綴っていく。その二重性があまりにすばらしい。n-bunaさんのモノローグも感涙もので、彼はいつか文学賞を受賞しちゃうんじゃないか、とさえ予感してしまう。

あと、最近はまっているのは、YOASOBIのベーシストやまもとひかるさんがyoutubeにアップロードしているベースコピーの映像だ。YOASOBIの「夜に駆ける」のベース演奏を聴いて、めっちゃすげえな、と思って彼女のyoutubeを観てのけぞってしまった。めっちゃ巧いし、何よりかわいい(笑)。

例えば↓

https://www.youtube.com/watch?v=7lW1nvinVag

あるいはこれ↓

https://www.youtube.com/watch?v=c_3xd9tNDSc

彼女のベースコピーを観てると、ベースという楽器の魅力がわかる。ひかるちゃんには、いずれジャコ・パストリアスみたいなベーシストになってほしい。ついでだから、ジャコのプレイもリンクをはっておこう。ジャコの演奏ではウェザーリポートのものが有名だけど、ぼくはジョニー・ミッチェルのサポートのときの演奏が好きだ。例えば、次の2曲。マイケル・ブレッカーパット・メセニーも加わってて、あまりの豪華メンバーだ。

https://www.youtube.com/watch?v=JnpyCEUESEw

https://www.youtube.com/watch?v=IbkKFDHmTik

ひかるちゃんは、きっとこういうベースに到達するに違いない(決めつけ)。

 さて、これで終わったら、ぼくが何の人かわからないので、経済学のこともちょっとだけ書くことにする。

前回と前々回に宣伝したように、先週ぼくは、京都大学での『社会的共通資本と未来』というシンポジウムに登壇した。さまざまな角度から社会的共通資本にアプローチする実り豊かなシンポジウムになったと思う。

ぼくの報告は、経済学の立場から社会的共通資本を総合的に分析するものだった。その中にぼくは、「現在の経済理論はどこがダメか」という議論を差し挟んだ。宇沢先生によって経済学に目覚めさせられ、思いあふれて大学院で専門的な訓練を受け、いくつかの論文も公刊した上で、たどりついた問題意識がこれだった。

議論の一つにぼくは、「経済学がニュートン力学を模倣していること」を挙げた。ワルラス一般均衡理論は、まるで「質点の力学」とそっくりだと思ったからだ。だけど、ニュートン力学は、その創造において、ティコ・ブラーエとケプラーの膨大な天文観測データをバックボーンにしている。つまり、「生の現実」を出発点にしている。それに対して、一般均衡理論の創造にはそのようなバックボーンはなかった。そういう意味で、出発点においてまったくダメダメだと思うのだ。

ぼくは、ワルラス一般均衡理論がニュートン力学を模倣している、という確信はあったが、証拠はもっていなかった。ただの「自信のある憶測」だった。そこで、ちょっと前に入手した重田園江『ホモ・エコノミクスちくま新書を満を持して読んでみた。ホモ・エコノミクスというのは「合理的経済人」のことで、自己の利益を執拗に合理性をもって追求する経済主体のことをいう。この本は、このホモ・エコノミクスという言葉や概念がどういうふうに成立したかを追う思想史の本だ。

 

予感が当たって、この本には、ワルラス一般均衡理論をどうやって発想したかが掘り起こしてあった。思った通り、ワルラスニュートン力学を模倣したそうなのである。引用しよう。

ミロウスキーの『光と熱』によると、ワルラス1860年にすでに、経済現象を物理学の法則を用いて表現することに関心を持っていたようだ。このとき、ワルラスの構想は、ニュートン万有引力の法則の単純な当てはめだった。それは「商品の価格は供給量に反比例し需要量に比例する」というものだった。

やっぱりそうか、と溜飲が下がった。ぼくの経済理論批判は根拠を得たように思う。

実は、著者の重田さんとは面識がある。ぼくが、30代後半で大学院に入学した頃、駒場で院生によって行われていたセミナーに参加させてもらったのだが、その中に重田さんもいた。そのセミナーは科学哲学の専門家、日本思想史の専門家、経済学説史の専門家などバラエティに富んだメンバーで構成され、重田さんはフランス哲学の専門家だった。

そのセミナーでは、確率・統計の思想的背景について輪読をした。イアン・ハッキングの著作を読み込んだ。このセミナーがぼくのその後の著作や研究に決定的な方向性を与えることになったのだった。

重田さんは、当時から非常にディープで綿密な読み込みをしていた。本書にも彼女のそのマニアックな特徴がいい意味で活かされている。非常に執拗に、非常に厳密に、経済学説史を掘り起こし、網羅的に解説している。研究というより、「蒐集」と評したいぐらいだ。われわれ経済学者には、垂涎の本だと言える。ただ一つ、苦言を呈するなら、(セミナー当時からそうだったが)数学に対するひどいアレルギーはそろそろ払拭してほしい。本書にもところどころに弁明が書かれている。めちゃめちゃクレバーな人なんだから、数学も勉強してみればなんてことないんだとわかると思うんだけど。

 奇遇なことにも、この本の編集者はぼくが刊行した3冊のちくま新書の編集者と同一人物なのだ。世の中、広いようで狭いね。まあ、鼻がきく編集者だということなんだと思う(自画自賛)。

 一般均衡にちょっとだけでも関係あるぼくの本は一冊だけある。これ↓

 

 

 

 

 

京都大学寄付講座のシンポジウムに登壇します。

前回エントリーした通り、創設された「社会的共通資本と未来寄附研究部門」のシンポジウムに登壇することになりました。申し込みは、

 

www.kyoto-u.ac.jp

 

のホームページから出来ます。あるいは、直で下のリンクから申し込みできます。

『社会的共通資本と未来』寄付研究部門創設記念シンポジウム参加申し込み

 

プログラムは、以下のようになっています。

オープニングトーク  

「創設を祝して」久能祐子(京都大学 理事)
「社会的共通資本とは」占部まり(宇沢国際学館代表取締役

基調講演

「協生農法と拡張生態系 〜自然-社会共通資本のビジョンと本研究部門の方法序説
舩橋真俊(京都大学人と社会の未来研究院特定教授(社会的共通資本と未来寄附研究部門)) 

講演1

「経済学からみる社会的共通資本」
小島寛之帝京大学経済学部 教授)

講演2

「ポスト資本主義のビジョン」
広井良典京都大学人と社会の未来研究院 教授) 

講演3

「寄附と利他行動の未来」
渡邉文隆(信州大学社会基盤研究所 特任講師/京都大学経営管理教育部博士後期課程)

パネルディスカッション

「理論と実装の両輪の意義」 
 ファシリテート:占部まり(宇沢国際学館代表取締役

閉会の挨拶

宇佐美文理(京都大学副学長/人と社会の未来研究院長/文学研究科教授)

このシンポジウムでぼくは、宇沢先生の社会的共通資本の理論に対して、要約や概説ではなく、未来の方向性(可能性)を示唆する講演を試みたいと思う。それは、当然、経済学の現状に対する批判ともなるし、そして、経済学の枠を超えたインターディシプリナリーな方法論を宣言することになると思う。現在ぼくの考えていることのありったけを詰め込むつもりだ。是非ともオンラインで参加していただきたい。

以前、拙著『宇沢弘文の数学』青土社にもその一端を書いたけど、それをさらにブラッシュアップした内容になると思う。(だから買って前もって読んでおいてね。笑)。

 

 

 

国際経済の方程式

 まず最初に、ぼくが登壇予定のシンポジウムの宣伝をしよう。

 

『社会的共通資本と未来』寄附研究部門開講記念シンポジウム    

(タイトル)社会的共通資本のあり方とその未来を考える

(開催概要)2022年7月23日土曜日 13~17時

(開催場所) 京都大学稲盛財団記念館 および オンライン 

 

これは、今年、京都大学に創設された宇沢先生の社会的共通資本の理論に関する寄付講座の開講記念のシンポジウム。詳しいことは、プログラムと聴講の申し込み方法が確定したらここにエントリーしたいと思う。ふるってご参加いただきたい。 

 さて今回は、以前のエントリー、資本主義の方程式およびケインズ消費関数のどこが間違いかに続いて、再度、小野善康『資本主義の方程式』中公新書を紹介したい。したがって、これを読む前に、リンクを貼った2つのエントリーを読んでおいてほしい。

小野さんのこの本の大きなウリは、国際経済学の解説が導入されていることだ。小野さんは、これまでも数冊、国際経済学の解説書を上梓してきたけど(例えば、『景気と国際金融』岩波新書)、不況理論の方程式として国際経済バージョンの方程式を提供したのは初めてじゃないかと思う。

本書における小野さんの解説はおおまかには次の3点である。

1. 国際経済でも、基本方程式が小さな修正で成り立つ

2. 成長経済と成熟経済では、成長戦略や経済政策の効果が真逆になる

3. 普及している旧ケインズ経済学のマンデル・フレミング・モデルは根本的に間違っている

 今、日本の世の中ではインフレが取り沙汰されており、連日、テレビで取りあげられ、日銀の金融政策がやり玉にあがっている。1~3について説明する前にまず、この点に関連する小野さんの記述を引用することにしよう。曰く。

成熟経済では、資産選好が消費選好よりも強くなっているため、貨幣供給量が増えても人々は資産を貯めるだけであり、モノの購入を増やそうとはしない。そのため、金融緩和は物価にも経常収支にも何の影響も与えず、円安圧力も生まれない。このような成熟経済での金融緩和の無効性は、第3章で議論した閉鎖経済での結論とも整合的である。

(ちなみに、閉鎖経済とは、貿易を考えない鎖国状態の経済のこと。他方、開放経済が貿易のある経済)。テレビニュースでは、「アメリカの金利が高く、日本の金利が低いため、その金利差から円安になって行く」ってなことをエコノミストがこれみよがしに解説しているけど、小野さんが「それは嘘だぜ」ということを書いている、為替についての説明も引用しよう。

開放経済における景気の動きを考えるとき、為替レートの絶対水準(1ドルが何円か)と変化率(年率何%で変化するか)の働きをはっきり区別する必要がある。(中略)。

為替レートの変化率は、国内資産と外国資産との利子率の違いを埋めるものである。開放経済では、国内外の金融資産を自由に選択できるため、両者の利子率に違いがあれば、不利な資産を有利な資産に交換しようとして、巨額の資産がすぐに動き出す。いま、ドル建て債券の円換算での利子率を考えると、それは、ドル建ての利子率とドル円交換レート(1ドル何円)の変化率(1ドルが円換算で年率何%上がっていくか)の合計となる。この値が、世界中の投資家の資産選択行動によって、円建て債券の円建ての利子率と一致するように、為替レートの変化率が決まる。つまり、為替レートの変化率は、2つの通貨建て利子率の差をカバーしている。

これは小野さんの個人的主張ではなく、国際経済学の教科書なら必ず書いてあるロジックだ。このロジックを現状にあてはめるなら、「今現在、アメリカの金利が高く日本の金利が低いから、これから円安になっていく」というのは間違いということになる。なぜなら、円で貯蓄すると金利が低くおまけに円安になって減価するというのが本当なら、誰も円など保有しなくなる。それでは円を売ってドルを買いたい人に対して円をドルで買ってあげる人など誰もいなくなるはず。それでは為替取引が成立しない。円をドルで買う人がちゃんと存在するのは、「これから円が高くなる」と推論している人が(逆の推論の人と同数)いるからに他ならない。そういう意味で、均衡では、円保有はドル保有と無差別になるということなのだ。

 さて、それでは国際経済の基本方程式を紹介しよう。そのためにまず、「国民所得と総需要の関係式」を作る必要がある。それは、

 経常収支=rb^*+y-(c+g+i)=0

という式だ。ここで、b^*は対外純資産を表す(外国人が日本の資産を保有している分はマイナスとカウントする)。したがって、それに実質利子率rを掛けたrb^*が「所得収支」になる(利子・配当純取引)。一方、y国内総生産c+g+iは消費需要cと政府需要gと投資需要iの和であり総需要にあたる。したがって、y-(c+g+i)は貿易収支(輸出-輸入)にあたる。この値がプラスなら、生産物から総需要を取り除いても余りが出るから、それは輸出が輸入を超過する分になり、マイナスなら逆になる。

小野さんは、この式を「経常収支=0」という等式にしている。それは、経常収支がプラス(黒字)なら、円高の方向に為替レートの調整が生じ、経常収支が0になるまでそれが続くからである。つまり、この式は、瞬間瞬間で成り立つものではなく、為替レートの調整後の「市場均衡」下で成り立つ式ということだ。この等式から、結局、

 y=c+g+i-rb^*

という等式が導かれる。その上で、基本方程式は閉鎖経済の場合と同じで、

\bar{\delta}(c)=\rho+\pi where \pi=\alpha(\frac{y-y^f}{y^f})

となる。詳しくは、資本主義の方程式のエントリーを参照してほしいが、\rhoは「時間選好率」(消費を先延ばしにするときのご褒美分)、 \piは「インフレ率」。そして、\bar{\delta}(c)は「資産プレミアム」(資産を保有することによって得られる効用)。これは普通、資産保有額にも依存するが、成熟経済では資産には無反応になると仮定される。y^fは供給能力(完全雇用で達成できる生産水準)。これと現実の総需要yの開きに応じて、デフレやインフレが起きることを表すのがwhere以下の式の意味だ。

したがって、消費関数は、 y=c+g+i-rb^*の制約の下で、\bar{\delta}(c)=\rho+\alpha(\frac{y-y^f}{y^f})cについて解けばよい。詳しくは、ケインズ消費関数のどこが間違いかを読んでほしいが、y=c(y;y^f)+i+g-rb^*が45°線と交わるところ(ケインジアンクロス)を求めればよい。閉鎖経済と異なるのは、-rb^*の存在だけだ。

したがって、政府支出gを増やすと直線が上方にシフトするので、総需要は増加し、国内総生産は増加する。「財政政策が景気に効く」ということが結論できる。これはマンデル・フレミング・モデルと真逆の結論となっている。

 さらに、小野さんはこの基本方程式を使って、「国内企業が生産性を向上させると、かえって景気を悪化させる」という一見パラドキシカルな結論を導いている。「成長戦略」なんて逆効果だ、ということだ。言葉で説明している部分を引用しよう。

成熟経済なら、すでの消費が十分に大きく、資産選好が強くなって消費意欲が下がっているから、消費が伸びず、生産の増加分がそのまま経常収支に積み上がって、過度な黒字化が起こる。これは円高を呼び、自国製品の国際価格が上昇する。円高は、自国製品の国際価格を以前の水準にまで押し上げ、海外需要をもとの水準に引き下げるまでなっても、まだ終わらない。その理由は同じ量を作っても生産性上昇で雇用が以前より減っているため、デフレが以前より悪化し、それが国内消費を低く抑えて国内製品への総需要が以前より下がり、経常収支の黒字が残ってしまうからである。そのため、円高がさらに進んで自国企業が以前より国際競争力を失い、生産がもとの水準より下がって、ようやく経常収支のバランスが回復する。その結果、デフレも消費も雇用も、すべて以前より悪くなってしまう。

以上のことはもちろん、基本方程式を用いて、ちゃんとモデルの中で導出している。それは本を参照してほしい。あと、マンデル・フレミング・モデルの間違いについても本を参照してもらいたい。

 正直に告白すると、国際経済学はぼくの中では鬼門で、今まであまりちゃんと理解しないで来た。けれども、小野不況理論を材料にすることで、今回、かなりの理解に達することができた。その勢いで、小野善康『国際マクロ経済学岩波書店まで購入してしまった。この夏はこの本で、国際マクロ経済学を自分のものにしようと思っておるのだ。