13歳の冬、誰にも言えなかったこと

昔、塾で教えていたときのこと。
とある中1の女の子を受け持った。
母親がとても熱心で、どこかからうちの塾のことを聞き込んで
娘さんを連れてきたんだと思う。
その子は一風変わった娘だったけれど、見た目では、そんな
に人と違うようではなかった。

でも、その子は、明らかに数学との関係の上で、
トラブルを抱えていた。
それは文字式の操作に如実に表れた。
とにかく、文字式の記号処理の規則に従うことが
できなかった。
ぼくは、半ば意地になって、彼女のためだけのプリント
を作った。すべての文字式計算の操作を1ステップずつ
分解し、穴埋め問題にし、これ以上分割するのは不可能、
というところまでこなごなにしたのだ。
彼女は、その1ステップずつは、どうにかこうにか
進むことはできた。けれども、その1ステップずつの
操作の「連続性」を捉えることができないのだ、
とわかった。
どんなに練習を繰り返しても、プリントを離れると、
ステップを再現することができなかった。
それでも彼女は、プリントに戻る度、コツコツと
空欄をまじめに埋めていった。
ぼくは、切なくて、慟哭しそうになりながら、
彼女のその苦行に随伴していたのだった。


そんな彼女が、ふと、顔を上げて、
ぼくに指で何かを指し示した。
「先生、先生、ほら、きらきらしてるよ」
指先には、ただ、教室の天井の蛍光灯があるばかり
だった。
「そうか、きらきらしてるんだね」
そう、ぼくは答えるしかなかった。


ぼくの講師経験では、文字式の操作は、
何かの障害に対して、てきめんに牙をむく。
それは脳に起因すると思われるもの、心に
起因すると思われるもの、そして、人間関係に
起因するもの、そのどれにも作用するようだった。
何かのトラブルを抱えている人は、規則に
従うことが、とてつもないストレスになるみたいだ。
そういう意味では、文字式の計算の厳格さは、
最も、乗り越えることの難しい壁として、彼らの
前に立ちはだかる。


でも、思うに、そういう障壁は、「数理的なことの理解」
のすべてをはばんでしまうわけではない。
そうぼくは強く思っている。
来年早々に刊行される( はずの) ぼくの新書は、
そういう規則に従うことの障害と、数的認識の関係
に触れている。
ある意味で、ぼくの数学教育者としての集大成の
ような本になると思う。


その資料になるだろう、ということで、
サマンサ・アビール『13歳の冬、誰にも言えなかったこと』
をちょっと前に読んだ。

アビールは、生まれつきの学習障害を持っていた。彼女の脳は、
「数認識」が全く損なわれていたのだ。
数の大小や加減がわからない。時計が読めない。お金の勘定ができない。
しかし、彼女は、知的障害者ではない。
むしろ、その逆で、非常に優れた才能を持っている。実際、15歳で詩集を出版し、
全米から注目を受け、賞まで受賞している。その詩も、風変わりなだけの語彙をつかった
ことば遊びであるようなものでなく、非常に論理的に、世界を観察して描写した
詩なのだ。
 
彼女のこの本は、彼女の少女時代の日記と現在から回顧した文章とからなる。
非常に理路整然とした本であり、ぼくにはむしろ、数理的、にさえみえる。
だが、彼女は、足し算も引き算もできない。時間の経過が理解できない。
おつりの計算もできないのである。
 彼女は、ずっと、この障害に苦しみ、それに打ち勝ちながら生活してきた。
そのために、うつ症までわずらっている。けれども、彼女は、自分が負ってい
る障害と向き合い、それを受け入れ、力強く生きていくこと選んだ。その努力
と戦いを思うと胸が痛む。

ただ、ぼくがこの本を読んで確信を深めたのは、「数理的なものごとの理解は、
今現在の方法に限るわけではないだろう」、ということだった。彼女のように、
加減乗除ができなくても、方程式が解けなくとも、それとは別の方法で、事物
の備えている「数理的に表現できる」という属性(アフォーダンス) を抜き出す
ことができるに違いない。彼女の理路整然としたある種の「論理文」は、ぼく
にそういうことをささやいているような気がする。


奇しくも、つい最近、経済学者・松井彰彦さんのインタビューを読んだ。
松井さんも、「障害」の問題に、強い関心を抱き、そこへの洞察を
進めようとしている。


世界的な経済学者と、関心領域を同じくしていることには、
勇気がわく。


あの子は今、どこでどうしているだろうか。
まだ、蛍光灯に、「きらきらの輝き」を見ているのだろうか。
そして、普通の人には聞こえない、それでも確かな数理の木霊
に耳をそばだてているのだろうか。