なんでみんな中小企業の味方なんだろう

 「ハゲタカ」というNHKのドラマの再放送を観た。
 前に、6話中の第5話だけ観ていて、ツボがよくわからなかったのだけど、
今回は、1話を除いて全部観たので、世界観がよくわかった。
これは、ファンドによるM&A(合併・買収)の虚々実々を物語に仕立てたものだ。
M&Aに関する経済学のプロとしての分析は、
wired visionのブログ
に書いたので、そちらで読んでいただくとして、ここではごく個人的な感想を書く。


 このドラマは、とっても良くできていて、とりわけ人間模様のあり方を丹念に
描写しているところが、フィックションとしては秀逸だったと思う。いわゆる「浪花節」なんだけど、浪花節好きのぼくは涙を流しながら観てしまった。


 でもね、
思うんだけど、この物語も「中小企業のひたむきに働く労働者」感というのを
全面に押し出しているわけよ。それが解せないのだ。
小説家もそうなんだけど、政治家もマスコミも、みんな中小企業の味方なんだね。
どんな政党でも中小企業を持ち上げないものはない。
日本中の権力を持った組織は、みんな中小企業の味方をしてる。
なのに、不景気のとばっちりを受けるのは、いつも中小企業である
世界中が味方なのにさ。
これはなぜなんだろう。


それはつまり、まあ、きっと、「票数」、と関係してるんだろうな。マスコミの場合は視聴率。


 ぼくは、一生懸命働いてる、という意味では、ファンドだって銀行だって、大企業の労働者
だって同じだと思う。これらの中に傲慢な人、勘違いしてる人がいる、というのなら、
それは中小企業の経営者や労働者にだっているだろう。


 実際、ぼくの父親は、町工場の職工だった。
雨の日に傘を持って、父親を迎えにいったことが何度もあるので、そこで
父親の同僚たちの様子を、子どもながらに観察する機会がたくさんあった。
もちろん、ひたむきに働いている人もたくさんいたけど、そうでない人も
けっこう見かけた。
そういう人たちの多くは、人に使われるのを好まない、という性向や
他人の生活に責任を持ちたくない、自分だけで生きていたい、と
いうような性向を持っている人たちのように思った。そういう人たちは、
決して悪いわけじゃないけど、子どものぼくが尊敬する存在でもなかった。
 経済学のいうように、中小企業の労働者が「完全に好きこのんでそうしている」、
とまでは思わないけど、そこにもいくばくかの選好や合理的判断が関わってることは確か
なんじゃないかと思う。
つまり、実直でひたむきで職人だから、大企業ではなく中小企業で働いてる、
というわけではなく、(もちろん選択肢の制限はあったにせよ)、中小企業に何かの優位性
を感じて、それなりにその仕事に嬉しさを感じているから、選んでいるんだと思う。
 だとすれば、中小企業の経営者や労働者がひたむきで、銀行やファンドが虚業だ、と
いうのは、銀行やファンドに対してだけじゃなく、中小企業の人々にも失礼じゃないか、
と思うのだ。


 でも、結局、政治家もマスコミも、そんなことは重々承知で「中小企業の味方」なん
だと思う。そういう「耳障りのいいことば」をいうことは、コストもリスクも
ゼロだし、それでなにがしかの世間的評判を得られるなら、それは戦略としては正しい
と思う。


 他方、経済学の学説の中には、大企業と中小企業の住み分けというのには、
ある種のマクロ的合理性がある、という指摘をするものがある。
中でも有名なのは、ピオーリという人の「二重労働市場仮説」というものだ。
この人の説によれば、中小企業のような「外部労働市場」は、不景気などの
不確実性のともなう経済変化に対するバッファとして機能している、という
のである。
このことは、実際に日本の不況でも観測された事実だ。
つまり、職人的な性向を持ち、独立心、自立心で小企業事業主となるような
人々の労働市場が存在することは、経済変動に対する大企業の緩衝材として
都合よく利用される、という主張なのである。


ピオーリの説が正しいのだとすれば、労働市場というはマクロ的に
とても巧妙な仕組みになっている、ということなんだろう。


 そうか、このこともいずれwired visionでちゃんと論じたほうがいいかもな。


結局、「ハゲタカ」は、ハゲタカだと思われたファンドのディーラーが、
中小企業の職人たち全員を救う、というエンディングを迎えた。
それは、以前に行ったファイナンシャルな意味での悪行への自責の念から
である。
昔読んだ幸田真音『小説ヘッジファンド』の結末も、カリスマ・ディーラーが
裏では慈善にお金を投じていた、というものだった。
小説だけでなく現実に、天才投機家ジョージソロスも、出身の東欧に多額の援助をしている。
やはり、マネーゲームと後ろめたさというのは、つきものなんだろうか。
貧乏な出自の身としては、これは「耳障りがいい」のだが、
経済学者のはしくれとしては、これは全く解せないことである。