野田秀樹「キル」を観てきた

 昨夜は、渋谷文化村で野田秀樹・作演出の芝居「キル」を観てきた。
 

 初演の羽野晶紀バージョンははっきり観た記憶があるが、再演の深津えりバージョンは、
観たのか観てないのか、イマイチ記憶が曖昧である。野田の作品は、チケットが手に入る
限り必ず観ているから、たぶん、観たんだと思う。
 

 今回は、広末涼子(+妻夫木)バージョンであった。


 「キル」は、確か、野田が夢の遊眠社を解散して、野田マップを創立した最初の
芝居であったと思うが、遊眠社時代の感じを払拭するために、大きな転換を試みた
作品だと思う。
要は、ジンギスカンを主人公として、輪廻と因果応報の物語である。
物語のスケールのでかさでも、舞台美術や衣装でも、野田は新境地を切り開いた。
ぼく自身は、野田地図でもっと好みの作品があるが、とにかくこの作品は、野田が
古い野田の壁をぶち破った作品として画期的だったことは疑いない。


 野田秀樹の作品を初めて観たのは、ぼくがまだ在学中で、
野田も駒場小劇場(東大駒場寮内の劇場) を本拠地にしていた頃だ。
それは、「2万7千光年の旅」というかなり初期の作品だった。
とにかく、芝居ってのはドリフターズみたいなものだと思っていたぼくは、
これを観て、そのあまりの高度な文学性にぶっとんでしまった。
それからは、欠かさず、野田の芝居に通い続けた。
次に観た「赤穂浪士〜昆虫になれなかったファーブルの数学的帰納法」には、しびれまくった。
赤穂浪士の話と、ファーブル昆虫記、東大生金貸し山崎の話が錯綜するプロット、
そして飛び交う数学用語、はあまりの衝撃で、見終わったあと、興奮で眠れないくらいだった。
その次に観た「ゼンダ城の虜」が、野田のすべての作品の中で、今でも一番好きな
ものである。技術的にも物語的にも、もっとよくできた作品はたくさんあるが、
自分の青春と重なって、マイベストとなったのは、この作品なのだ。
とりわけ、学内の一劇団が、キャンディーズ伊藤蘭を主演に迎えたのにはたまげた。
これは野田の将来を予見させる大事件だったと思う。
物語は、ゼンダ城に囚われたフラビア姫を助けにいく、という古典文学に、
少年十字軍の話を混ぜたものなのだが、次第に、その囚われた姫というのが、
植物人間となった少年であり、世界が彼の観る夢であることが明らかになって
くる。(うろ覚えで書いているので、多少違うかも) 。
この芝居のエンディングでは本当に涙を流してしまった。
この作品に、岸田戯曲賞をあげなかった(次の作品にあげた) のは、この賞の歴史的失策だと
思った。


 「ゼンダ城の虜」は、夢の遊眠社の解散公演に選ばれた。
 ぼくは、この公演を二度観たにもかからわらず、どうしても千秋楽が観たくて、ピアで
当日券を狙った。当時、公衆電話のほうがつながりやすい、という都市伝説がまことしやか
に流布していたので、ぼくは、公衆電話で電話をかけまくった。
「現在、この番号は混み合って・・・」
という声が出ると、受話器をおいて、またコインをいれる。このぼくの姿は、通行人には、
公衆電話でスロットマシンをやっているなぞのオヤジに映ったことだろう。
執念が実って、千秋楽を観ることができ、ぼくは思う存分、客席で涙を流したのだった。


 野田の作品には、独特の叙情がある。ぼくはそれがこよなく好きである。
一時、たくさんの芝居を観たが、今はほとんど野田とあとわずかしか観なく
なってしまった。ぼくが好きなのは、芝居そのものではなく、野田の叙情だと
わかったからだ。


 今回の「キル」は、役者が若いせいもあって、いまいち、野田の叙情が
体現できてなかったのは残念であったが、逆に、その若さは、ういういしさ、
美しさでもあるので、それはそれなりであったと思う。


何より、前から4列目から見た広末涼子の美しさは、さすが、ぼくをアイドルぐるいに
導いただけのオンナだな、と再認識させられた。
途中で、広末の姿と表情だけを追っている自分に気がついた(って、結局それかい)。


この年になると、叙情より何よりアイドルだ。