華やかな孤独

 
前にも内田善美のマンガの紹介をしたけど、内田善美のマンガで最も傑作だと思っているのは、『ひぐらしの森』という作品だ。これは1979年に「ぶーけ」に掲載され、1980年に「ひぐらしの森」という単行本に収録された。wikiによれば、内田さんが頑なに再版をこばんでいるので、本がすべて絶版のままという。とても残念なことと思う。ご本人の創作者としてのこだわりもあるとは思うが、生まれてしまった作品は、それを必要とし、それに感化される人がいる限り、(創作者の意志とは独立に)その魅力を行使する義務を持っているように思える。
確かに、アマゾンでは、内田善美の中古本が高値で売られているようだ。内田さんは、こんな画風である。

星の時計のLiddell (3)

星の時計のLiddell (3)


 『ひぐらしの森』は、おおざっぱにいうと、ある種の女の子の「孤独」を描いた作品といっていい。それも、いうならば、「華やかな孤独」である。
主人公はクラスメイトの二人の女の子、志生野と沙羅。志生野は、優等生で、真面目で、クラス委員を務める。沙羅は、美人で、派手で、華やかで、わがまま。その上、これまた美人で華やかで派手な友だちにいつもとりまかれている。でも、この二人は、ともに、内面に孤独を抱えていて、満たされない何かの中を生きている。
 もちろん、二人の「孤独」は種類が違う。
志生野の孤独は、自分の内面の表出を極度に殺すことによる「孤独」。ものごとを無難に運ぶため、誰も傷つけないため、そうすることで自分を傷つけないために、周囲の調和をはかろうとする。それは、誰も近づけず、誰にも本音をいわない、という意味で、「孤独」を受け入れることだ。
それに対して、沙羅のほうは、わがまま放題で、欲しいものは何でも手にいれるのに、それでも満たされない、そういうタイプの「孤独」。本当はもっと欲しいものがあって、それは今の自分のままでは手に入らないことを、うすうす感じているけれど、そのために自分のライフスタイルを覆す覚悟ができない。そういう、とても華やかな、そして、喧噪の中の孤独。
 そんな風に、対照的な孤独を抱えた二人の女の子は、次第に細やかな接触をするようになる。とりわけ、沙羅のほうが志生野に近づいていく。それは、沙羅が欲しいのがまさに、志生野のようなともだちだからであり、それがかなわないと孤独を癒すことができないからだ。
この物語は、大きな盛り上がりを見せるわけでもなく、何かの大事件が起きるわけでもなく、小さな事件と細やかな心理変化だけで終わってしまう。でも、それは読者の胸をしめつけるに十分な結末である。なぜなら、その解決は、二人の「孤独」が消え去るわけではないけれど、二人が自分の「孤独」を理解し、そして相手の「孤独」をも理解し、前よりもちょっとだけ心の扉を開き、大人への道へ一歩だけ進む、そういう結末だからだ。
 ぼくは、この物語を読むたび、学校時代の友人関係のことを、懐かしく、そして痛々しく思い出す。
ぼくは孤独を感じたことはほとんどなかったけれど、このような「華やかな孤独」を抱えた友人はたくさんいたのだろう、そんな気がしてくるからだ。そしてぼくは、彼らの送ってくるシグナルをほとんど見過ごしていたに違いないからだ。彼らの多くは、たぶん、孤独には見えず、むしろ華やかでありさえするけれど、心の奥底に孤独を抱えて暮らしてしたのだろう。それに対してぼくはというと、周りからは孤独のように見え、にもかかわらず、心の中では全く孤独などみじんもなかった男の子だったのだ。

 ところで、前に紹介した樹村みのりのマンガに、「早春」というのがあって、

星に住む人びと (1982年) (ボニータコミックス)

星に住む人びと (1982年) (ボニータコミックス)

に入ってるんだけど、これは「ひぐらしの森」とほとんど似たプロットの作品で、正直、最近これを見つけて、ちょっとだけショックを受けた。もしかすると、内田さんはこの作品に影響を受けて「ひぐらしの森」を書いたかもしれないからだ。でも、つれあいに読ませたら、「本質的なところで決定的に違う」と否定されたので、ほっとした。(まあ、別に影響があったっていいだけどさ)。