ビールを公平に分ける方法

 これは、一度、Wired visionのブログにhttp://wiredvision.jp/blog/kojima/200803/200803061103.htmlとして書いたことだけど、こっちの個人ブログにも、多少味付けを変えて書いておこうと思う。
 公平とか平等とかいうことばは、ひとをうっとりさせるに十分な甘い響きを持っているけど、よく考えると本当はとても難しくて手におえない話だ。それをわかってもらうために、「ピッチャーのビールを公平に分けるにはどうすればいいか」という単純な問題にして考えることにする。そういう喩えにするけど、背後には「社会における公平」についての問題意識が込められていることは、念頭に置いて読んで欲しい。
 今、ピッチャーになみなみ入ったビールがあるとする。それと形のちがったコップがいくつかあるとしよう。このとき、ビールを公平にコップに取り分けて飲むにはどうすればいいのだろうか。もちろん、メジャーを使って、正確に測れればことは簡単だから、そういう便利なメジャーはないものとする。
 まずは、二人の場合で考える。
 経済学だと、次のような分け方が平然と「公平」だとして与えられる。つまり、完全に均整のとれたコインを投げて、表が出たらAさんが、裏が出たらBさんがピッチャーのビールを全部飲んでしまうのだ。期待値で考えるなら、双方の取り分の期待値は正確に「半分のビール」となる。嘘のような話だけれど、このような「確率的公平性」は、経済学の多くの論文に常識的に導入されているのだ。このような公平性は、いわゆる「機会の公平」と呼ばれるものである。確かに、コインを投げる前には、Aさんが有利ということも、また、Bさんが有利ということもないから、「事前の公平性」は、「コインの確率的対称性」が保証している。そして重要なことは、これが「結果の平等性」を保証するものではない、ということだ。結局は、ビールを飲めるのは片方の人だけだからである。
 定番の経済学では、人は「事前に確率的に推測される分け前」を基準に、ものごとの良し悪しを判断し自分の行動を最適化する、と考えている。もちろん、これは「結果の平等性」とは無縁なことであり、結果は上に見たように、ひどく不平等なものになるだろう。そして、現実の経済社会も同じ問題を抱えている、と思う。これは、経済理論の抱えている不備なのだと思うのだけれど、それを合理的に乗り越えるアイデアはまだない。(このような確率と社会の関わりの問題については、拙著『確率的発想法』NHKブックスに詳説したので、参考にしていただければ、と思う) 。
 ところで、経済学のミクロ理論系で最近はやりなのは「無羨望(envy-freeness)」というものだ。
 これは、ヴァリアンという経済学者が最初に提案した概念であり、社会的な分配について、事前ではなく事後として、良し悪しを測る基準で、いってみれば「結果の平等性」に関わる方法論である。やはり、ビールを分ける問題で喩えることにしよう。今、酒にあまり強くないAさんが先に好きなだけビールを飲む。そして例えば、ピッチャーの4分の1ほどを飲んだとしよう。そのあとBさんが残る4分の3を飲むのである。このとき、ヴァリアンのいう「無羨望条件」が満たされることになる。それは、Aさんにとって、Bさんの取り分4分の3はうらやましくはなく、(なぜなら、そんなに飲んだら気持ち悪くなるから)、BさんにとってもAさんの取り分はうらやましくないので、(なぜなら、Bさんは、できるだけたくさん飲みたいから)、したがって、どちらも相手の取り分に恨みを持たないからである。このようなヴァリアンの「無羨望条件」は、経済的な公平性や最適性を考える上で、上で述べたような「確率的公平性」よりずっと妥当な結論を導けるように、ぼくには思える。きっと、これからどんどん研究が進む分野なのではないだろうか。
 今は、都合上、酒に強くない人の存在を仮定したが、ここから先は、全員ができる限りビールをたくさん飲みたいと思っている、という通常の状況に戻って話を進めることにする。
さて、実はこのビールを公平に分ける問題は、だいぶ前に買ったニューマン『数学問題ゼミナール』という本に、載っていた問題だったのだ。そこには、「2人で公平にビールを分ける」方法には、次のような解が与えられている。「まずAが、好きなようにビールを2つのコップに分ける。そして、Bが好きなほうのコップを選ぶ」。確かにこの方法は、「確率的な対称性」を利用するより、ずっと社会的に良い方法だと思えるだろう。なぜなら、「どちらも結果として満足している」し(つまり無羨望となっているし)、なにより、Aにはできるだけ同じ量にビールを分けようとするインセンティブが働くからだ。このような分配に関する研究は、あまり経済学で見たことがないが、それはぼくの不勉強の故かも知れず、ひょっとすると大量の論文があるかもしれない。
 もちろん、これだけでは数学の問題としては面白くないので、先の『数学問題ゼミナール』が扱っている問題は、2人ではなく一般のn人の場合である。n人に対して、今のような「公平な分配法」は存在するだろうか。実は存在するのである。しかも、数学的にはよくできた方法で、なかなか思いつかないセンスの良い問題だ。
 では解答。
 3人の場合で解答する。それは難なく一般化できるだろう。
 まず、Aが自分のコップにビールを好きなだけ注ぐ。その量に対して、BとCは「それは多すぎる」と不満を述べる権利がある。もしもどちらも不満を述べないなら、Aはそのまま自分のコップのビールを飲む。このとき、Aの取り分について3人とも不満はなく、あとは残るビールをBとCの2人で公平に分ける問題に帰着される。そうはならず、Aの取った量にBが「多すぎる」と不満を述べた場合を考えよう。このときは、Aのビールの入ったコップをBが取り、Bは望ましいと思う量だけビールをコップからピッチャーに注ぎ戻す。残ったコップの量に対して、Aが「多すぎる」と不満を述べることはありえない。なぜなら、Bのものとなったコップには自分が望んだ量よりも少ない量のビールしかないからだ。したがって、不満を述べる権利はCだけにある。Cが不満を述べなければ、Bがそのコップのビールを取り、やはり問題は残るAとCの2人の分配問題に帰着される。ここでCがBの取り分に「多すぎる」と不満を述べたらどうなるか。ビールの入ったコップはCに渡り、Cはコップのビールが望ましいと思える量をピッチャーに注ぎ戻す。コップに残るビールの量には、AもBも不満はいわないはずだ。なぜなら、どちらも自分が望ましいと思った量よりもコップのビールが少なくなっているからである。Cがこのビールを取り、あとはAとBの2人の分配問題に帰着される。

 さて、このような問題が、具体的にどのように社会的な公平性の問題とリンクするのかは、冒頭で述べたhttp://wiredvision.jp/blog/kojima/200803/200803061103.htmlで読んでほしい。