スターリングエンジンと熱力学

小学生の息子に、彼が欲しがっていた「大人の科学」のスターリングエンジンが、サンタさんからプレゼントされた。

大人の科学マガジン Vol.10 ( スターリングエンジン ) (Gakken Mook)

大人の科学マガジン Vol.10 ( スターリングエンジン ) (Gakken Mook)

これは、温度差で回転運動をするエンジンのおもちゃである。電池などの動力が入ってるわけではないのがポイントだ。動きの映像は、一番下にyoutubeの画像で貼り付けておくので、是非、その不思議を楽しんで欲しい。原理はわかっているつもりだが、実際にこの目で見るととても感動する。すごくよくできている。熱機関というのが、「熱エネルギーを運動に変換する」だけではなく、「温度差によって周期運動を生み出す」という理解が重要、ということをリアルに教えてくれる。
ぼくは、ずっと、熱力学に興味を持ってきた。昔は、純粋に、「エントロピー増大の法則」というめちゃくちゃ不思議な法則をきちんと理解したい、というのが動機だった。これは、「宇宙の不可逆性」を表現するものであり、「不可逆」という時間的概念が、どう論証されるのか、興味津々だったのだ。今では、経済理論の専門家として、熱力学の発想を研究に活かせないかな、という下心がある。経済も人間や企業といった膨大な数の「分子」が、いろいろな相互作用を持って一つのマクロな現象を生み出している、という点では、熱力学的な世界観と似たところがあるからである。ムペンバ効果と経済 - hiroyukikojimaの日記にイメージ的なものを書いておいた。これなんかは軽い冗談ではあるが、熱力学的な発想や統計力学的な発想は、実際の経済理論の論文としていくつか存在している。例えば、ノーベル経済学賞を受賞したクルーグマンや、他にデクシッツなどが書いている「履歴現象」の論文は、物理学の原理を援用したものといっていい。
経済学者になる前の、数論マニアの塾講師だった頃のぼくは、物理学自体にはあまり関心がなかったのだが、「熱力学(とりわけエントロピー)」と「量子力学(とりわけ不確定性原理」には、「ふっしぎだぁ」と感じるわくわく感があり、いつかは理解したいアイテムであった。それで、勤務している塾で、「ボルツマン計画」というプロジェクトを立ち上げ、勉強会を開催し、「中高生に確率を教えるとき、物理(熱力学、統計力学量子力学)をどう利用するか」というテーマで教材開発に取り組んだりした。そのメンバーだった現在は東大物性研究所の加藤岳生さんに、とりわけ、熱力学や統計力学量子力学をレクチャーしていただき、ぼくなりに満足できる理解に達したのだった。実際、統計力学に関する知識は、拙著『算数の発想』NHKブックスに、量子力学の知識は『世界を読みとく数学入門』角川ソフィア文庫に活かされている。エントロピーとか波動関数とかは、物質現象とそれを表現する数学公式がどう結びついているのか、素人にはなかなかピンとこないのだけれど、これらの本には、ぼくが素人まるだしで加藤さんに質問しまくって素人のまま大胆に理解したイメージで書いているので、(プロの物理学者は眉をひそめるかもしれないが)、きっと何冊物理入門書を読んでもわからなかった人には、なんらかの道しるべを与えられることができるんじゃないかな、と自負している。
 その加藤さんのレクチャーの中で、とりわけ衝撃的だったのは、LiebとYngvasonの公理論的熱力学の論文だった。これは、田崎晴明さんが名著『熱理学=現代的な視点から』培風館で参照した論文で、加藤さんはこの田崎さんの本が、最もぼくの疑問に答えてくれるだろう、ということで、参照論文をかいつまんでレクチャーしてくれたのだった。それを聞いたとき、ぼくが衝撃を受けたのは、曖昧な記憶で書いているので確かではないかもしれないけれど、エントロピーという量の存在証明をするテクニックが、経済学のそれとそっくりであった、ということだった。確か、「効用関数の存在証明」と酷似しているな、と思った記憶がある。もちろん、LiebとYngvasonが経済学を参考にした、ということではない可能性も高く、同じような量の存在を公理論的に生み出すなら、同じような手法になることは不思議ではない。ただ、熱力学と経済学に酷似した手法が現れ、しかも物理学のほうが後であった、という事実は、当時経済学の研究を開始しつつあったぼくには微かに嬉しいことであったのだ。
それで、先日、買ったままで読んでいなかった田崎晴明『熱理学=現代的な視点から』培風館を書棚から出してきて、ちらちらと眺め始めた。
熱力学―現代的な視点から (新物理学シリーズ)

熱力学―現代的な視点から (新物理学シリーズ)

そうしたら、なんと、すごく興味深い記述が満載である。例えば

科学と普遍性(p9)
しかし、この世界はNewton力学、量子力学、あるいは、場の量子理論や弦理論といったミクロな力学で支配されているといわれることが多い。熱力学は、これら力学的な世界の記述といったいどのように関わるのだろうか?熱力学は、ミクロな力学法則から得られる近似法則なのか?それとも、熱力学は、そもそも力学法則とは独立に存在する別のタイプの科学の枠組みなのか?
 私は、これはどちらも完全には正しくないと思っている。Newton力学も、量子力学も、そして熱力学も、すべてこの世界の何らかの側面を記述する普遍的な構造なのだ。この世界では、絶望的なほど多種多様な現象が生じていて、それらを漠然と眺めているだけでは、人類のささやかな論理能力によって何かを本当に理解することなどとうてい望みようもないと感じられる。しかし、世界の中で生じるできごとの中から、ターゲットを絞り、何らかの側面に注目してやれば、簡潔な論理構造が抽出できる場合がある。これは、科学の先達が長い歴史の中で見いだした驚異的な経験事実である。理想的な場合には、そうして抽出された論理的な構造は、高い普遍性をもつ「普遍的な構造」になっている。(色強調は、ぼくによるもの)

う〜ん、すばらしい哲学的な記述だと思う。これは、山本義隆さんの本(隠れて物理を勉強する - hiroyukikojimaの日記参照)を読んで以来の感動である。実際、同じページの脚注で、田崎さんは山本先生の本を薦めている。ぼくが、この記述にうっとりするのは、現在世界経済で起きているマクロ的な混乱を理解する上で、このようなスタンスはとても示唆的に思えるからだ。さらに田崎さんはこう続ける。

(p10)
私が「普遍的な構造」というときは、大ざっぱにいって、
・現実の世界の何らかの側面を定量的に再現する。特に、その構造による記述が限りなく精密になっていくような何らかの極限を想定することができる。
・現実の世界の中の、注目している側面以外の様々な詳細や、観測していない未知の要素には、依存しない。
数学的に完結した体系になっている。
(色強調は、ぼくによるもの)

最後に色で強調した文面にぼくは痺れるのだけど、脚注には、「この性質がどれほど本質的なのか、筆者にはまだわからない」と書いてあり、ちょっと残念。笑い。これらの文は、ぼくの脳にビンビンと響いてくる。このあと、さらにディープにして冒険的な田崎節が次のように続く。

「普遍的な構造」は、世界にそのままの形で内在していて、人間はそれに気づいて「拾ってくれば」よいというものではない。だからといって、これらの構造は、人間が自分の趣味と都合で勝手に世界に押しつけたものでもない。「普遍的な構造」は、徹底的な観察、創意を凝らした実験、大胆で緻密な理論的考察の繰り返しを通じて、長い年月をかけて現実の世界から「抽出」されてくるものなのだ。私は、「普遍的な構造」が現実の世界に「宿っている」という言い方が好きだ。「拾ってきた」のでもなければ、「押しつけた」のでもない。「宿っていた」ものを、理性の力で見いだしたととらえるのである。(色強調は、ぼくによるもの)

これらの記述に、大きなインスパイアを受ける人もいるだろうし、何のことやらさっぱり、という人もいるだろう。でも、こんな「告白」をしてくれている物理の本は、非常に稀なのだ。もちろん、ほとんどの物理学者は何らかの深い哲学を持っているのかもしれないが、それを自然言語化できる能力を持っている人は多くはない。そういう本に出会うとぼくは、必ず痺れてしまうのだ。
 熱力学の普通の教科書を読むと実感されるのは、何が原理で、何が仮定で、何が経験的事実なのかがわからない、ということ。その論理構造は、数学を専門的に勉強したぼくからは、めちゃくちゃ錯綜していて、ある場所は論理的演繹のようであり、あるところは、他の物理分野から引っ張ってきているようであり、はなはだ複雑怪奇に見える。それに関して田崎さんは、以下のような宣言をしている。

p13
本書では、マクロな世界を記述する普遍的な構造としての熱力学を提示する。特に、物質の内部構造や、分子運動についての力学・統計法則などのミクロな世界の知識を「カンニング」せずに、マクロな手段で観測できる量だけに基づいて、完結した体系を描き出したい。マクロな世界についての理論である熱力学は、ミクロな理論から独立して、それ自身が完結した体系になっていることが望ましい。

う〜ん。思い出した。ぼくが昔、この熱力学のアプローチに興味を抱いたのは、ミクロ経済を経由しないで、マクロ経済学を閉じた体系としてより完成したものにするにはどうすればいいか、という夢を抱いていたからだった。結局、今は、ミクロの側からアプローチするスタンスになってしまったけど、田崎さんのようなスタンスにはとてつもない魅力を感じる。とりわけ惹かれるのは、論理的な錯綜や他の認識の「カンニング」を避けるには、「公理論」的方法が有効、という点である。実際、ぼくの次の新書は、「公理論」的に社会を眺望するような本になるので、この本はとても参考になりそうである。この本を読むには、基礎的な物理知識と積分計算の知識ぐらいは必要だが、仮にそれが心許なくとも、字面を読むだけでも大きなインパクトを受けられると思うので、大お勧めである。大事なのは、「この世界は、いったいどういう風に動いているのか」に関する飽くなき好奇心なんだと思う。ぼくもこれからじわじわと読み進めていこう。今年前半のテーマになるだろう。

スターリングエンジン

エントロピーに関する話は以下で。

算数の発想 人間関係から宇宙の謎まで (NHKブックス)

算数の発想 人間関係から宇宙の謎まで (NHKブックス)

量子力学に関する話は以下で。