入試国語に出題される、ということ。

今年は、ぼくの書籍から、5つの大学で入試問題が出題された。これまでも、ときどき出題されることがあったが、5 つもの大学で出題されたのは初めてだ。
出題の詳細は以下。

筑波大学・情報学群・情報メディア創成学類:小論文:『確率的発想法』NHKブックス
日本大学・国際関係学部・国際総合政策学科:国語:『数学的思考の技術』ベスト新書
明海大学:国語:『数学的思考の技術』ベスト新書
岡山理科大学:国語:『数学的思考の技術』ベスト新書
金城学院大学:国語:『使える!確率的思考』ちくま新書

この5つの大学には、なんて優秀な学者がいるんだ!なんてすばらしい大学なんだ! という形式で、婉曲に自画自賛をしておこう。(笑い)。もしも、このブログ読んでる受験生がいたら、ぼくの新書、読んどいたほうがいいかもよ(商売、商売、笑い)
少し前のことだが、「入試問題だからといって、タダで著作物を使うのはおかしい」という議論があった。それで、著作物利用料が支払われるようになったために、出題された場合は必ず事後報告が送られてくるようになったのだ。これによって、自分の文章がどの大学に出題されたかを捕捉できるようになったのは嬉しいことだ。
書籍を刊行した際には、もちろん、たくさん売れるのが一番嬉しいに決まってるが、その他にもいろいろと楽しみがある。マスコミに書評が載ること、識者に評価されること、何かの賞を受賞すること、タレントと対談などができることなどなど。その中には、もちろん、入試問題に出題されること、も含まれる。
ぼくは、自分の文章が入試国語に出題されることは、このうえなく嬉しい。なぜなら、ぼく自身が、入試問題で国語の文章を読むのが大好きだったからだ。国語という教科は、自分が望んだわけではない小説、論説文、詩などに出会うことのできる非常に貴重な機会だと思う。中でも、入試国語は、受験生が最も真剣に文章を読む希有な機会だ。そういう入試問題として、若者がぼくの文章と向き合ってくれることは、このうえなく幸せなことである。こうなったら、次なる目標は、東大国語とセンター国語に出題されることだな。うん。
かくいうぼく自身も、高校入試、大学入試(通信添削や模擬テストも含む)で出会った文章のいくつかは、今でも鮮烈に記憶に残っている。例えば、高校入試のとき、志賀直哉の「城の崎にて」という短編が出題されたが、主人公(作家本人)が電車にはねられるところ(しかも死なない)から始まっていて、かなりぶっとんだ。また、丸山薫の詩「白い自由画」が出題されたときは、あまりのすばらしさに、問題も解かずにくり返しその詩を読み返し、そのあげく、帰りに本屋に直行して、丸山薫の詩集を買ったものだった。大学入試では、なだいなだの文章で、「アルコール中毒は、アルコーリスムという。要するに、〜イズムというのは中毒のことなのだ」という趣旨の文章を読んだときは、あまりの痛快さにずっとニタニタしていた。当時はまだ、学生運動の名残があって、マルクス主義とかスターリン主義とかのたまわっている人が散見されたからだ。
でも、告白してしまうと、ぼくは国語の成績が冴えなかった。高校の授業でも、模擬テストでもそうだった。ぼくは、高校の一部の国語教師にひいきされていたので、同級生の多くは、「小島は国語ができる」と誤解していたと思うけど、真相は真逆だった。ひいきしてくれてた教師さえも、きっと期末テストを採点して、「なんでこいつはこんなにできないんだろう」と思ったに違いない。こういうのも何だが、当時からぼくは文章を書くのはそれなりに得意だったからだ。実際、面白いウケル文章を書いてたんで、国語の教師からは、「数学がぶっちぎりで出来る生徒がいるのは聞いてたが、それがまさか小島だったとは」と言われたことがあった。彼らは、ぼくを「ど文系」だと思っていて、文学部を受験するものだとばかり思っていたようだった。(数学がぶっちぎり、といっても、庶民レベルのことだから、そこで目くじらたてなさんなって)。まあ、その後の人生を考えると、彼らが思っていたように、数学よりも文章のほうに多少のアドバンスがあったようにも思える。
なぜ、自分が国語が冴えなかったのかを思い返してみると、たぶん、国語という教科を大きく誤解していたからだと思う。塾講師をしていたとき、生徒の中に、後に思想系で名を成すことになる英才がいた。彼は、中学受験のときに四谷大塚という模擬テストで、とんでもない国語の成績を出し続けて、同世代の間では超有名人だった。その彼と、国語の入試問題について話したとき、彼はこう言った。「小島さん、国語の入試問題には、セオリーがあるんですよ。セオリー通りに解けば、解は一つに決まるんです。少なくとも、自分の感受性とか、知識とか、意見とかとは関係ないんですよ」。これは、衝撃だった。自分のそれまでの国語人生が全くの誤りであったことを悟った瞬間だった。ぼくは、それまで、国語というのは情操教育であって、国語の問題というのは感受性のぶつかりあいだとばかり考えていたからだった。
 そんなぼくの書いた文章が、入試国語に出題される、というのだから、人生わからないものである。気が向くと、それらを解いてみたりするんだけど、選択肢に戸惑うこともある。逆に、この出題者とは心が通じる、と思えて嬉しくなることもある。結局、中高生のときから、ぼくの国語感覚はちっとも進歩してない、ってことなのかもしれない。
面白かったのは、友人の経済学者と酒を飲んでいて、国語に著作が出題された経験談になったときだ。彼の文章が出題されたときのことを、彼はこう述懐した。「傍線を引かれた部分を読んだら、その文章自体に違和感を覚えるようになって、結局、増刷のときに直してしまった」、そう言ったのである。これには腹を抱えて笑ってしまった。
 ぼくは、国語の成績は冴えなかったけど、文章を書くのはずっと好きだった。そのきっかけは、中学生のときに、レイ・ブラッドベリの小説を読んだことだった。あまりのすばらしさに、くり返して読むだけでは気が済まず、短編をまるまるノートに写し取ったりもした。ブラッドベリのような文章を書きたくて、そのコツを見つけようとしたのだ。結局、コツはつかめなかったけど、これは文章の訓練にはなった。それ以降、気に入った作家が出るたびに、その人の文章をまる写しすることをした。読むことと写すことはまるで違う。写してみると、読んでるだけではわからない文章の機微や作家の息づかいがわかるからだ。文章の訓練にはこれが一番だと思う。もの書きになりたい人は是非、試してみられよ。そのレイ・ブラッドベリがおととい、ついに逝去された。ぼくに大きな影響を与えた作家だけに、とても感慨深いことである。
ブラッドベリは、SFと幻想小説とを書いたけど、ぼくはどちらかというと幻想小説のほうが好きだった。とりわけ、『十月はたそがれの国』とか『何かが道をやってくる』とかはすばらしかった。あれと同じ不思議感覚を生みだせる作家とは、いまだに出会うことができない。
 さて、そんなぼくの小説が、あと2週間で刊行される。それはこれ、『大悪魔との算数決戦』技術評論社

大悪魔との算数決戦 (すうがくと友だちになる物語1)

大悪魔との算数決戦 (すうがくと友だちになる物語1)

これは、ぼくの現在の力量でできる限りのことをやった作品なので、是非、一読いただければ、と思う。(結局、これを言いたくて、こんな長い文章を書いてきたわけだね)。この物語は、思ってみれば、ぼくなりの『何かが道をやってくる』だといえなくもない。
これまでに登場した本は、以下。アフィはめんどくさいからやってないので、安心してここから飛んでくらはい(笑い)。
数学的思考の技術 (ベスト新書)

数学的思考の技術 (ベスト新書)

確率的発想法~数学を日常に活かす

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使える!確率的思考 (ちくま新書)

使える!確率的思考 (ちくま新書)

10月はたそがれの国 (創元SF文庫)

10月はたそがれの国 (創元SF文庫)

何かが道をやってくる (創元SF文庫)

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