なぜ複数の天才が同期に生まれるのか

森内俊之名人・竜王に、新著『覆す力』小学館新書をご献本いただいたので、さっそく読んだ。すごく面白い本だったので、皆さんにもお勧めしたい。

覆す力 (小学館新書)

覆す力 (小学館新書)

この本は、森内二冠が一般書として刊行した初めての本である。将棋の専門書は既に何冊か刊行されているが、棋譜なしに文章だけで本を作ったのは初めて、ということだ。
本書には、森内二冠のこれまでの勝負に対する記憶と感想、そして、ライバルたちに対する想い、はたまた、将棋というゲームに対して抱いている哲学などを赤裸々に告白している。最もページをさいているのは、終生のライバルである羽生善治三冠への複雑な感情だ。ぼくは、羽生三冠の書いた書籍も何冊か読み、それらの本に綴られている羽生三冠の将棋哲学を十分に堪能したが、羽生三冠の本と森内二冠の本書との最も大きな違いは、後者には羽生さんというライバルに対する非常にデリケートな感情が細やかに描かれていることであろう。それは、2章の冒頭の次の言葉からわかる。

羽生さんのように、いつ、どのような対局でも結果を出し、全タイトルを制覇することなど、私には不可能だ。竜王戦名人戦の七番勝負のように、二日制で、持ち時間が長く、じっくりと考えることができる対局は得意だが、瞬時の判断を求められる対局にはどうしても苦手意識がある。

これは、自他共に認める、羽生三冠と森内二冠との棋風の違いであろう。
森内さんは、小学生のときから同学年のライバルとして、羽生さんと戦い続けてきた。羽生さんが華々しい成果をあげながら、スターダムに昇っていくのを横目で見ながら、森内さんは、ところどころで足踏みをしていた。一般の棋士を基準にすれば十分な成果を出していたのだろうけど、羽生さんを基準にすれば、決して順風満帆という道のりではなかった。
そんな森内さんは、結果だけを見れば、結局名人位に就き、永世名人位を羽生さんより先に獲得した。マラソンで言えば、ずっと羽生さんの背中を見ながら走っていて、ゴールしてみたら一位だった、みたいな感覚だと思う。本書には、羽生さんとの名人戦や渡辺さんとの竜王戦の自戦記が、一戦ごとに書かれており、テレビやネットで観戦をしたファンならば、「あのときは、そういうことだったのか」などと裏話が楽しめる。
以前にも書いたこと(森内名人の就位式に参加してきますた。 - hiroyukikojimaの日記)だが、森内さんの将棋は「数学者的」だと感じる。再度引用しておくと、ぼくが森内さんと個人的にお話させていただいたときの、森内さんの次の発言がそれを裏付けるものだと思う。

棋士というのは、3手以上手が浮かぶのは弱い、と言われています。多くとも2手、できれば、1手だけの正着が見えるのが強い人ということです。でも、わたしの場合、4手、5手が見えてしまうんですね」

これと同じことが、本書にも出てくる。以下の発言だ。

それまでの私は、常に理想の将棋を追い求めていた。``勝つための将棋''ではなく、``正しい将棋''を指したいと思っていたのだ。どんな勝負でも一手一手を全力で考え、最善手を追い求める。それが``正しい将棋''だと信じていた。

「勝つための将棋」と「正しい将棋」との違い。それが、森内さんの哲学を如実に表す概念だと思う。そして、数学者的だというぼくの仮説を裏付けてくれる考え方である。
森内さんは、直後の文で、このことを次のように数学で例えている。

数学で例えるなら、すでに証明されている公式があるにもかかわらず、それを使うことを潔しとせず、さらに合理的な定理を追い求めるようなものだ。

これは、一面で、数学のあり方を言い当てている。数学者たちは、ある法則が単に証明されればヨシとするのではない。その法則の背後に、必然性とか抽象的真実とかの「幻覚」を垣間見て、それを追い求めようとする。つまり、法則が成り立つのには、もっと深い理由があり、もっと広くもっと抽象的な空間でも類似物が成り立つのではないか、と妄想するのである。そして、その妄想は時として真実になる。
本書では、「直感の七割は正しい」という羽生さんの言葉を引用して、羽生さんが直感を大切にしていることを紹介した上で、自分は直感に委ねない思考を行うことを述懐している。A、B、CのうちAの手が正しいと感じても、BとCの手順をじっくりと検討してからでないと結論を出さない、ということだそうだ。これこそまさに、「羽生さんが物理学者的で、森内さんが数学者的」というぼくの考えを裏付けてくれる。この感じには、次の引用がさらなる信憑性を与えてくれるだろう。

以前、先崎さんが雑誌の記事で、羽生さんや私などのいわゆる``羽生世代''がインパクトを与えたのは、それまで文系だった将棋界に、論理的思考を得意とする理系が入ってきたからだと書かれていたが、この説には納得がいく。私自身、自分は理系の人間だと思うし、羽生さんも同じタイプに思える。

もちろん、森内さんのこのようなこだわりを続ければ、持ち時間を消耗して、結局は勝てなくなる。森内さんが、その矛盾をどう解消したのかも書いてあるので、それは本書で読んでもらいたい。
本書を読んで、とりわけ気になったのは、なぜ同じ年齢に森内さんと羽生さんという天才二人が出現したのか、ということだ。それだけではない。佐藤康光九段さんや、郷田 真隆九段も同年代の天才棋士であり、``羽生世代''に強豪がひしめいていることである。このように、「同じ時期、年代に天才が同時多発する」という現象は、数学界でもよく耳にすることだ。ぼくが知っている例では、数論の加藤和也先生と黒川信重先生、代数幾何の川又雄二郎先生が同じ1952年生まれである。もっと若い世代にも同期の天才数学者たちがいる、という話を耳にしたことがある。
どうして天才たちは、まんべんなく一人ずつ出現するのではなく、まとまって出現するのか。これは不思議な現象だと思う。(統計をとったわけではないので、ひょっとすると、思い過ごしなのかもしれないが、それはともかく、としよう)
一つ、理由として考えられるのは、「同世代だと切磋琢磨しやすくなり、だから、才能がある人がまとまって同世代にいるほうが互いに進歩しやすい」ということがあるかもしれない。もちろん、天才同士なら、年齢が離れていても、議論したり研究したりすることはそんなに難しいことではないだろう。そうであっても、年齢が近いほうが、心理的摩擦や敷居がとても低くなることは否めない。それは少なからぬ好影響を与えるに違いない。
 加藤和也先生も、「川又さんがあまりに天才で、自分など数学をする資格がないと悲観した」というような趣旨のことをどこかで書いておられた記憶がある。森内さんの羽生さんに対する感情とすごく似ているように感じる。ぼくが数学科に在籍しているとき、代数学の演習の教員は川又先生だった。そして、川又先生の出張の際、加藤先生が代講でいらしてくださったことがあった。そのとき、事前に川又先生から「とてもユニークな先生が代講に来るから」と聞いていた我々は、加藤先生の挨拶のときのしぐさをみて爆笑してしまった。その際に、加藤先生が非常に動揺して、「川又くんは、私のことを、なんと言っていたのですか、いったいなんと」と最前列の学生にすがりつくように問い詰めた光景をいまだに覚えている。そのお二人に教わったあと、数十年して、もう一人の天才・黒川信重先生と共著を書くことになろうとは、縁は異なものである。もちろん、いうまでもなく、森内名人・竜王とのご縁についても。