『不思議の国のアリス』は数学的?

 ぼくは、小説ジャンルの中では推理小説が一番好きだ。
しかし、最近は、ほとんど新しい推理小説を読まなくなってしまった。それは、多くの売れている推理小説が、古典的なトリックの焼き直しに今風の物語やキャラクターを貼り付けただけのものだからだ。こういう作品が、新しい若い読者を獲得するのには異論はないが、自分で読むのは時間の無駄に思えるので、手を出さない。最近の作家でも、乙一(おついち)の推理小説だけは例外で、何冊読んでもみごとに騙されるので、ほとんどの作品を読破している。
そんな中、珍しく手を出したのが、小林泰三『アリス殺し』東京創元社だ。これを購入したのは、最寄りの駅近くの書店で何段もの面置きでプッシュされていたからであり、その上、ルイス・キャロル不思議の国のアリスをモチーフにしている、とポップに書いてあったからだ。

いやあ、久々に面白い、そして、とてつもなく奇妙なミステリーを読んでしまった。正直、何度も途中で投げたくなったが、それでも最後まで読破してしまったのは、『不思議の国のアリス』ファンだからに他ならない。これほど、アリスの世界観を見事に再現できる作家って他にいるだろうか、と思えるぐらいに、よく研究がなされている。
物語は、アリスの物語世界と、現実の世界で、同時に同じ形で起きる連続殺人事件を描いていく。登場人物たちは、みな同じアリス世界の夢を見ており、アリス世界では、三月兎やらとかげのビルやら、誰かのキャラクターとなっている。そして、殺人事件は、アリス世界と現実世界が一対一に対応しており、アリス世界と現実世界で同一の人物が、同時に殺されていく、という展開をするのである。例えば、冒頭には、アリス世界でハンプティ・ダンプティが塀から落ちて死ぬのだが、それは座っている場所に何者かが油を塗って滑りやすくしたことで起きた殺人であることが示唆される。現実世界では、ハンプティ・ダンプティの元の人物である王子玉男が屋上から何者かに突き落とされて殺される、という事件が起きるのである。
 この小説は、とにかく、読んでいると頭がおかしくなりそうになる。その理由は二つあって、一つはアリス世界のできごとや会話が、みごとに原作そのものであり、そのできごとや会話で頭がおかしくなりそう、ということ。もう一つは、現実世界とアリス世界の対応が何を意味しているのか、さっぱりわからず、作家の企みが見えてこないために、頭が混乱してきてしまう、ということである。もしかすると、多くのノーマルなミステリーファンは途中で投げてしまうかもしれない。
しかし、最後まで読むと、この作家が何をしようとし、なにを企てているのかが明らかになる。賛否分かれるかもしれないが、ぼく自身は、「すっげ〜」となった。本当に、最後の20ページ前までは、この事件は荒唐無稽で、単なるナンセンスファンタジーの作品なんじゃないか、と疑心暗鬼だった。でも、ちゃんと「ミステリーとして」の解決を持っていた。すべてが、ある意味で、「合理的」に解決した。
解決されてみると、ありとあらゆることが巧妙に仕組まれていることがわかり、舌を巻いた。特に、非常に読みにくい文体について、ぼくはそれをこの作家の特質(悪く言えば、ヘタクソな文章)だと思っていたのだが、実はそれこそがトリックを支える最も重要な要素の一つであることに納得し、その必然性に感動した。こういうことは凡庸な作家にはできないし、そもそもそんな危険な賭けをする勇気はないだろう。
 とはいえ、ぼくがこの破天荒な物語を読み通すことができたのは、不思議の国のアリスの世界観をこよなく愛しているから、ということは間違いない。きっと、この作家もそうなのだろう。そうでなければ、ほぼ同じ空間と時間とロジックを備えたアリス世界を、自分のオリジナルとして生み出すことなど不可能だからだ。
 ただし、一つだけ警告しておくと、終わり間際になって、相当にグロイ記述が展開されるので要注意、ということ。この作家の本領らしいが、ぼくは油断して読んでいたので、急にグロくなったときはちょっと参った。グロが苦手な人は、その辺を飛ばすか、そもそも読まないほうが良いかもしれない。
 ぼくが最初にルイスキャロル『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』を読んだのは、確か、中学3年か高校生1年のときだったように記憶している。書棚を探して出てきたのは、岩崎民平訳のバージョンで昭和47年の改訂四版だった。古い文庫本とはいえ、ぼろぼろになっているので、繰り返し読んだのだと思う。
 ルイス・キャロルが、チャールズ・ドジソンという数学者だと知ったのは、少しあとだったと思うので、当初は数学とは関係なく手にしたのであろう。しかし、この世界観が大好きになったのは、やはり、アリス世界が数学っぽい何かを感じさせたからに違いない。
 それでは、いったい、どこが「数学的」なんだろうか?
もちろん、ぼくは、自分が好きなものをなんでもかんでも「数学的」と評する悪癖がある。それは、カッコイイ音楽をなんでもかんでも「プログレっぽい」と評する心理と同じである。そうであることはさておき、無理矢理に解釈してみると、アリス世界の「数学っぽさ」とは次のような点だということができよう。
 第一に、「奇妙なロジックが延々と展開される」こと。アリス世界の登場人物は、私たちの日常ではあまり弄しないようなたぐいの論理を振り回しまくる。しかし、日常世界でそういうことが為されないのは、話がこんがらがってめんどくさいことになるからであって、決して、ナンセンスだからではない。日常のバランスを保つための慣習なのにすぎない。アリス世界では、そんな「社会の安定」などどうでもいいから、「論理的には正論」なロジックが炸裂しまくる。それが、なんだか小気味よいのである。実際、世の中には、アリス的正論を空気も読まずに発する人が時に存在する。数学者にそういう人の率が高いような印象がある。アメリカで数学者をしている友人が、数学科の会議が壮絶な様相になることを面白可笑しく話してくれるのだが、さながらアリス世界の議論そのものに思えて爆笑してしまった。数学の証明を、普通の人が読むと、たいていはその論理を追うことが不可能になり、数学とは非常に高度な論理を使っているように誤解するものだが、本当はそうではない。数学はゲンツェンの「自然演繹」に代表される非常に数の少ない記号論理体系を使っているだけであり、日常論理のほうがずっと高度な論理を用いている。日常では、記号論理で演繹されることをひとっとびに包含できるような、いわば「印象論理」を用いているから、理解するのに手間がかからないのである。アリス世界ではむしろ、このような「印象論理」ではなく「記号論理もどき」を展開しているために、屁理屈を延々と聞かされ続ける感覚になるのではあるまいか。
 第二は、「定義可能でありさえすれば常識から自由」という点があげられよう。例えば、「非誕生日のお祝い」とか、「チェシャ猫の、猫自体がいなくなってニヤニヤ笑いだけが残る」とか、常識を逸脱しているが、定義のしようはある概念が次から次へと飛び出すところが、「数学っぽい」と感じられる。
 ルイス・キャロルがアリスの物語を書いたのは、キャロルがロリコンで、実在の少女アリス・リデルの気を惹きたかったからだ、という説を耳にしたことがある(ルイス・キャロル - Wikipediaには、当時4歳のアリス・リデルの写真が掲載されている)。実際、キャロルはアリス・リデルの写真を相当数撮影しているらしい。キャロルの人生を映画化した『ドリーム・チャイルド』を観たことがあるが、そこに描き出されたドジソン像は、まさに、ロリコンで内向的な空想癖のある数学者、というものだった。一方で、ドジソンをロリコンとするのは俗説だ、とする意見もあるようだが、まあ、結局「何をしてロリコンと定義するか」に依存することになるだろう。
 ドジソンの数学者としての業績にはうといのだが、キャロル名義の『枕頭問題集』柳瀬尚紀・訳、朝日出版社を持っている。これは、「夜、ベッドの中のなかで目をさましたまま、頭の中で解いた」問題を集めたもの、ということが序文に書いてある。けっこう高度な問題も含まれるので、相当な数学能力を備えていることは間違いない。幾何の問題が多く、キャロル的なウィットのある問題は少ない。正当派の問題集と言っていい。
 ぼくは、若い頃は、数学ライターになりたい、という願望とともに、ミステリーやファンタジーを書きたい、という野心もあった。それで、当時から連載を持っていた(今も連載をしている)『高校への数学』東京出版という受験雑誌に「凍った扉と数をめぐる冒険」というファンタジーを連載したことがある。これは、ニュートリノという少女と、ボソン兄弟という双子男子の三人で、凍った国を冒険し、凍りついてしまった世界を元に戻す、という数学ファンタジーであったが、心の中では、アリス世界的なものを生み出したいと思って書いていた(興味ある編集者のかたは、是非、ご連絡ください)。
他方、ミステリーについては、大学生の頃に、とてもはまっていて、とりわけ変格ミステリと呼ばれるジャンルが好きだった。変格ミステリーとは、いわゆる通常の推理小説とは、描かれる世界観もトリックも異なり、破天荒な装いのものを言う。もちろん、『アリス殺し』もこのジャンルに入る新しい傑作である。当時のぼくは、変格ミステリーでは、小栗虫太郎黒死館殺人事件』、夢野久作ドグラマグラ』、中井英夫『虚無への供物』という、いわゆる三大奇書が大好きだった。とくに、『虚無への供物』は、いまだに、ぼくの中ではベスト・ミステリーだと思う。長くなったので、このあたりについては、次回にエントリーしよう。
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