宇沢先生の最新にして最後の著作が刊行されました!

 宇沢弘文先生の最新にして最後の著作が刊行された。それは、宇沢弘文の経済学 社会的共通資本の論理』日本経済新聞出版社だ。これは、これまでの本から既出の原稿を寄せ集めて再編集されたものではない。多少の条件付きではあるが、正真正銘の新著である。ちなみに、ぼくが解説を書いているので、その点からも是非、手にとって欲しい本である。

この本は、2005年3月に、先生が長年顧問をされていた日本政策投資銀行・設備投資研究所の設立40周年を記念して、私家版として刊行された原稿を編集・改題したもの。だから、誰の目にも触れたことのない新著ということではないが、ごく少数の関係者だけが読むことのできた秘蔵の原稿という意味では、貴重な掘り起こしの「新著」ということになったと思う。目次は次のようになっている。

    第1部 リベラリズムの経済学と社会的共通資本
第1章 アダム・スミスからジョン・スチュワート・ミル
第2章 ジョン・スチュワート・ミル木村健康先生
第3章 ソースティン・ヴェブレン
第4章 制度主義の考え方
第5章 社会的共通資本の考え方
    第2部 自動車の社会的費用と社会的共通資本
第6章 自動車の社会的費用
第7章 水俣病問題とむつ小川原の悲劇
第8章 「コモンズの悲劇」論争
    第3部 自然・都市・制度資本
第9章 コモンズと都市
第10章 地球温暖化と経済分析
第11章 社会的共通資本としての学校教育
第12章 社会的共通資本としての医療
第13章 社会的共通資本としての金融制度
第14章 社会的共通資本としての都市

この目次を見ればわかるように、本書は、宇沢先生の制度学派としての仕事である、「社会的共通資本の理論」についての総合的な解説である。しかも、2005年の私家版だから、かなり新しい成果を書いたものと言っていい。「新しい」というのは語弊がある可能性があるので、追加すると、「かなりこなれた論説」を展開している、ということである。
 ぼくのお勧めとしては、第一部。ここには、ぼくの知らなかった宇沢先生の学生時代、修行時代のエピソードが赤裸々に展開されている。もちろん、単なる与太話ではなく、それらのエピソードには、その後に先生が社会的共通資本の理論を打ち立てるヒントになることが満載なのである。これを読むと、一人の偉大な学者のライフワークが、大人になって唐突に生まれてくるわけではなく、少年期や青年期の勉強や実体験が大きな影響力を持っている、ということが理解できる。
 この第1部では、先生が青年期に、アダム・スミスやトマス・ペインやジョン・スチュワート・ミル、さらには小説家ロバート・スティーブンソンを読んだときの手応えがわかる。先生は、本当に十代後半の多感な時期に、これらの名著に挑んでおり、同じ数学科出身でありながら、ぼくとはあまりに違う知的生活を送っておられたことに驚かされる。資質の違いと言われればそれまでだが、過ごした時代の違いもあるのかもしれない。また、戦前の事件である「河合栄治郎事件」や、その弟子である木村健康氏の一高寮に関連した拘留事件などを回顧し、当時の宇沢青年の心に宿った義憤が描き出される。これらの事件は、数十年の時を経て、社会的共通資本のロジックを支える「誰が、共通資本を管理すべきか」という議論に結実していくことになった、とわかる。これらのことは、これまでの著作ではあまり明らかにされていなかった思想的経緯ではないか、と思われる。
 第二部では、先生の名著『自動車の社会的費用』岩波新書について、それがどのように社会的共通資本の理論の形成に関与していったかを論じている。先生は、『自動車の社会的費用』を書くときに、経済学の汎用的な分析法であるコスト・ベネフィット分析を超克して、次元の異なる方法を模索した。このときの経済学的な知的苦闘については、ぼくも市民大学のゼミや環境運動の講演の中で何度も拝聴してきて、経済学者となった今も、ぼくの研究上の礎となっている。その知的苦闘について、原著より簡潔に、より明晰に記述されている。例えば、次のような一節である。

新古典派経済理論の性格については、自動車の社会的費用というような問題を考察するときにまず問題とされる点を2つだけあげておきたい。
 第1の点は、新古典派の理論は、厳密に純粋な意味における分権的市場経済制度にのみ適応され、そこでは生産手段の私有制が基本的な前提条件となっているということである。したがって、自動車の問題を考えるときにまず取り上げられるべき道路という社会的な資源については、その役割を十分に解明しえないような理論的枠組みをもっている。
 第2の点は、新古典派理論では人間をたんに労働を提供する生産要素としてとらえるという面が強調され、社会的・文化的・歴史的な存在であるという面が捨象されている、ということである。したがって、自動車通行によって基本的な生活が侵害され、市民的自由が収奪されている、という自動車の社会的費用のもっとも重要な側面に十分な光を当てることができない。

この文のちょっとあとで出てくる、次の論説は、ぼくにとって非常に示唆的なものだ。

新古典派の経済理論が、このような非現実的な前提条件のもとに構築されていながら、長い期間にわたって経済学の理論的支柱を形づくってきたのは、どのような事情にもとづくのであろうか。そのもっとも大きな要因として、新古典派が、個々の経済主体の合理的行動にかんする公準から出発して、市場均衡のプロセスを定式化して組み立てられた、唯一の形式論理的に整合的な理論体系である、ということがあげられよう。形式論理的な整合性ということは、必ずしも現実的妥当性をもつということを意味しないが、経済学的な立場からの論証をおこなうためには、最低限要請されることでなければならない。
 さきにあげたような現代社会におきているさまざまな現象は、程度の差こそあっても、日本をはじめとして世界の多くの国々にとって共通のものであり、それぞれ大きな社会的問題となっている。したがってこのような現象を解明できる理論的枠組みの構築は多くの経済学者によって試みられてきた。しかし、これまでのところ、新古典派理論に匹敵しうる一般的妥当性と論理的整合性をもつ理論的体系は残念ながら作られてはいない。

このことは、まさにいま、ぼくが経済学者として実感している問題そのものである。先生は、数学科時代は、数論と数学基礎論を研究されておられたようだから、このようなメタ的な観点を持ち得ているのだと思う。そして、先生は、「このような現象を解明できる理論的枠組みの構築」への挑戦として、社会的共通資本の理論に賭けたのだと思う。また、この第2部では、原著では未達であった都市論について、その後の先生の研究を踏まえて自動車の社会的費用を論じている。そういう意味では、原著を読んだ人も、21世紀版「自動車の社会的費用」論として本書を読まれることをお勧めしたい。
 第3部は、学校教育、医療、金融、都市と個別の社会的共通資本について、それぞれ詳しく論じている。とりわけ医療については、先生の青年時代の夢が医師になることであったことからも、想いのこもった分析になっているので、誰でも感じるところの大きい論説であろう。
 もしかしたら、今後も先生の原稿が発掘される可能性もないではないが、とにかく、これだけの大量の未刊行原稿は今後はないだろうと予想される。宇沢弘文ファンも、また、初めて触れる若者諸氏も、この本を読まれることを強くお勧めしたい。宇沢先生の理論は、宇沢先生とともに消えゆくものではなく、この21世紀にも、力強く開拓されていく理論である。ぼく自身、本書を読みながら、まだまだ先生からいろいろ教えていただけることを確信し、心強く嬉しく思えた。