今頃になって、なんでか代数幾何が面白い
今回は、お正月から読みつないでいる代数幾何の教科書について紹介しよう。読みつないでいるのは、河井壮一『代数幾何学』培風館だ。
この本は、数学科の学部生だった頃に購入して、数学科の院試を受験している頃にチャレンジした本だった。
ちなみに、ぼくは、学部では代数幾何を専攻していた。残念ながら、好きだったから選んだわけではない。数論を勉強したかったがゼミの応募者が多く、成績が悪くて落とされたゆえ、やむなく選んだ専門だった。
堀川先生のゼミで、Mumford``Algebraic Geometry Ⅰ:Complex Projective Varieties'' Springer Verlagを輪読した。輪読した、と言っても、1章(20ページ程度)を終えたか終えないか程度で一年が終わってしまったから、ほとんど読んでいないに等しい。なぜそんなに進まなかったかというと、毎週、発表者が先生に撃墜されて、お説教を受けて終了、の繰り返しだったからだ。この体験談については、
堀川先生三部作とキング・クリムゾンの頃 - hiroyukikojima’s blog
続・堀川先生とキング・クリムゾンの頃 - hiroyukikojima’s blog
などで読んでほしい。
当時の噂に聞いたところでは、著者のMumfordは非常に変わった偏屈な人物だが、堀川先生は友人だったらしい。堀川先生は、実力のある数学者だったが、(ある事情←今回は略、があって)、なかなか教授になれなかった。それで親しい数学者たちが、Mumfordに、「堀川先生が教授になれるように推薦してあげてほしい」と頼んだのだそうだ。そのときのMumfordの答えは、「堀川はdifficultだから嫌だ」というものだったという。偏屈で有名なMumfordにdifficultと言われるとは、どんだけ堀川先生が困った性格だったかがしのばれる。
今、Mumford``Algebraic Geometry Ⅰ''が横に置いてあって、めくってみたが、表紙裏に雑誌の切り抜きが貼ってある。それは、『数学セミナー』に掲載された小平邦彦先生のコラム「ノートを作りながら」だ。思い出してみるとこれは、堀川先生がわれわれの体たらくに激怒した際に、自分で探して読むようにと命令したコラムだった。実際、これは今読んでもすごいコラムだと思う。ちょっとだけ引用しよう。
数学の本を開いてみると、まずいくつかの定義と公理があって、それから定理と証明が書いてある。数学というものは、わかってしまえば何でもない簡単明瞭な事項であるから、定理だけ読んで何とかわかろうと努力する。証明を自分で考えてみる。たいていの場合は考えてもわからない。仕方ないから本に書いてある証明を読んでみる。しかし一度や二度読んでもわかったような気がしない。そこで証明をノートに写してみる。すると、今度は証明の気に入らない所が目につく。もっと別の証明がありはしないかと考えてみる。それがすぐに見つかればいいが、そうでないと諦めるまでにだいぶ時間がかかる。こんな調子で一カ月もかかってやっと一章の終わりに達した頃には、初めの方を忘れてしまう。仕方ないから、また初めから復習する。そうすると今度は章全体の配列が気になりだす。定理3より定理7を先に証明しておく方がよいのではないか、などと考える。そこで章全体をまとめ直したノートを作る。
いやあ、小平先生でさえこのような勉強をしていたのだと思うと、数学の勉強って、荒行そのものだよな。
では、もとの話に戻ろう。Mumfordは難しすぎて歯が立たないので、院試の勉強のために、河井壮一『代数幾何学』を購入した。しかし、いくら読もうとしても、どうしても面白いと思えず、数行読んでは挫折、の繰り返しとなった。小平先生の勉強方法とは似て非なる状態だ(笑)。結局、学部時代には読まずじまいに終わり、院試にも落ちてしまった。それ以来、長い間、代数幾何の勉強は封印していた。
それがなぜ、今頃になってこの本を読み始めたか、というと、意外なことから代数幾何への興味がやってきたからだ。それは、雑誌『現代思想』の数学者リーマン特集で、黒川信重さんと加藤文元先生と三人で鼎談したことだった。その鼎談は、リーマンの数学と思想について、ぼくが聞き手となって、お二人からリーマンへの愛と敬意を引き出すものだった。
現代思想 2016年3月号 臨時創刊号 総特集=リーマン -リーマン予想のすべて
- 作者:小島寛之, 加藤文元 黒川信重
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2016/03/02
- メディア: Kindle版
その中で加藤先生の次の発言がずっと心にささっていたのだ。
加藤 (前略)
リーマンは、関数は一つの概念として自体存在、それ自体が存在するものだということをどうもやり始めているようなのです。それはリーマンの関数論へのアプローチにもよく表れています。リーマンは式をあまり書かないわけですが、関数を扱う上で非常に直観的なんです。例えば面というものを扱ってそれによって関数を書く。複素関数論の話になりますが、例えばリーマン球面上の正則関数は定数しかないわけです。そういう意味では、リーマン球面上の関数は特異点の位置で決まるわけです。このように、目で見てわかる幾何学的な状況で関数を書こうということを彼は始めたわけです。そしてそれが面の話になっていく。そうして彼は「関数は面である」ということを言い出すわけです。もちろん、そこまでだったらリーマンがいなくても誰か他の人がやったかもしれません。しかし、ここがとても大事なところですが、リーマンはその逆も言っているのです。つまり「関数は面である」というだけではなく「面は関数である」ということまで言い出した。要するに、面と関数は同じだということまで言っているわけです。つまり彼は関数を本当に見えるものとして捉えようとしていたわけです。(後略)
ぼくは、この発言を聞いたとき、正直、震えるような驚きを覚えた。加藤先生の念頭にある「リーマン面」というアイテムについては、予習して行ったせいもあって、多少の知識があった。けれども、リーマン面を考えたリーマンの頭の中にあったイメージが、「関数と面は同じだ」というとてつもない発想であるとまでは理解していなかった。だから、近いうち、そのことをもう少しきちんと理解したい、という願望が生じたのだ。
この鼎談から3年以上が経過してしまったが、今年の正月に、ふと戯れに、書棚から河井壮一『代数幾何学』を取り出して、ページをめくってみた。そうしたら、あら不思議、読めそうな気がしてきて、その上、すごく面白そうにさえ思えたのだ。
そして読んでみたら、まじ面白かった。どう面白かったのか?
1.この本は、代数曲線の話から始まっている(リーマン面ではなく)。
ここで、代数曲線とは、(xとyを変数とする多項式)=0という方程式で定義される曲線。ただし、曲線とは言っても、高校で習う放物線とか円とかとは異なる。xとyは複素数なので、4次元空間の中の(太さのある)「線」。その上、曲線を考えるのは、射影空間という特殊な空間だ。他方、多くの代数幾何の教科書は、リーマン面(複素平面の開集合をぺたぺた張り合わせて作られる多様体)から入るので、多様体のイメージがないとなかなか何をしようとしているかわからない。ぼくには、リーマン面より代数曲線のほうがイメージしやすい。それは、高校数学での知識が多少役に立つから。
2.この本は、図形的なアプローチをしている(代数的ではなく)。
普通の代数幾何の教科書は、代数的なアプローチをする。環とかイデアルとかヒルベルトの零点定理とか必ず出てくる。ぼくは、こういう代数的(環論的)アプローチになじめなかった。でも本書は、解説を、非常に図形的に展開する。図が描いてあるので、イメージを作って解説を読み進むことができる。この手法は、久賀道郎『ガロアの夢』日本評論社を想起させる。『ガロアの夢』は、証明を数式一辺倒ではなく、図形と言葉で展開した斬新な本だ。詳しくは、次のエントリーで読んでほしい。
ガロアの夢、ぼくの夢 - hiroyukikojima’s blog
実際、久賀先生の本で勉強して、拙著『完全版 天才ガロアの発想力』技術評論社で解説した「被覆空間」が、河井壮一『代数幾何学』でも重要な役割を果たしていて、非常に役立った。(皆さんは、被覆空間について、拙著のほうで勉強してほしい)。
3.この本では、代数幾何のおいしい話たちが早めに出てくる。
代数幾何には、ベズーの定理(m次曲線とn次曲線の交点数は、重複も含めると、mn個)とか、「2次元複素射影空間の解析的曲線は代数曲線」(複素微分可能な関数の零点で定義される曲線は実は多項式で定義されるのと同じ)とか、「2次元多様体の局所的正則関数の作る環では、因数分解の一意性が成り立つ」とか、かっこいい定理がいっぱいあるが、たいていの教科書では、たくさんのうんざりする準備のあとに解説される。でも、この本では、全体の3分の1ぐらい(60ページ程度)まで読めば、これらの証明を理解することができる。しかも証明が図形的なため、めっちゃ理解しやすい。
4.この本では、「関数と面とは同じだ」、の証明が、とてもわかりやすい。
この「関数と面とは同じだ」という定理も、本の真ん中くらいで出てくる。要するに、多項式f(x, y)=0で定義される代数曲線と多項式g(x, y)=0で定義される代数曲線があるとき、それらの「非特異モデル」が複素多様体として同型ならば(つまり、同じ形をしているならば)、それらの上の関数体は同型であり、逆もまた成り立つ、ということが示される。ちなみに、非特異モデルとは、代数曲線には自分同士で交わる点(特異点)が有限個あり得るが、その交差する点で一方の枝を持ちあげて立体交差にして、交わらないようにしたもの。
ただし、この関数体をちゃんと理解するには、多項式の作る環をイデアルで割った商集合を理解してなくちゃならないので(そいつの商体と同型になるから)、そのためには、拙著『数学は世界をこう見る』PHP新書を読むと助けになるだろう(笑)。
以上で、この本のおおよそ前半部分については紹介できたと思う。まさか、40年も経過してから、この本がこんなに面白いと思えるようになるとは想像もしなかった。タイムリープして当時の自分に教えてあげたい。この本の「はしがき」には、
現在活躍中の某氏が、かつて学生時代、「代数幾何をやらないやつの気が知れない」と言って、他分野の同級生達のひんしゅくを買ったという話があるが、そのような言葉が口からでるほど代数幾何はおもしろいものだということを伝えおきたい。
とあるが、このはしがきが、なまじ嘘には思えなくなってくるほど面白い。
ただ、この本の唯一の、そして無視できない弱点は、「具体例がほとんどない」ことだ。具体例がないと、実際、定理たちがどういう計算で確認されるのかがよくわからない。そのために、ぼくは、以前から買ってあった上野健爾『代数幾何入門』岩波書店を併読した。
この本は、もうまるで、河井壮一『代数幾何学』の「資料集」として書かれたような本であることがわかった。実際、この本では、次に読む本として河井本を勧めている。上野本は、厳密な証明に拘泥することなく、具体例で代数幾何の醍醐味を伝えた貴重な本だ。残る半分くらいは、河井本とは異なるアプローチをしているが、並行して読むと双方の理解が深まると思う。
ぼくが代数幾何を勉強したいもう一つの理由は、もちろん、スキーム理論やカテゴリー理論を理解して、リーマン予想の解決された部分を理解したいからだ。だから、河井本の残り半分もなんとか読破して、再度、スキーム理論にチャレンジしたい。
京都で宇沢先生の思想についてレクチャーします!
来週、京都のお寺で、宇沢先生の思想についてのレクチャーをする。具体的には、
『宇沢弘文を読む』
日時:2月17日(月) 17:00~19:00
場所:法然院
詳しくは、以下のサイトから↓
関西方面に居住の方は、是非、ふるってご参加ください。
宇沢先生の制度学派としての仕事「社会的共通資本の理論」については、先生のお弟子さんの一部が、継続して研究を進展させておられる。一方で、宇沢先生には、東大での教え子がものすごくたくさんおり、しかも、皆さんとても優秀で業績の高い方々であるのに、そのほとんどの方は「社会的共通資本の理論」に興味を示さず、貢献もしていない。その現状を打破すべく、宇沢先生のお嬢さんである占部まりさんが、(医師という職業を持ちながらも)、宇沢先生の思想を広め、深める活動をしておられる。今回のレクチャーも、お嬢さんが企画したものだ。
宇沢先生の弟子筋学者のほとんどの方が、先生の理論・思想に興味を持っていないのは、ぼくには、「悲しい」というより、とても「不思議」なことなのだ。
「社会的共通資本の理論」はそんなに魅力のない考え方なのだろうか。そんなに荒唐無稽な思想なのだろうか。
ぼくには全くそうは思えない。プロの経済学者となり、主流の経済学の研究をかなりな水準で理解できた今でも、その思いは同じだ。主流派の(新古典派的な)経済学の理論が、先生の理論・思想に比べて、突出して優れていて、段違いに「真実である」ようには全く思えない。
もちろん、主流の経済学は、数理モデルを使って構築する、というルールを決めたことで、「勝ち負け」を判定しやすくなり、「競争」に適するようになったのは事実だろう。将棋や囲碁のように、「競う」方法が明確になり、序列(ランキング)をつけやすくなった。そういう構造を作れば、「組織的秩序」を生み出しやすい。優れた知的能力を持った人々は競うのが大好きだから、そういう構造・秩序は動学的に安定的(進化ゲーム理論で言うところの、進化的な安定)であろう。
でも、経済学って、そういう学問でいいんだろうか?
ぼくはそういう素朴な疑問をぬぐえない。経済学は、「科学」であって欲しい、のと同時に、「思想」でもあって欲しい、というのがぼくの切なる願いなのだ。だから、単なる「数学的遊戯」に陥って欲しくない。
「社会的共通資本の理論」に対して、理論として曖昧過ぎる、という批判があるのもわかる。(そりゃ、主流派のようなルールの明確さがないからね)。あるいは、「単なる公共財の理論に毛の生えたもの」という評価もわかる。(公共財の理論も、非常に手厚く研究されているからね)。現在のぼくには、そういう批判・評価に抗する材料も成果もない。
ただそれでも、この理論・思想に中に、「空虚ではない何かの存在」を感じるのだ。
最初は、一般市民として宇沢先生に市民講座でレクチャーを受けて、この思想に素人の熱狂をしたのに過ぎなかった。その後、大学院で主流派の経済学の手ほどきを受け、主流派の経済学(ミクロ経済学やマクロ経済学や社会選択理論やゲーム理論など)の数理科学的なみごとさを理解した。そうした上で、というかそれだからこそやっぱり、主流派の経済学に欠けているものがあるという感触に至った。「欠けているもの」というより「届かないもの」と表現したほうがいいかもしれない。それは、喩えてみれば、力学方程式を足し算して行っても統計力学に到達しない、みたいな「届かなさ」だ。これについては、前のエントリー、
経済学で最も大事だと思うこと - hiroyukikojima’s blog
を参照して欲しい。宇沢先生もたぶん、同じことを感じて、新しい方法論を模索したのだと思う。その「届かないもの」にたち向かうには、「社会的共通資本の理論」のような制度学派の方法論を取り入れるしかないような気がするからだ。
そんなわけで、ぼくは先生のお嬢さんに協力しつつ、それをムチにして、バネにして、宇沢先生の思想の進展に自分を鼓舞しようとしている。今回の法然院のレクチャーをお引き受けしたのも、自分の研究活動推進の一環なのだ。
そんなわけなので、時間に余裕のある、関西方面在住のかたは(もちろん、日本のどこのかたでも)、是非、聴きにきてほしい。
WEBRONZAに新しい論考を寄稿しました!
WEBRONZAに、新しい論考を寄稿した。タイトルは、
数学女子に育てたければ、女子校に入れよ - 小島寛之|論座 - 朝日新聞社の言論サイト
というものだ。
このブログでは、主に、経済学や数学の理論の紹介、専門書・啓蒙書に対する書評、小説・映画・音楽のレビューをエントリーしている。
それに対して、WEBRONZAでは、経済学の論文から一般の人々にも価値があるだろう内容を引用して、できるかぎりわかりやすく、そして刺激的に紹介することにしている。だから、WEBRONZAでの論考は、理論よりデータ(実証)を重視している。
ぼく自身は、経済学の研究者としては実証を全くやっていない。けれど、最近、WEBRONZAの寄稿のために実証系の論文も読むようになっている。それはぼく自身にもすごく楽しく、また、勉強になることなのだ。執筆と研究の両面に効能を持っているのだな。
実証系の論文は、同僚や友人の経済学者から教えてもらっている。こういうことができるのは、学者のコミュニティにいるからで、そういう点では、学者になって本当によかったと痛感する。
映画『ジョーカー』はすごかった!
年末に家族で映画『ジョーカー』を観に行った。メディアやツイッターで評判を見ていて、気になっていたので、思い切って観に行ってみたのだ。
行ってよかった。いや、行くべき映画だった。
あまりのすごさに打ちのめされた。
昨年観た映画(テレビやレンタルも含む)で、邦画ベストは『天気の子』、洋画ベストはこの『ジョーカー』だった。『ジョーカー』については昨年だけでなく、ここ10年に見た邦画・洋画含め、ベストワンだと思う。
『天気の子』と『ジョーカー』には、共通するプロットがいくつかある。
第一は、貧困層を描いていること、
第二は拳銃が物語上で重要な役割を果たすこと、
第三は世界の崩壊を暗示していること、
この三つだ。
でも、すべての点で、『ジョーカー』のほうがプロットの扱いが勝っていると思う。もちろん、それは決して『天気の子』を腐そうとして言っているわけではない。『天気の子』にとっては、上記の三点はメインのアイテムではないから、別に勝ち負けを決めることに意味はない。再度言っておくが、『天気の子』は大好きな映画だ。
第一の点に関して言えることは、アメリカの貧困問題は、日本のそれに比して、本当に深刻だと言うことだ。だから日本の貧困は放置していいなどとは決して言わない。解決の道すじを作らなくていけないのは同じことだ。ただ、アメリカの貧困は相対的に深刻だと言いたいのだ。
ぼくが経済学者としてグッと来たのは、『ジョーカー』には主人公が病み、狂気に落ちていく貧困の、その社会的原因が、ある程度きちんと描かれている、という点だ。『天気の子』にはそういう社会性が欠落している。(別にテーマじゃないからいいんだけどね)。そういう意味で『ジョーカー』のシナリオは本当によく練られていると思う。
第二の点について言うと、『ジョーカー』では主人公が拳銃を手にすることは不可欠な展開だが、『天気の子』ではどちらかと言えば不要だ。もちろん、それなりの役割を果たしてはいるけど、無ければ無くてもいいアイテムだと思う。
第三の点については、どちらも大切なプロットだ。『ジョーカー』は一触即発の社会状況へのメッセージであり、『天気の子』は地球温暖化への警告ととれる。
とにかく、『ジョーカー』のシナリオはほとんど瑕疵が無く、展開も伏線も完璧と言っていい。観ている大部分の観客は、完全無欠の悪であるジョーカーに肩入れしてしまうと思う。そして、その悪の進化を観ながら、切なくて涙ぐんでしまうと思うのだ。
『ジョーカー』は、スコセッシ監督の映画『タクシードライバー』とよく比較され評されている。実際、スコセッシの撮影チームが撮影でサポートしたらしいし、『タクシードライバー』の主役ロバート・デニーロが『ジョーカー』でも重要な役を演じている。
しかし、ぼくには『ジョーカー』は『タクシードライバー』を凌駕した映画に思える。
もちろん、共通点は多い。『タクシードライバー』はベトナム戦争という社会問題を背景に持っている。また、一人の男が狂気に落ちていく過程を描いている。その過程で拳銃が重要なアイテムになっている。そして、大統領候補の暗殺を企てる点もプロットとして近い。
でも、どこか決定的に違うと思うのだ。
『タクシードライバー』は、どちらかと言えば、ハードボイルド映画のカッコ良さを追った映画であり、社会問題は刺身のつまでしかない。拳銃はハードボイルドのアイテムだ。でも、『ジョーカー』には、強い社会的メッセージと救いようのない経済問題を打ち出している。拳銃はどうしようもない究極の弱者である主人公に強さを与えていく特殊アイテムになっている。
とにかく、『ジョーカー』のような映画にはなかなか出会えないと思う。これが、「バットマン」というコミックヒーロー物のスピンオフであるとは驚きである。これを見てしまうとむしろ、「バットマン」が金持ちが道楽で正義をやっている胡散臭い人物に見えてきてしまうからやばい。
バットマン・シリーズで言えば、『ダークナイト』も傑作と言われているが、ぼくは観たけどピンとこなかった。それに対して、『ジョーカー』は本当に超傑作だと思う。というか、バットマン・シリーズである必要は全くないとさえ思うのだ。
離散数学と線形代数と計算量理論の絶妙なコラボ本
今回は、マトウシェク『33の素敵な数学小景』(徳重典英・訳、日本評論社)の紹介をしようと思う。
この本は刊行直後に入手していたにもかかわらず、読んだのはつい最近だ。なぜ、つい最近読んだかといえば、前回のエントリー、
二つの雑誌に寄稿しています! - hiroyukikojima’s blog
に書いたように、『現代思想』の特集号「巨大数の世界」で徳重さんの記事を読んだからだった。その記事には、本書の内容の紹介もあり、「ああ、そういうことが書かれた本だったのか」と判明して、興味がわいて、早く読んでみたいと思ってひもといたのだ。
そうしたら、予想外にとても面白い本だとわかった。
この本は、簡単にまとめれば、「離散数学と線形代数と計算量数学の絶妙なコラボ」というひじょーに面白いテーマを持っている本だ。そういうテーマの本はぼくは他に知らない。
33個の話題のうちの6個程度を読んだだけなので、本書を的確に書評できる段階ではないけど、読んだ話題はみんな面白かったので、この段階でエントリーしておこうと思う。
現段階で読んだトピックについて感想を簡単に言えば、「こんなことにも、線形代数が有効に使えるのか!」という驚きである。
もちろん、線形代数は微積分と並んで、最も多方面で役に立つアイテムであることは疑いない。物理学では言うまでもなく、統計学なんか線形代数の植民地と言っていいぐらいだし、経済学でさえところどころでお世話になる。
でも、それらの使用性は、「見るからに」なものなのだ。
それに対して、本書での線形代数の利用は、(離散数学の専門家以外には)かなり意表を突くものとなっている。
読んだ中で一番感心したのは、次の定理だ。
定理 平面上の四点で、どの二点間の距離も奇数のものはない。
これはもう、見るからに、離散数学(組み合わせ論、グラフ理論)の典型的な定理だ。そんなこの定理の証明に、まさか線形代数が大活躍するなんて思わないだろう。
詳しくは本書で厳密な証明を読んでもらうことにして、おおざっぱに証明の手筋をまとめよう。
まず、ベクトルの内積を用いて、「距離が奇数」という情報を「内積をmod.8で表したもの」に変換する。そのうえで、この情報を内積を並べた対称行列の階数の問題に書き換えるのである。そうすると、行列の積のよく知られた階数の性質に帰着され、鮮やかに解決される。
証明はトリッキーで意表を突くものだけど、それより何より、このような「定形外の問題」に対して、標準的な線形代数の技法が有効になる、ということ自体に感動する。
この例は「計算量」とは関係しないが、次のような問題が「計算量」の形となっている。
今、行列の積の計算を特定のアルゴリズムで計算機に実行させたとしよう。
脇道にそれるが、ファミコンの64かなんか買ったとき、スーパーマリオの新作のソフトだけまず入手した。そうしたら、そのCGがすごかった。3Dでまわりを簡単に見回すことができるのだ。当時、工学部で情報理論をやってる知り合いがいた。で、そいつとそのことについて話してたら、そいつが「小島さん。あれは、3Dの回転を瞬時に計算する行列計算のチップが入ってるんですよ」と教えてくれた。ゲーム用のチップに行列を直接計算するアルゴリズムが入っている、ということに心底驚いた経験をしたのだな。
さて、話戻って、行列の積の計算結果が正しいかどうかを検証するには、別のプログラムを組んで、実際に積をもう一度計算して答えを比較すればいいが、一般に行列の積のアルゴリズム実行には相当な時間がかかる。そこで、著者が提唱しているのは、1と0だけからなるベクトルを掛け算してみて、一致するかどうかを見ることだ。その際に、「計算間違いを検出できる確率は少なくとも1/2より大きい」ということが証明できるのである。だから、10個の01ベクトルで検証すれば、間違う確率は1/1000以下になる。01ベクトルとの積は簡単なアルゴリズムなので、これはかなり効率のいい検証法を与える。
行列の積に関する本書の別の話題もある。それは、「n次正方行列2個の積には、nの3乗回の積計算が必要だが、もう少し計算量を少なくできる」、という話題だ。これについては、訳者・徳重さんによる付録に、「Strassenの方法」が例示されている。2×2行列2個の積には、(2の3乗=)8回の積計算が必要なのだが、工夫をすれば、7回の積計算で済むというのである。ぼく自身は、計算機数学にはあまり関心がないが、「そういう風にやるのか」とちょっと驚いた。
本書の最も初歩の話題の中に、「フィボナッチ数」についてのものがある。フィボナッチ数列とは、
1項目と2項目が1
という出発で、
前の2項の和が次の項になる
という漸化式で与えられるものだ。
この数列が「ルート5」のかかわる無理数2個のべき乗を使って式表現されるのは、優秀な受験生ならだれでも知っている。また、その公式がいわゆる3項間漸化式の定番の解法で求められることも常識である。しかし、本書で著者は、「無限次元のベクトル」を使ってそれを線形代数の問題に帰着させて求めている。受験数学のテクニックとまっすぐ対応させることは可能であるけれど、線形空間の性質を無限次元ベクトルに適用するのを目の当たりにすると、線形代数を熟知していてもちょっとサプライズがある。「そっかあ、線形代数ってものごとをわかりやすくするなあ」とため息が出る。
以上は、本書のほんのわずかな部分にすぎないが、全体はさまざまなトピックで彩られているから、読んでいて飽きないと思う。ただし、ページをめくるごとに、トピックが難しくなることは覚悟しなければならない。そうではあるが、本書で使われる数学技術に通じていない人には訳者が詳しい補足解説を付録として書いてあるので、(意欲があれば)心配しなくていいと思う。
いやあ、線形代数ってほんとすごいんだな、と思い知らされる。是非、数学ファンには一読していただきたいものだ。
行列の理論についての図形的イメージを得たかったら、ぼくの『ゼロから学ぶ線形代数』講談社が大お勧めであることは言うまでもない。
二つの雑誌に寄稿しています!
現在、書店に並んでいる二つの雑誌に寄稿しているので、宣伝しようと思う。
ひとつは、『現代思想12月号 巨大数の世界』で、もうひとつは『現代化学12月号』だ。
現代思想 2019年12月号 特集=巨大数の世界 ―アルキメデスからグーゴロジーまで―
- 作者: 鈴木真治,フィッシュ,小林銅蟲,詩野うら
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2019/11/28
- メディア: ムック
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『現代思想12月号 巨大数の世界』では、ぼくは「巨大な素数は世界をどう変えるか」という論考を寄せている。
この特集は、タイトル通り、「巨大数」を紹介するものだ。冒頭の討論は、鈴木真治さんという数学史家のかたとフィッシュさんという(たぶんハンドルネームの)「巨大数論」研究者の方の「有限と無限のせめぎあう場所」というものだ。
ぼくは、このフィッシュさんという方を知らなかったが、ネット通の息子に聞いたら「ネットですごく有名な人だよ」と教えてくれた。なんでも、「グラハム数」という組み合わせ数学(離散数学)を使ってとんでもなくでかい数を定義する方法を刷新して、「ふぃっしゅ数」というのを提唱したとのことだ。
なるほどぉ、とても面白い。
ぼくはこの号で、「巨大な素数」についてのまとめを寄稿した。言うまでもないが、「巨大な素数」は、数理暗号を経由して、インターネットのセキュリティや暗号通貨の成立要件に関わっている(詳しくは、拙著『世界は素数でできている』角川新書や『暗号通貨の経済学』講談社選書メチエを読んでね)。
その原稿の中で、ぼくがこれまでの自著に書いてない新ネタとして、「ユークリッド・マリン数列」というのと、「スキューズ数」というものを解説した。
「ユークリッド・マリン数列」は、ユークリッド原論の中にある「素数が無限にある」証明で提示された素数列。要約すれば、素数2からスタートして、得られた素数すべての積に1を足した数の「1より大きい最小の約数」(自動的に素因数になる)を素数リストに加えることで順次得られる数列である。数学者たちは、この「ユークリッド・マリン数列」にすべての素数が現れると予想しているが、未解決問題だ。この数列を求めるには巨大な数の素因数を求めることが必要だ。しかし、それが困難なことから、数値解析からヒントをつかむのは難しい。したがって、解決にはゼータ解析のような超越的な方法が必要だと思われる。
一方、「1より大きい最小の約数」を「最大の素因数」に変えても「素数が無限にある」証明は可能だ。このようなプロセスで作られる素数列も「ユークリッド・マリン数列」と呼ばれるが、この数列に現れない素数は無限個あることが証明されている。本稿では、「素数5が現れない」という証明を紹介した。この証明は、高校数学での簡単なエクササイズで、しかし、ぱっと思いつくものではないので、高校の先生は是非参照して、生徒さんに出題してあげてほしい。
「スキューズ数」とは、素数定理(素数の個数を与えたり近似したりする定理)に関連して定義される巨大数である。ぼくは、この原稿を引き受けるまで知らなかったが、編集者さんに教えてもらって、慌てて論文をダウンロードして勉強した。これは「存在はわかっているのに、実体の特定が困難な数」の一例となっている。
本号の記事で、ぼくが個人的に面白かったのは、徳重典英さんの「大きな有限の中に現れる構造をめぐって」だ。実はこの徳重さんは(遠い昔の)知り合いだと思う。彼の最近の研究動向がわかって嬉しかった。
徳重さんの論考には、非常にエキサイティングなことがたくさん書いてあって楽しかったが、最もびっくりしたのは、次の最新の定理の紹介だ。
素数のみからなる等差数列でいくらでも長いものが存在する
この定理は、グリーンとタオが2008年に証明した。素数のみからなる等差数列については、中学生の頃から興味があったが、直近にこんな進展があったことは知らず、思わずのけぞった。しかも証明の技法は、徳重さんの解説によれば、エルゴード定理のようなある種の「ランダムネス」を利用するらしい。
さっそくグリーンとタオの論文をネットでみつけてダウンロードした。それによれば、現状、計算機数学によって発見されている最長の素数等差数列は、
56211383760397+44546738095860k; k =0 ,1,...,22.
の23個の素数からなる等差数列だそうだ。とても楽しい。
グリーン・タオの証明はまだ読んでいないが、がんばって読んでみたいと思っている。ちなみに、素数が等差数列を作る場合、面白い性質が知られている。すなわち、「n個の素数から成る交差がdの等差数列があるなら、dはnより小さいすべての素数で割り切れる」というものだ。実際、上記の交差d=44546738095860は、2から19までのすべての素数で割り切れる。(証明は拙著『数学オリンピックに問題に見る現代数学』ブルーバックスに載っているけど、残念ながら絶版。どこかの編集者さん、これを復刊しませんか?笑)
最後に『現代化学12月号』に対する寄稿についても簡単に紹介しておこう。これは、書評だ。三冊の本を紹介しながら、統計力学に対するぼくの想いを書いた。取り上げた三冊は次である。
是非、書店で手に取ってみてほしい。
経済学で最も大事だと思うこと
前回のエントリー、
宇沢先生のシンポジウムに登壇します! - hiroyukikojima’s blog
で、宇沢先生の追悼イベントAll About Uzawaに登壇することを告知した。そこで、学会だけでなくテレビでも大活躍の阪大の経済学者・安田洋祐さんと(および作家の佐々木さんと)鼎談すると言ったのだけど、その鼎談が思いのほか面白かった。というか、すごく刺激的だった。
そのこともあったので、このところ宣伝しまくっている拙著『世界一わかりやすいミクロ経済学入門』講談社に込めた思いと絡めて、安田さんとの議論について、ここで紹介してみたいと思う。
まず、ミクロ経済学で大事なのは、(マクロ経済学でもほぼ同じだが)、次の三つだ。
A.主体的均衡→経済主体が与えられた環境と情報の中で最適な選択をする
B.市場均衡→需要と供給がつりあう
C.主体的均衡と市場均衡のズレ
Cを少し説明すると、例えば、「ある主体がそれを飲むことに150円の価値があると評価しているジュースを100円で買うことができたら、50円の得(余剰)が発生している」、などだ。
ぼくは、以上のA、B、Cの中で初学者や専門外の学習者にとって最も重要なのは、(あえて言えば、唯一重要なのは)、Cだと思っている。つまり、AもBもどうでもいい。
「微分」が役立つのはAでだ。最適化に微分は不可欠だから。そういうことから、ミクロ経済学の講義で微分を教え込まれることになる。迷惑なことにも、だ。
微分が不可欠なのは物理学もそうだが、その意味合いはぜんぜん違う。なぜなら、「微分=力学」であり、もっというなら、物理学は力学を表現するために微分を発明したのだ(ニュートンの偉業だね)。物質現象では微分が本性だということなのだ。微分は物理学が発祥の地と言っていい。
だけど、経済学は(わざと口汚く言えば)物理学に追い付きたくて微分を輸入して、物理学を模倣しようとしたにすぎない。「限界革命(Marginal Revolution)」とかカッコ良く言っているが、なんのことはない、物理学へのコンプレックスの裏返しでしかないと思う。(もちろん、ミクロ経済学やマクロ経済学の論文では、最適化を無視したらダメなのは当然だ。主体が効率的な行動をしてなくていいなら、どんな結論も導けるから)。
以上のように、ぼくが思うに、微分は物理学では本質だけど、経済学にとってはそうではない。そういうふうな思想と思惑があって、ぼくの教科書『世界一わかりやすいミクロ経済学入門』講談社では微分を完全除外することにしたのだ。
次に、Bの市場均衡は、Aに比べれば有意義、ということはそう思う。でも、Bは単に「帳尻があう」ということを言ってるだけで、それだけではパワーがあるとはいえない。大事なのは、Cの「主体的均衡と市場均衡のズレ」なのだ。Cを言い換えると「価値と価格のズレ」となる。すなわち、
価値→個人の内面にあるもの
価格→集団で決まるもの
ということだ。そして、この「個人と集団との断絶」を理解することこそが社会というものを理解することであり、経済学の本領であり、初学者にも専門外の学習者にも最も大事なことだと思うのだ。ぼくの教科書は、この点に徹底してフォーカスしているのだと強く主張したいわけなのだ。
ではここで、冒頭に書いたAll About Uzawaでの安田さんとの議論のことに話を移そう。
この鼎談では、もちろん、宇沢弘文先生の理論と人となりについて語りあった。安田さんは、新古典派のときの論文(ワルラス均衡とブラウワー不動点定理の同値性定理)と「社会的共通資本の理論」についての論文とをひとつずつ解説した。以下、社会的共通資本の理論についてのほうだけ扱うことにする(前者も面白いんだけど)。
社会的共通資本の理論とは、市民の生活を支える自然資本・社会資本・制度資本のコントロールを通じて、より良い社会を実現する、という思想だ。この考え方に全く重要性を見ない経済学者が多いが、ぼくは非常に貴重な理論だと思っている。その手ごたえとして、ぼくが鼎談で挙げたのは次のようなことだ。
物理学では、熱現象の理論の構築に紆余曲折があった。熱現象とは分子の運動から生じるもので、分子一個一個はニュートンの力学方程式に従っている。だから、初期には、ニュートンの力学方程式を集団に適用すれば熱現象が説明できる、と考えられた。しかし、それが大きな混乱を呼び起こした。力学方程式には時間の方向性がないが、熱現象には時間の方向性があるからだ。つまり、分子の力学的特性を足し算しても熱現象は説明できず、「熱現象は集団そのものの特性」ということだとわかった。言い換えると、「集団の特性=統計的法則」ということである。
これと類似のことが、経済学にもあるとぼくは感じている。
新古典派の理論(ミクロ経済学やマクロ経済学)は、主体の個別な性質を足し算したものだ。しかし、それで社会という集団に起こる現象を説明できないように思う。説明できないから制御もできない。
とは言っても、「経済現象における個の合計と集団とのギャップ」は、物理学におけるそれとは違うだろう。経済学の中で、統計力学を経済現象に応用しようとするアプローチも一部で行われているが、あまり筋がいいとは思えない。統計力学は物質の集団に関する統計法則だからだ。
宇沢先生の社会的共通資本の理論は、社会を「個の合計」としてではなく「集団」そのものとしてアプローチしようとする試みだと思っている。だから、新古典派がぶつかっている壁を打ち破れる可能性を秘めているように思える。
もちろん、新古典派で飯を食っている「信者たち」は、こういう考えを妄想と揶揄することだろう。
驚いたことに、安田さんはぼくのこの考え方に一定の理解を示してくれた。安田さんの感覚では、社会を「個の合計」ではなく「集団」そのものとしてアプローチするのがゲーム理論だ、ということだ。その証拠に、「囚人のジレンマ」に代表されるように、個人の合理性が集団の不合理性を生むことが自然に起きる、という。
なるほど。
さすが、安田さん、筋がいい。
たしかに、ゲーム理論こそ、「個」と「集団」の断絶、主体的均衡と市場均衡のズレを表現できる現状唯一の理論であろう。そういう意味では、社会的共通資本の理論に最も有用なのは現状ではゲーム理論かもしれない。
それでもぼくは、先ほどの自分の妄想にもう少し執着していたいのだが。
さて、回り道したが、もういちど我が教科書『世界一わかりやすいミクロ経済学入門』講談社の特性に戻ろう。この教科書では、Aの点は無視した。つまり、微分も、その代替物である無差別曲線も、削除している。その上で徹底したのは、「個」と「社会」とのズレがどこにあるか、というCの観点だ。そして、企業の理論では、限界費用とかのAの観点は無視して、ゲーム理論だけに道具を集中している。
この教科書は、ただの簡素化ではなく、ぼくが思う「経済学の本性」を思想として塗りこめた本なのだ。