「無限」に挑む物語

 いやあ、めちゃめちゃ忙しくて、かなりブログをご無沙汰しちゃってる。
なにせ、ぼくの新著が、6月からの4ヶ月で四冊も矢継ぎ早に刊行される予定なので、原稿の校正とゲラの校正が途切れなくやってくる。そればかりか、朝日新聞のコラム「小島寛之の数学カフェ」(火曜朝刊)も、短いコラムとはいえ、毎週締め切りとゲラの確認がまわってくるので、思ったより大変だ。しかも、その上、学術誌に投稿する論文も並行作業している。そんなこんなでなかなかこのブログを更新することができないのだ。
 刊行される4冊のうち、1冊は数学者・黒川信重さんとの共著リーマン予想は解決するのか?ー絶対数学の戦略』青土社。これは、6月中に刊行されるはず。内容は、今解決の瀬戸際に追いつめられている(ほんまかいな)リーマン予想について、その攻略の手筋を一般向けに解説したものだ。黒川さん呼ぶところの「絶対数学」、専門的には「F1スキーム」という数学のわかりやすい解説本である。ぼくと黒川さんの雑誌『現代思想』での対談に、新しい対談を加え、黒川さんの一般向け解説論考と、ぼくの書き下ろし初心者向けレクチャーを収録したもの。けっこう珍しい作りの数学書になったと思う。この本のついては、刊行された頃にまた宣伝させていただくつもり。
 他の1冊は、ぼくのデビュー作『数学迷宮』の復刻版だ。これは何かの事故でもない限り、8月に角川ソフィア文庫から刊行される予定になっている。この本は、1991年刊行だから、もう18年も前の本だ。ぼくの最も大事な著作であり、いまだにこれを越える本を書けたかどうか、自分に自信がないほど、ぼくの最高傑作に近い(と自分で思っている)本である。長い間絶版になっていて、著者としてはとても不本意だったので、この本が復刻されるのはとても嬉しいことだ。角川の編集者には、感謝の言葉をいくら言ってもいい足りない。今、改訂作業をしているのだけど、ほぼ完全な書き換えになる予定。原著の3分の1は数学小説なのだが、これはほぼ原型をとどめないほど書き換えてしまった。他の三つの章も、今のぼくの知識を総動員して書き換える予定である。この本のプロット自体は、めちゃくちゃスゴイと我ながら自画自賛なのだが、何せ18年前のぼくのオツムが書いているので、知識が貧困だったことは否めない。今なら、もっと冴えた書き方ができる。18年の間のぼくの知的成長をご覧いただきたいと切に思う。
 さて、そんな作業をしながら、最近入手したのが、チャールズ・サイフェ『異端の数ゼロ』早川文庫である。この本の目次を見たとき、あまりにギクッとなり、心底肝が冷えた。だって、コンセプトが、ほぼ『数学迷宮』と同じなんだもん。

異端の数ゼロ――数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

異端の数ゼロ――数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

この本は、数学における「ゼロ」「無限」「無限小」といった概念を、歴史を交えながら解説する、実にエクサイティングな本だ。コンセプト自身は、ぼくの本とかなり近いが、向かっていく先はぜんぜん違ったので、ほっと胸をなで下ろした。しかも、原著の刊行は2000年。ぼくのほうが出したのは先だ。笑い。
 最初の数章は、ゼロの発見に関する古代の物語で、ここは数学エッセイストのぼくにはさすがに退屈だった。(もちろん、若い読者には刺激的だろう)。そして、途中で、「アキレスと亀」や「カントールの無限論」や「微分における無限小」などを経由する。ここんところが、『数学迷宮』とかぶるのだが、感受性のありかたが違うので、ここも大丈夫。圧巻なのは、最後の数章だ。ここでは、量子力学一般相対性理論における「ゼロ」と「無限」の矛盾を提示し、その解決としての「ひも理論」へと足取りを進めてる。ここは、実にすばらしい。めちゃめちゃ興奮した。著者はこう書いている。

量子力学相対性理論が併存するところにはゼロがある。二つの理論が出会うところにはゼロがあり、ゼロは二つの理論の衝突を引き起こす。ブラックホール一般相対性理論の方程式の中にあるゼロだ。真空のエネルギーは量子力学の数学に現れるゼロである。宇宙史のもっとも謎めいた出来事であるビッグバンは、どちらの理論にも含まれるゼロだ。宇宙は無から生まれた。そして、宇宙の歴史を説明しようとすると、どちらの理論も破綻してしまう

 とりわけ嬉しかったのが、「カシミール効果」の詳しい説明があったことだ。カシミール効果とは、金属板をものすごく至近に近づけると引き合う、という現象であり、カシミールとポルダーという物理学者が提出したものだ。「カシミールは、それが無の力の影響であることに思い当たった」と著者は書いている。著者の説明によれば、不確定性原理が関わっている。このカシミール効果は、実は、リーマン予想は解決するのか?ー絶対数学の戦略』青土社の対談の中に何度か現れる。つまり、リーマン予想の主役であるゼータ関数と関係があるのだ。以前にも書いたが、1+2+3+4+・・・とすべての自然数を加えると、普通の収束の定義では「発散」するのだけど、別の収束の定義では、マイナス12分の1(−1/12)になる。これは、要するにζ(-1)=−1/12ということである。実は、このことが、カシミール効果と深い間柄なのである。つまり、量子力学の中で、カシミール効果の計算をすると、この1+2+3+4+・・・=−1/12、という不可思議な無限和計算が現れるのである。カシミール効果のことを「不確定性原理」と「真空のエネルギー」を使って初等的に解説している本に出会ったのは初めてだったので、嬉しかった。このサイフェの本の細部をはしょった解説は、素人のぼくにちょうどよかった。
 いやあ、なかなか良い本であった。つまり、ぼくの『数学迷宮』とかぶらない形でこれほどのプロットを展開した、というのは、まったくもって良い本であった。途中からは安心して、そして最後まで楽しく読むことができた。