問題解きの効能のあれやこれや

前回の日記、『キュートな数学名作問題集』出ました! - hiroyukikojimaの日記、では、新著の内容の紹介を書いたので、今日はちょっとちがった観点から、この本でのぼくのテーマについて書いてみようと思う。それは、日本には、「楽しい問題」「ツボをつく問題」「ぐっとくる問題」、まとめていうと「キュートな問題」みたいのをストックする風潮が足りないんじゃないかな、ということ。そういう文化というか、システムが定着すれば、もっと多くの人が学問の楽しさを知り、知的文化が醸成されるんではないかと。
 たぶん、日本の教育界、とりわけ教員たちは、数学(にかぎらずどんな分野でも)の問題は、トレーニングにさえなれば、その内容はなんでもいいと思ってるんじゃないかな、と思う。これは昔スポーツ界に蔓延してた根性主義に似ており、さらにいうなら、栄養さえとれればどんなに不味くてもいいというスタンスだった昔の給食の発想にも通底する。不味い長ネギ、タマネギを無理に食おうとすると逆流してしまうぼくには、給食という「拷問」への恨みつらみはいまだ大きい。笑い。要するに、「教育」というのが、サービス産業である、ということが抜け落ちてる、ってことなのよ。ユーザーの苦痛とかは無視の「してやってる」目線だったんじゃないかな、と思われる。だから、数学の問題は殺風景なものばかりだった。そんな風だったから、日本における「勉強」は、単なる「我慢比べ」に他ならず、忍耐強い人間が勝ち、感受性が豊かなほどついて行けなくなりがちだったに違いない。今回の新著は、そんな「感受性豊かなあなた」にむけたサービス精神旺盛な問題集なのである。
 それに対して、アメリカやヨーロッパには「問題自身を魅力的に演出しよう」という風潮が確実にある。輸入されてくる問題群は、とてもキュートなものが多かった。数学だけでなく、経済学や統計学の分野でもそうだった。もちろん、輸入されるということは、そこでセレクションがかかってるから、当然魅力的に決まってる、という反論もあるだろう。でも、仮にそうだとしても、じゃあ日本にも輸出できるほどのキュートな問題集や参考書があるだろうか、というと全くそうは思えない。
 ぼく自身は、中高生の頃は、問題解きには全く関心がなかったから、日本がそういう不毛地域であることは気にならなかった。数学は、美しい定理や法則を鑑賞すべきものであって、決して「解く対象」ではなかった。それは、中高生の頃のぼくにとって女の子が、「鑑賞する対象」であり、決して「くどく対象」でなかったことに似ている。(一部の旧友から「嘘付け」との異論が出そうだが、ほんとにそうだったんだってば)。問題解きを始めたのは、数学者の道を断念して、塾の先生をやり始めた頃からだった。問題解きをし始めて思ったのは、このようなことをもっと数学科在籍中にやっておくべきだったってこと。やはり、問題解きの効能は大きい。それは、学科能力が上がるかどうか、ということよりもむしろ、「その概念の本質をつかむ」とか「自分にとって不明瞭な部分のあぶりだし」とか、何より、「その概念への愛着が湧く」というような効能があることが実感された、ということだ。
 ぼくは、問題解きをするとき、ものによって目的によって制限時間を変えている。大学受験問題を『大学への数学』などで参照するときは、ほぼすぐに答えを読む。時間をかけて解くことに意義を感じないし、解く意欲もわいてこないからだ。だって、大学受験の問題は、単なる「篩いわけ」の問題だからね。解法のコツを記憶にストックすることだけに意義があり、それには自分で解く必要はない。それに対して、数学オリンピックの問題に凝った時期があって、そのときは20分の制限時間でアプローチした。それ以上だらだら考えたりはしなかった。しかも、きちんと計算したりせず、「方針」だけをあれこれ思案して、それを決めたら、あとは即座に答えをみた。なぜなら、この手の問題は、「とっかかり」を間違えていたら、どうがんばっても答えにはたどりつけない。逆に、「問題のツボ」さえおさえてしまえば、あとは丹念にことを進めればいつか必ず解答を完成できる。出場選手でない限りは、きちんと答えを完成させること自体にはたいした意味はない。当時、確か、20分ほど何かを待たなければならない退屈な仕事が定期的にあり、そのときはいつも数学オリンピックの問題集を持参して、今いったような試みをしていた。誤解されると困るので念のため言っておくと、さすがに数学オリンピックの問題は難しく、5題に1題くらいしか正しい手筋を発見できなかった。でも、この経験はその後、数学オリンピック問題にみる現代数学講談社ブルーバックスという本にまとめることにでき、これはぼくの本の中では販売成績がよかったので、かけた時間の分は報われた。
 専門書の数学書を読むときは、練習問題は解かないことにしている。専門書の練習問題の多くは、単に「本文で紹介したかったが紙数や構成上の都合で入れられなかったような問題」であることが常で、決して、読者の便宜のためなどではさらさらないから、手を付けるのは百害あって一利なしだと思っている。
 問題解きのとき、お勧めなのは、気心の知れた数人で議論しながら解くことである。これは、とても効果的である。まず、同じ問題を見ても、人によって感じ方が違う。複数の人の感触を合体すると、問題の本質が浮き彫りになったりするものだ。どの人も独力では解けないのに、集まって議論すると解けてしまう、ということはままある。それは普通の問題解きでもそうだが、ほんちゃんの研究でもそうであり、共同研究をする効能はそこにある。
 それで思い出すのは、30代後半になってから経済学部の大学院に入ったときのことだ。このときは、大学院重点化の方針が出されたため、各大学院は定員を増やし、アメリカ流の丁寧なレクチャーをするようになっていた。ぼくが入学した東大経済学研究科では、コースワークと称して、とても丁寧な講義と、毎週の宿題とティーチングアシスタントによる解答+添削がなされた。教育のサービス精神とはこういうものであろう。ぼくらは、出された宿題を、院生みんなで談合して共同で議論して解いた。このときの勉強会は本当に有意義だったと今でも思う。経済学部出身でないぼくには、いろいろな経済学の「常識」や「情報」を学部卒の同級生たちから吸収できて、すごくありがたかった。コースワークの先生も、ミクロの一般均衡は神谷和也先生、ゲーム理論は神取道広先生、マクロの景気循環植田和男先生、成長理論は岩井克人先生と超豪華であった。みんなその道の世界的権威だったからだ。それだけではない。とりわけ、神谷先生と神取先生は、相対的に若くて、アメリカに留学していた頃の経験から、アメリカ流の「キュートな問題」をたくさん知っていて、それを宿題に出してくれた。それらの問題は、解く気になるに十分な魅力を備えていた。途中で、神谷先生の出題する問題のいくつかは、ヴァリアンという人の書いた『ミクロ経済分析』の2nd edition からであることがわかって、ぼくはこの本のほとんどすべての問題を自分で解いた。この本には(ただし2nd edition)「キュートな問題」がけっこう含まれていて、その後の研究生活のモチベーションを高めてくれた。神取先生のレクチャーはあまりにすばらしく、(あり得ないことだが)大学をクビになったら、うちの塾にスカウトしようと真面目に考えたくらいだ。実際、塾・予備校で働いた経験から言っても神取先生はベスト5に入るレクチャーのうまさである。宿題も毎回楽しく、解いているだけでゲーム理論の「ツボ」がわかるものだった。彼らがこのような魅力的な問題を宿題に出せたのは、アメリカの教育を受けて、「キュートな問題」の効能が体にしみついていたからだし、何より、サービス精神が旺盛だったからに違いない。
 そんなこんなで、長くなったものの、言いたいのは、日本にも「キュートな問題」文化の土壌を、ということで、自分なりに一石を投じようとして書いたのが、新著『キュートな数学名作問題集』ちくまプリマー新書だってことなのだ。

キュートな数学名作問題集 (ちくまプリマー新書)

キュートな数学名作問題集 (ちくまプリマー新書)

 さて、最後になるが、最もぼくが時間をかけて考えたのは、現在、論文を書いている問題である。これは、5年くらい前に、当時共同研究をしていた人に出された問題だ。それから悪戦苦闘の数年となった。ずっととっかかりさえつかめず、外堀をうろついているだけだった。無理だろうという諦めにも何度もいたった。とっかかりを掴んだのは去年である。プールを歩きながら、考えたら、ふとヒントが得られた。そして、先月、現在の共同研究者とある有名論文をいっしょに読解しながら、そのツボを議論しているとき、重要なヒントを得られた。その現状でたどついている「解」は、ぼくにとっては、探し求めていた「解」に近い。5年考え続けた甲斐があったとつくづく思う。問題自体は、単に、「ある集合関数の係数が正となる条件」を探す、というちっぽけな大抵の人にとってどうでもいい問題なのだが、ぼく自身にとってはそれはこの上なく「キュートな問題」なのだ。なぜなら、それは、もっと長いこと考えている、たぶん、宇沢先生に教わって以降20年くらい考え続けている「貨幣は経済にとってどんな本質的な役割を持つか」という問題の、その解答の一端になるものだからである。
 うわあ、また長くなっちまったい。一応、本文中に出てきたもう一冊のほうも以下にリンクしとこう。