酔いどれ日記4

  今日は赤ワインを飲んでる。シャトーヌフ・ドュ・パプを3杯目ぐらい。ぼくが論文を書いている分野にシャトーヌフ先生という大家がおられるので、この名前のワインはいつも拝みながら飲む。

 今日は、ヨルシカのブルーレイ『前世』を観ながら、エアロバイクをこいだ。ヨルシカのこのライブは、水族館で収録したもので、顔をさらさない彼らのライブとしてはとても良いアイデアだと思う。青く幻想的な世界の中での演奏を楽しむことができる。すべての曲がいいけど、とりわけ『言って。』のオープニングには痺れた。suisさんが「言って」と歌いだすまで、この曲だと気づかなかった。みごとなアレンジ。

 エアロバイクをこぐときは、ライブ映像をかけるんだけど、どれも何十回も観たものなので、音だけ聴いて本を読むことが多い。ここ数ヶ月ずっと代数幾何学の専門書ばかり読んできたので、ふと小説が読みたくなって、ここ二回は村上春樹『女のいない男たち』文藝春秋を一編ずつ読んだ。

一編目は『ドライブ・マイ・カー』、二編目は『イエスタディ』。どちらも面白い短編だったけど、『イエスタディ』のほうが好きかな。

『ドライブ・マイ・カー』は、三枚目俳優の主人公が、死んだ妻の不倫について、劇場までの送迎の運転手を務める女性ドライバーに話す物語。非常に細部を緻密に構成した物語だった。酔いどれ日記2に書いた通り、文学は(全部ではないかもしれないけど)非常に緻密な構成で書かれているものだ。この小説もその例に漏れず、お手本のような緻密な物語だった。

主人公が俳優であることが重要な役割を持っているし、その運転手の女性がなぜ運転が上手なのかもみごとに説明される。ただ、ぼくにとって少し残念だったのは、死んだ妻の不倫の理由がなんとなく予想出来てしまったことだった。別に伏線がはられていたわけじゃなく、長く生きてきたから、そんな感じだろうと、感づいてしまったんだね。

他方、『イエスタディ』のほうは手放しで楽しめた。大学生の主人公がバイト先で浪人生の男と友達になる。その浪人生は、東京育ちなのに関西に「語学留学」をしてまで完璧な関西弁を身につけた、というだけでもう爆笑で、その男がビートルズの「イエスタディ」を関西弁の歌詞で歌うオープニングなんか、もう絶妙である。

その関西弁男には、めちゃめちゃ綺麗な大学生の恋人がいる。幼なじみでずっと一緒にきたのに、大学入学のときに別々になってしまったのだ。その男女の恋の顛末に主人公が巻き込まれていくことになる。物語の展開は、村上春樹の常套手段という感じだけど、もともと村上文学のそういうティストが好きなので、十分に堪能できてしまった。

 村上春樹の小説を初めて読んだのは、大学生のときだった。当時の麻雀仲間だった友人の部屋で、ある女の子と一緒になった。その子はたぶん、友人のガールフレンドだったのだろうと思う。ガールフレンドの一人、と言ったほうが正確かもしれない。彼にはそういう子が数人いたらしいから。そのとき友人はなぜか外出しており、ぼくはなんだか、その女の子と彼を待っているはめになった。

沈黙に耐えられなくなったのか、彼女が唐突に「村上春樹の最新の小説を読みました?」とぼくに尋ねた。ぼくは、最近デビューした作家で、村上春樹という人が話題であることは知ってたけど、注目はしてなかった。「いや、読んでないけど、なんで?」とぼくは正直に答えた。そしたら彼女が「そう。わたし、読んで一晩中泣いてしまったんだ」とつぶやいた。

「一晩中泣いた」ということから安易に想像できるのは、「難病もの」のお涙ちょうだいの物語だった。でも、ぼくはなんかそういうたぐいじゃない予感がした。それはその女の子の持っている独特の雰囲気からの「予感」のようなものだった。

家に帰ってから調べると羊をめぐる冒険のことだった。記憶ではまだ単行本化されておらず。彼女は文芸誌『群像』に掲載されたのを読んだのだったと思う。ぼくは決意して村上春樹の小説を読みはじめた。まず、デビュー作『風の歌を聴けを読み、次に当然、続編1973年のピンボールを読み、そして満を持して羊をめぐる冒険を読んだ。

「打ちのめされる」とはこのことだった。こんなにすごい小説を書く若い作家が現れたなんてあまりに衝撃だった。当時はぼくはまだ小説家を目指していたから(鼻で笑いなさんな)、絶望的な気分になった。『羊をめぐる冒険』を読んだときは、一晩中とは言わないけど、感動の涙を流したのは女の子と同じであった。

それ以来、ぼくはできるだけ村上春樹の小説は読むようにしてきた。全部ではないけど、相当読んだ。そして、今も読んでいる。

 映画『風の歌を聴けも観た。この映画にはいろいろな意見があるとは思うが、ぼくはそれなりに評価している。なにより、真行寺君枝さんのフォルムがこの小説に出てくる女の子にぴったりだった。真行寺さんはぼくの好きなタイプの女優だった。「鼠」を演じた巻上公一さんは、ちょっときばりすぎだったと思うけど、こともあろうに「鼠」を演じるんだからしょうがない。巻上さんがリーダーのテクノバンド「ヒカシュー」も、多少聴いていたから、親近感が持てた。

最後に販促をさせてほしい。このブログはそのために書いているから。ぼくの村上春樹文学への批評(というよりはラブレターに近い)は、『数学的思考の技術』ベスト新書にしたためられている。

村上春樹トポロジー

1Q84」はどんな位相空間

暗闇の幾何学

の3章だ。興味がわいたら、是非、手にしてほしい。

 

 

 

 

酔いどれ日記3

昨日休肝日にしたので、今夜は飲んでいる。今、サンセールの白ワインを3杯目。赤ワインに比べて白ワインで好みのものにあたることはあまりないんだけど、サンセールだけはなぜかすごい好きなんだ。高級とかテオワールとかはよくわからないのだけど、この独特な匂いにはうっとりなる。

 さて、今回は、英語の勉強の話をしようと思う。

経済学の道に進んでから最も困ったのが英語だった。専門的な論文はたいてい英語だから、英語を読むのに時間がかかるとなかなか勉強が進まない。進まないとやる気も失せてくる。もっと困るのは、論文を英語で書こうとする場合だ。ほんとにどうやって書いたらいいのか途方に暮れた。

 ぼくの最初の論文は、ある先生の勧めで、財務省の『フィナンシャルレビュー』というジャーナルに投稿することになったんだけど、あとになって要約を英文で提出してほしいという依頼(というか命令)が来て、晴天の霹靂になった。途方に暮れたあげく、仕方ないから論文のイントロを青息吐息で英文化して、同期の英語に堪能な院生に頼んで校正してもらったんだ。そうしたらその人は、「小島さん、正直に言うけど、校正しようのないほどひどい英文なので、自分でやったほうが直すより早いかなと思って、小島さんの日本語の文を最初から自分で英訳しましたよ」と言われてしまい、ありがたいとともに、穴があれば入りたい気持ちになった。

 そんなわけで、英語をどうにかせんと前に進めんと思ったぼくは、師匠の宇沢弘文先生に市民講座で教わっていた頃に、宇沢先生が話してくださったことをふいに思い出したんだ。

宇沢先生は、東大数学科をぷいと退職してしまってフリーターをしていた頃、ケネス・アロー(のちにノーベル経済学賞を受賞することになるすごい経済学者)の論文を読んだ。そして、そこに間違いを発見し、修正の提案をし、さらには一般化した内容を手紙にしたため、アローに送った。それを読んで驚いたアローが、宇沢先生をスタンフォードに招聘した。それから宇沢先生の華麗なる経済学者の道程が始まったわけだ。(この辺の話は、拙著『宇沢弘文の数学』青土社で読んでほしい)。

信じられないことだが、宇沢先生は、スタンフォードに行ったときは英語がぜんぜんできなかったそうだ。本人の言によれば、「アローさん、こんにちわ」さえ通じなかったという。それでアローに「君は経済学はいいから、とにかく英語を身につけなさい」と言われて、いわゆる「おまめ」の立場に置かれたそうな。そんなある日、アローのゼミのみんなが黒板に書かれた微分方程式をめぐって、どうしたものかと思案にくれているとき、宇沢先生が黒板に出ていってその微分方程式を解いてみせた。そうしたらみんな、口をあんぐりと開けて、驚愕の表情になったという。先生は笑いながら曰く「サルが微分方程式を解いたかのような表情だった」と。まあ、先生特有のジョークだと割り引くべきだけど、「サル」と見なされるほどに英語ができなかったのは事実だったんだと思う。

 そんな先生がどうやって英語を身につけたかを、先生が教えてくださったのだ。先生は、英語の小説を読みまくったのだそうだ。子供の絵本から始まって、小学生の読む物語から、中高生の読む小説までむさぼるように読んだのだ。「英語を身につけるには、子供向けの小説を(辞書なしに)読むのが一番いい」というのが先生の持論だった。

 それでぼくも、宇沢先生を見習って、子供向けの小説を英文のまま読んでみることにした。最初にチャレンジしたのは、宇沢先生がすごく好きだったというトールキンホビットの冒険だった。これは正直、十数ページで挫折した。特殊な単語が出過ぎていて、かなり読み進めば理解できるのだろうけど、「知らない英単語なのか、それとも単なるキャラクターの名前なのかがわからない状態」に陥り、とてもじゃないけど読み進めることができなかったからだ。

ホビットの冒険」を断念したあと、もっと易しい物語にしようと思ったぼくは、オズの魔法使いを購入して読み始めた。そうしたら、驚くべきことに、(辞書なしで)最後まで読み通せてしまったのだ!これには我ながら驚いた。英文が易しかったこともあるけど、物語がめちゃめちゃ面白いのでずんずん進むことができたんだ。こんな有名な物語のオチを知らなかったぼくもぼくだが、それだけに、わくわくどきどきのまま、オチに驚愕することになった。(とんでもない小説だった)。

たった一冊だけど、この経験でぼくは勇気百倍になった。「可能なんだ」と知るのは、自信につながる。自信ができれば、コンプレックスが消滅し、前に進むことができる。そのあとからぼくは、自分の専門分野なら、英語の論文を読むことができるようになった。もちろん、大人向けの小説は読めないし、専門から遠い分野の論文も読めないままだけど、専門分野の論文だけはほとんど辞書なしで読めるようになったんだ。なぜなら、専門分野の専門用語は自然に英語で覚えているから、多少知らない英単語があっても大意はつかめるからなのだ。

 宇沢先生は、自分に英語能力がなかったことを悪るびれもせずに語ったあと、ぼくにこんなことを教えてくれた。「小島くん、森嶋の法則、というのがあってね。それは、英語能力と経済学の能力は反比例するというものなんだ」。これを聞いてぼくはめっちゃ楽しい気持ちなった。ここで言う森嶋とは、森嶋道夫先生のことで、LSEの著名な経済学者のことだった。

 『ホビットの冒険』を英語では断念したぼくだったが、とても気になっていたので、『ホビットの冒険』を日本語で読んだあと、同じトールキンの『指輪物語も日本語で読んでみたんだ。これはあまりにすばらしい物語だった。

トールキンは、この物語を自分の言語理論の実践として描いたそうだけど、現在のアドベンチャーゲーム異世界ものの原点となったほど画期的で、孤高の小説だった。それだけではない。普通の凡庸な冒険小説が、「鬼退治」に行ったり、「天下をとり」に行ったり、「魔女を倒しに」行ったり、「お姫さまを救いに」行ったりするのに対し、この物語は「権力の指輪を捨て」に行く、というとてつもない物語なんだよね。並の人間や妖精は、「権力の誘惑に負けて、指輪に操られてしまう」んだけど、何のとりえもないように見えるホビット族だけが「権力の誘惑」に打ち勝てる、という存在なんだね。こんなすごい物語をどうやって思いついたのか、と心底感心する。

たしか宇沢先生から聞いた話だったと思うんだけど、アメリカの反戦運動(たしかベトナム反戦運動だったと記憶しているんだけど)には、学生たちは『ホビットの冒険』を胸ポケットに入れてデモをしたという。(嘘だったら許せ)。

 『指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)』で感動したぼくは、大学への数学という受験雑誌に「ロード・オブ・ザ・リング(環物語)」という小説を寄稿した。これは、代数学の環(Ring)の魔力にとらわれた受験生がどんどん地獄に落ちていくパロディ小説である(自作ながらうろ覚えなので、多少違うかもしれない)。興味ある人は、『大学への数学』のバックナンバーで是非読んでくれたまえ。

 

 

酔いどれ日記2

今日は酒を抜くつもりだったのだが、ストレスが激しいため予定変更。マルサネの赤ワインをいま、2杯目。

昨日は、約2年ぶりにゼミ生たちとスタジオ入りをした。ぼくのゼミでは、講義とは関係なく、毎年ゼミライブというのをやっていた。音楽サークル系のゼミ生がバンドを組んで演奏し、ゼミ生が歌う。ぼくも数曲、ギタボで参加する。

去年がちょうどゼミライブ10周年にあたるのだが、新型コロナでやむなくオンラインで実施。ぼくは演奏しなかった。新型コロナが沈静化したので、やっとスタ練に入ることができた。ぼくは、エルレガーデンの「ジターバグ」「金星」の演奏にギタボで参加した。どちらもすばらしい曲だ。

エルレガーデンを好きになったときは、彼らが活動停止を決めてからだった。だから、なんとかライブを観たいと奔走したが、さすがにチケットが手に入らなかった。でも、アジカン主催のフェスに彼らが参加したため、横浜アリーナで彼らのライブ(最後に近いライブ)を観ることができた。あまりのすばらしい演奏に、感涙むせんだのを今でも覚えている。

 さて、今夜は、高校時代の国語の先生の思い出を書こうと思う。

中学時代は数学が最も好きな科目だったが、高校時代は現国が最も好きな科目だった。中学時代に数学が好きだったのは、数学の先生が数学科の大学院にまで行った若い先生だったので、その情熱に飲み込まれたからだ。その先生のおかげでぼくは、「素数マニア」になり、今年素数ほどステキな数はない』技術評論社という本まで上梓することとなった。その先生のことはこの本のあとがきで読んでほしい。しかし、高校時代には、数学の先生と感覚が合わなかった。もちろん、数学を教える能力は高かったけど、数学の不思議さ・深遠さとは縁遠い人たちだったからだ。

それに比べて、現国の先生には血気盛んな人が存在した。O先生はそんな人だった。例えば、芥川龍之介の「羅生門」を扱ったときは、B4のプリント2、3枚にびっしりと「問い」が書いてあった。小説の数行にひとつは問いがなされている体だった。あたかもソシュールのごときだった。

あるとき、その先生が高橋和巳の小説を薦めたので、生徒は誰もが読むものだと思ったぼくは一冊読んで、O先生に報告に行った。驚いたことに、読んだのはどうもぼく一人だったようだった。先生はよほど嬉しかったと見え、放課後に喫茶店につれていってくださり、長時間語りあってくださった。先生はたぶん『邪宗門』を読んでほしかったと思うのだが、へそまがりのぼくは『我が心石にあらず』を読んだのだ。この小説は、(高橋和巳の小説は常にそうだが)、インテリのひ弱さ、脆弱さ、そして虚偽を描いていた。『我が心石にあらず』では、主人公のインテリが不倫する女性が、最初は魅力的なのにだんだん醜さを露呈していくプロセスが(高校生ながら)たまらなかった。そんな話をぼくはO先生にいきって話したような記憶がある。

またまたあるとき、O先生は現代短歌について、生徒ひとりひとりに歌をひとつずつ担当させ、生徒なりの解釈を発表させる、という講義を行った。ぼくは、(たしか)塚本邦雄という人の歌、

鞦韆に揺れをり今宵少年のなににめざめし重たきからだ」

という歌を割り当てられた。鞦韆は「しゅうせん」と読むが、いわゆる「ブランコ」のことである。

何度読んでも、背後の意図をつかめなかったぼくは、ちょうど中学のときの数学の先生に会う予定があったので、その先生にこの歌をもちかけた。その数学の先生は文学にも強い興味を持っていらしたからだった。その先生は、「鞦韆が、終戦にかけており」、「重たきからだは、敗戦に対するものだろう」と解釈した。ぼくは、めちゃめちゃ「なるほど」と思った。 

それで、O先生の前で、意気揚々とその解釈を披露した。ところがO先生は、すこしひきつった笑みを浮かべて、「全く違う」と断じた。そうしてこのような解釈を披露した。「小島ね、少年が目覚めると言えばなんだ。わからんか? 性に対してに決まってるだろう」と。

ぼくは一瞬、あんぐりとなったが、その一方で数学の別解を知ったときの快感のようなものが脳を走り抜けるのも感じた。O先生の解釈が正しいのかはいまだにわからないが、ただ、その解釈に「文学的価値」があることは今ならわかる。文学の多くの部分は、「性」で成り立っているからだ。

O先生の現国には、結局、ぼくは大きな影響を受けたと思う。小説や詩や歌は、ただの感覚的や雰囲気だけで創作されているのではなく、数学のような緻密さ・厳密さで生み出されているのだ(かもしれないな)と悟ったからだ。

O先生は、ぼくらが卒業してから数年後、40代で急逝したことを人づてに知った。癌を患ったとのこと。教わっていた当時から虚弱な感じはしていたが、早すぎる、そして惜しすぎる死であったと思う。もっといろいろ教わりたかった。

 

 

 

酔いどれ日記1

これから、なんか、ブログっぽいことを書こうかな、と急に思い立った。

現在、リースリングの白ワインを3杯と、ペルノ-を2杯目。

飲みながら、チケットを購入した「TK from 凛として時雨」の配信ライブを鑑賞してた。ものすごい出来のライブだった。ゲスの極み乙女のちゃんまりがピアノとサイド・ボーカルでサポートに入ってる。すばらしい。

今日は、高校の同級生Hのことと当時好きだった女子の思い出を書こうと思う。

 高校の同級生だったHは不良っぽい男だった。

ぼくが通った都立高校は、(当時の都立高の)学区の中で一番偏差値の高いところだったけど、まあ、学区が下町だったんで、不良っぽいやつもけっこういた。不良でもそこそこ頭がいいというか、頭がいいけどそこそこ不良というか、そんな感じ。Hはそんな一人だった。バイクに乗るのが趣味だった。

ぼくは中学のとき、同級生の女の子に恋をしていた。別々の高校に進んでもまだ好きだったので、かれこれ6年弱は恋していたんだと思う。彼女は(当時の基準で)美人で、しかも才女だった。絵にも音楽にも才能があった。成績も良かった。学年の3分の2の男子が彼女を好きで、誕生日には処理しきれないほどのプレゼントをもらったみたいだった。ぼくもそんな3分の2の中の名も無い一人だった。ちなみに、彼女はぼくの著作『無限を読みとく数学入門』角川ソフィア文庫に収めた小説中で、Nというキャラクターで登場してる。

彼女は政治的な指向があり、高校生のくせに政治集会なんかに参加していた。ぼくも彼女に誘われて、何回かそういう政治集会に行ったものだった。政治とか革命とかに興味はないけど、彼女とつながっていたい一心だったんだ。

そんなある日、もう覚えていないが、何かの用で、ぼくの高校のそばで彼女と会うことになった。デートというのでは(まったく)なく、本当に何かの用事だったんだと思う。

それで、ぼくの高校のそばの喫茶店で彼女と会ったんだ。

彼女と向かい合って話していると、ちょっと向こうの席に、クラスメイトのHがいることにふいに気がついた。Hはぼくに気がついていた。ぼくらのほうを見ながら、ニタニタしていた。ぼくは、直感的に、「やばいことになった」と悟った。こんなところを目撃されたら、Hが明日学校で何を言いふらすかわかりやしない。もうぼくは、心ここにあらず、という状態だった。

でもHは、翌日、何も言ってこなかった。クラスでも言いふらしたり、しなかった。ぼくは肩すかしを食らったと同時に、Hのことを理解し直さなければならないな、と感じた。でも、そんなチャンスは訪れなかった。

なぜなら、それからほどない頃に、Hが亡くなったからだ。

Hはバイク事故で唐突にいなくなってしまった。道路わきの電柱に激突して亡くなったのだそうだった。担任の教師は、心痛な面持ちで、「とにかく、バイクには乗るな」とみんなを諭した。その担任に個人的に聞いたところでは、Hの事故現場には、自動車に幅寄せされた痕跡があったとのこと。しかし、証拠ははっきりせず、犯人らしきものも不明だということだった。

その後、ぼくは、あの日のHのニタニタ笑いが頭から離れなくなった。記憶の中では、ぼくと女の子Nを眺めながら、Hはずっと笑っている。Hのあの笑みは何だったのだろう。Hはぼくのことをどう思ったのだろう。その謎かけは今でもぼくの中に螺旋を描いている。

 

 

 

お酒にまつわる推理もの

また、間があいてしまった。オンライン講義に手間がかかってるだけでなく、非常勤(オンラインだけど)もやっているので、余裕がないのだ。とは言っても、Netflixで「イカゲーム」を一気観したりはしている。笑。これはめっちゃおもろいドラマだった。

本当は、

たくさんのインスパイアをもらえる熱力学の教科書 - hiroyukikojima’s blog

で紹介した、田崎さんの熱力学の教科書についてきちんとした紹介をしたいのだけど、時間と心の余裕が必要なので、また今度ね、ということにする。

 そんなわけで今日は、「お酒にまつわる推理もの」について雑談をしようと思う。(いつも雑談だけどね)。その前に音楽について、ちょっとだけ語る。

 このところ、ZTMY(ずっと真夜中でいいのに)ばかり聴いている。とりわけ、ライブ・ブルーレイ「温れ落ち度」の2枚を繰り返し観ている。何度観ても飽きがこない。ZTMYのリーダーACAねさんは、(前にも書いたけど)、「フランク・ザッパの再来」「日本のザッパ」「21世紀のザッパ」だと思うんだよね。2人の共通点を箇条書きすれば、

1. 楽曲が非常に複雑ながらそれでいてキャッチー。

2. 1曲の中に複数の曲が詰まっている構成。

3. あらゆるジャンルの音楽を取り入れてる。

4. 非常に多くの楽器を導入した編成(ZTMYでは奇妙な楽器が多く使われる)。

5. サポートメンバーが超絶技巧集団。

なんかがあげられる。違いと言えば、ACAねさんの歌詞はわけわかんない詩句だけど、ザッパのような猥歌ではなく、政治的でもないことかな。フランク・ザッパが93年に他界してから、もうこういう音楽は二度と聴けないのだろうと諦めていたけど、まさか日本の若い女の子が、新しい装いでザッパ的な音楽をやるとは想像してもいなかった(本人はこう言われると怒るかもしれんが)。長生きするといいことがある。

 さて、本題、「お酒にまつわる推理もの」に移ろう。ひとつずつ作品を紹介するけど、推理もの(ミステリー)なので、どうやったってある程度のネタバレになるので、読む人の自己責任ということで。

 1.  刑事コロンボ「別れのワイン」

これはぼくの知っている限り、ワインを扱ったミステリーでは最高の作品だと思う。犯人はワイン製造会社の取締役で、低レベルなワイン製造会社に自社を売り渡そうとする弟を殺してしまう。動機は、自分の会社のワインを誇りに思っていること。犯人は類い希なる味覚を持っており、ワインをこよなく愛している。そして、その味覚とワインへの愛が災いして、コロンボの罠にはまることになる。原題は、「ANY OLD PORT IN A STORM」で、こっちのタイトルのほうが抜群に良い。 なぜなら、最終的にポートワインが大事な役割を果たすから。ダブルミーニングでしゃれているのだ。ぼくは昔、この作品を録画したい一心で、やっと普及し始めたビデオデッキを買ったものだった。

 2. 刑事コロンボ「策謀の結末」

この犯人は、アイルランドからの移民で吟遊詩人。しかし、アイルランドのテロリストに武器を密輸出している。この犯人は、裏切りものの武器商人を抹殺してしまう。犯人はアリッシュ・ウイスキーを常飲し、しゃれた言葉遊びとユーモアを得意とする。コロンボは、彼の著作や来歴から犯人は彼だと確信し、追い詰めていく。この作品は、たぶん、ぼくの中でコロンボ作品のベスト3に入る。コロンボが犯人と意気投合しながらも、犯人のテロリスト的性向には共感しないのが胸をうつ。そして、アイリッシュウイスキーが何重にもトリックになっているのがあまりにみごとである。コロンボ屈指の作品と言っていい。

 3. 刑事コロンボ「祝砲の晩歌」

犯人は時代遅れの士官学校の校長。学校を共学に変えようとする経営者を殺害する。殺害の方法がまたすごい。祝砲の空砲を実弾と取り替え、雑巾を砲先に詰めておいて爆発させ、事故に見せかける。この作品の妙は、コロンボが生徒たちと一緒に合宿生活をしながら、生徒たちの証言をもとにして、真相に迫っていくこと。最終的には、生徒たちが密造しているリンゴ酒が犯人逮捕の鍵になる。犯人の軍人気質こそがぼろを出すポイントになる皮肉がまた切ないのである。

 4. ディック・フランシス『証拠』

フランシスの競馬シリーズの中の一冊で傑作。主人公は、競馬場でワインを売っているワイン酒屋。世捨て人のようにひっそりと生きている。けれども彼は、幼少の頃から優れた味覚を獲得しており、利き酒の天才でもある。主人公はひょんなことから、偽酒に絡む殺人事件に巻き込まれる。彼はスコッチウイスキーに混じるかすかな異物から、事件の真相に迫っていく。この作品には心底感動した。ハードボイルドタッチで、息つかせぬ展開。本当にみごとな小説だと思う。村上春樹っぽい作品。

 5. 勝鹿北星浦沢直樹マスターキートン』「シャトーラジョンシュ1944」

これはマンガで、厳密な意味ではミステリーではないが、推理的要素もあるので抜擢することにした。ドイツ軍に占領されていたラジョンシュの1944年が奇跡のブドウの年となった。そこでドイツ兵の攻撃の中、子供だった主人と使用人がドイツ兵の銃剣の刃をかいくぐって、命がけでブドウをつんで作ったビンテージワイン、シャトーラジョンシュ1944をめぐる物語。切なく胸をうつ小品だ。マスターキートンには傑作が多いが、これも屈指の一作。

 6. 相棒「殺人ワインセラー

相棒シリーズがワインを扱った作品。これは、コロンボ「別れのワイン」へのオマージュだと思ってる。佐野史郎さんが犯人を演じていて、それがあまりに名演技である。ワイン評論家やワイン通を皮肉っているのも相棒らしい。相棒には、お酒にまつわる作品が他にもいろいろあるが、これだけにしておく。

 7. Dr.House「命の重み」

ドクター・ハウスはアメリカの医療ミステリードラマで、本当に傑作揃いだ。この作品は、死刑執行が数日に迫った死刑囚が自殺をはかって危篤になるが、その動機も方法もわからない。ハウスはちょっとしたきっかけから自殺の手段を突き止める。秀逸なのは、ハウスがベッドで死にかけている死刑囚と、スコッチウィスキーを一気競争するシーン。最初、何をやっているかと思うけど、その真意を知ると驚愕する。この作品は、黒人問題と死刑制度に問題提起をしており、非常にディープな作品である。ハウスシリーズ屈指の一作と言っていい。観終わると、胸にジーンと迫るものがある。

 

 

シン・リーマン予想

今回も、基本的には、ぼくの新著『素数ほどステキな数はない』技術評論社の販促のエントリーなんだけど、「深リーマン予想ラマヌジャン」にまつわる話を紹介しようと思う。「深リーマン予想」は、数学者の黒川信重さんの命名らしいけど、ぼくは庵野秀明監督にあやかって、「シン・リーマン予想」と改名したいと思う。笑

庵野監督は、最近、「シン・ゴジラ」「シン・エヴァンゲリオン」「シン・ウルトラマン」と「シン」を連発しているんだけど、ご本人によれば、「シン」の解釈は「新」でも「真」でも「神」でもなんでもいいとのこと。だからもちろん、「深」でも良いはず。そこで「深リーマン予想」も「シン・リーマン予想」と呼ぶ。

 「シン・リーマン予想」とは、リーマン予想よりも強い予想のこと。つまり、「シン・リーマン予想」が証明されれば、自動的にリーマン予想が証明される。リーマン予想というのは、リーマン・ゼータ関数

\zeta(s)=\frac{1}{1^s}+\frac{1}{2^s}+\frac{1}{3^s}+\dots

に関する予想だ。この右辺は、(sの実部)>1に対しては収束するが、(sの実部)≦1では発散するので、それらのsに対しては「解析接続」という方法で値を決める。(解析接続は簡単に説明するのが困難なので、是非、拙著を読んで理解して欲しい。笑)。このゼータ関数についての、\zeta(s)=0となるsで、虚部が0でないもの(s=a+bi(b\neq0))、すなわち、「虚の零点」について、「その実部aがみんな1/2である」、という予想がリーマン予想だ。言い換えると、虚の零点が虚軸に平行な直線上に並んでいる、ということ。リーマンが予想を提出してから、150年以上経過した今も解かれていない超難問である(ミレニアム問題なので、解けば1億円もらえる)。

実は、ゼータ関数の親戚にL関数というのがある。それは、

L(s)=\frac{1}{1^s}-\frac{1}{3^s}+\frac{1}{5^s}-\frac{1}{7^s}\dots

というものだ(全奇数にわたり、±は交互)。ディリクレが研究したので「ディリクレ級数」と呼ぶが、オイラーも研究していたそうな。もっと一般には、

L(s, \chi)=\frac{\chi(1)}{1^s}+\frac{\chi(2)}{2^s}+\frac{\chi(3)}{3^s}+\frac{\chi(4)}{4^s}\dots

ここで\chi(k)は、ディリクレ指標と呼ばれるもので、整数から複素数へのmod. Nでの積を保存する写像だ。(詳しくは、拙新著を参照のこと)。このL関数にもリーマン予想と同じ帰結(虚の零点の実部はみな1/2)が予想されており、それを「L関数のリーマン予想」と言う。

これらのリーマン予想を攻略する新しい道筋として、2010年頃から研究されだしたのが「深リーマン予想(Deep Riemann Hypothesis;DRH)」なのだ。そして、この研究が進行する中で、すごいことがわかった。それは、ラマヌジャンがこのDRHの一部と思しき結果を1915年にすでに導出していた、ということだ。おそるべき数学者ラマヌジャン

ちなみに、拙著『素数ほどステキな数はない』では、ベルトラン予想「任意の自然数nに対して、nより大きく2n以下の素数が存在する」に対するラマヌジャンのあまりにみごとな証明を完全収録しているので、是非、読んでラマヌジャンのファンになってほしい(しつこい)。

 前回のエントリー

ぼくの新著で「素数名人」まで昇りつめてください。 - hiroyukikojima’s blog

では、ラマヌジャンの人生を描いた映画「奇跡がくれた数式」の紹介をした。そこでぼくは、「ラマヌジャンをイギリスに招聘したハーディをちょっと美化しすぎている」というようなことを述べたのだけど、黒川信重さんの『ラマヌジャン ζの衝撃現代数学社を読み直したら、これについてすごいことが書いてあったので、まずは、それを引用しよう。

ハーディとリトルウッドにとっては、ラマヌジャンがイギリスに来た1914年からラマヌジャンの書いたノートなどの数式は自分達の身の回りにあふれていて日常見慣れた風景になっていて、自分達のものと区別がつかなくなっていたようです。前にも触れましたが、ラマヌジャンが書いた式に間違いを発見すれば、ハーディとリトルウッドの2人だけで間違いを直し、2人だけの論文として盗んで発表するということもやっていました。

 つまり、ラマヌジャンのアイデアをどんどん吸収し、換骨奪胎して数学を作り上げて行くというのがハーディとリトルウッドの方針でした。数学界を引っ張っていくリーダーたちがこれでは20世紀の数学者たちが見習ってひどい状態となっているのは無理ないことなのかもしれません。21世紀に数学をはじめた君たちは、こんなまねをしないでください。

前回にもこの本からのハーディについての引用をしたけど、ハーディという人は、映画で描かれているのとはだいぶ違う人格の数学者だと思い知らされる。黒川さんのこの本には、黒川さん自身が同じような経験をしたことを告白している。どんなことかは本で確認されたし。

 さて、「シン・リーマン予想」の話に移ろう。

ゼータ関数の顕著な特徴は、「素数の無限積」で表わされる、ということだ。すなわち、

\zeta(s)=(\frac{1}{1-\frac{1}{2^s}})(\frac{1}{1-\frac{1}{3^s}})(\frac{1}{1-\frac{1}{5^s}})\dots

という全素数にわたる積で表わされる。これを「オイラー」と呼ぶ。なぜこうなるかは、拙著で理解してほしい(くどいと怒るなかれ。販促の故ですがな)。

L関数もオイラー積表現を持ち、以下である。

\zeta(s)=(\frac{1}{1-\frac{-1}{3^s}})(\frac{1}{1-\frac{1}{5^s}})(\frac{1}{1-\frac{-1}{7^s}})\dots

積は全奇素数にわたり、4n+1型素数については分子の符号はプラス、4n+3型素数については分子の符号はマイナスになっている。

「シン・リーマン予想」の着眼点は、「オイラー積の収束の様子を見る」ということだ。

L関数(無限和)は、(sの実部)>1で絶対収束する。ここで絶対収束とは、各項の絶対値をとっても和が収束することで項の順序を入れ換えられる。L関数のオイラー積も(sの実部)>1で絶対収束する(無限積(1+a_1)(1+a_2)(1+a_3)\dotsの絶対収束とは、無限積(1+|a_1|)(1+|a_2|)(1+|a_3|)\dotsが収束すること。積の順序を入れ換えられる)。

問題は、(sの実部)=1や0<(sの実部)<1ではどうなるか?ということ。L関数(無限和)は、0<(sの実部)≦1で条件収束することがわかっている(順序を変えずに足せば収束するということ)。他方、オイラー積は(sの実部)=1で条件収束することがわかっており(メルテンスの定理)、また、0<(sの実部)<\frac{1}{2}に対しては発散することが分かっている。だから問題になるのは、

\frac{1}{2}≦(sの実部)<1

でどうなるか。そこで、「オイラー積は\frac{1}{2}<(sの実部)<1に対して条件収束する」という予想が「オイラー積収束予想」と呼ばれる。これが証明できれば、L関数のリーマン予想は証明されてしまう。なぜなら、オイラー積が収束すればそれは非零(0でない)だとわかるからだ。オイラー積が収束か発散かを調べるのだから、具体性があり、零点全部の実部を考えるよりずっとアプローチしやすそうに見える。

そして、残るひとつ、「オイラー積は(sの実部)=\frac{1}{2}に対して(零点以外では)条件収束する」を「シン・リーマン予想」と呼ぶ。実は、この「シン・リーマン予想」が証明されれば、「オイラー積収束予想」もおまけとして出てしまう。なぜなら、もしも、\frac{1}{2}<(sの実部)<1のどれかのs_0で発散したとすれば、s_0より実部の小さい任意のsで発散することになるので、\frac{1}{2}でも発散することになるからだ。したがって、

「シン・リーマン予想」⇒「オイラー積収束予想」⇒「リーマン予想

というふうに演繹されるから、「シン・リーマン予想」が「リーマン予想」より強い予想であるとわかる。

ちなみに条件収束の雰囲気を理解するために、「メルテンスの定理」を記述しておく。慣れないと記号が難しいと思うが、条件収束を理解するためにはこうするしかないのでご容赦いただきたい。

\lim_{x\to\infty}\prod_{p\leq x, p\neq2}(1-(-1)^{\frac{p-1}{2}}\frac{1}{p})^{-1}=\frac{\pi}{4}

これは、x以下の奇素数についてのオイラー積を作っておいて、x\to\inftyとしているので、素数の小さい順からオイラー積に参加させていって極限をとっていることを意味する。つまり、オイラー積が\frac{\pi}{4}に「条件」収束することを表している。ちなみに、L関数のs=1のときの値L(1)は、上の定義から、

L(1)=\frac{1}{1}-\frac{1}{3}+\frac{1}{5}-\frac{1}{7}\dots

だが、これが\frac{\pi}{4}に収束することは、高校数学でも証明できる程度のことだ(tanの積分)。

「シン・リーマン予想」は、(証明しやすいか否かはさておき)、実証的に検証するには向いている定理である。以下の図は、プレプリント「EULER PRODUCTS BEYOND THE BOUNDARY」(KIMURA, KOYAMA,KUROKAWA(2013))をコピペしたものである(プレプリントのリンク先は一番最後に張る)。この図は、黒川・小山『ラマヌジャン<<ゼータ関数論文集>>』日本評論社にも、小山『素数ゼータ関数共立出版にも掲載されている。

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横軸は、\frac{1}{2}+ittを、各曲線は参加する素数を小さい方から10個、100個、1000個として計算した有限部分を表している(上図が実部で、下図が虚部)。この図で、オイラー積の参加素数を小さい順に増やしていくと、オイラー積の値がL関数の値に近づいていくことが見てとれる。「シン・リーマン予想」が正しそうな証拠だ。

面白いのは、ディリクレ指標を変えると不思議な現象が起きることである。

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上の図は、あるディリクレ指標に対するものだが、t=0でジャンプが見れらる。これは、L関数の1/2における値ではなく、その\sqrt{2}倍に収束するように見える。これも「シン・リーマン予想」の一部である。

(参考文献)TARO KIMURA∗, SHIN-YA KOYAMA, AND NOBUSHIGE KUROKAWA;

``EULER PRODUCTS BEYOND THE BOUNDARY''   https://arxiv.org/abs/1210.1216 

(このプレプリントの著者の一人の方に、きれいな図版のDLの仕方を教えていただきました。ありがとうございます!9/25)

以上のように、「シン・リーマン予想」の発見から、リーマン予想は新しい段階に入ったと言えるだろう。ぼくの新著では、この「シン・リーマン予想」に触れる余裕がなかったが、ぼくの新著でリーマン予想に触れた上で、(はい、しつこいですね、笑)、是非とも「シン・リーマン予想」に踏み出し、できますれば、これを解決して(1億円ゲットして)ほしい。参考文献を下にリンクする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぼくの新著で「素数名人」まで昇りつめてください。

ぼくの新著素数ほどステキな数はない』技術評論社が、書店に並んだ頃だと思うので、二回目の販促エントリーをしたいと思う。今回は、「まえがき」をさらして、それに補足をすることと、ラマヌジャンについてちょっと紹介する。一回目の前回は、

新著『素数ほどステキな数はない』が出ます! - hiroyukikojima’s blog

のエントリー。ここでは目次を晒してあるので、そっちも参照して欲しい。

ではまず、まえがきを披露しよう。次である。

素数とは、1と自分自身以外に約数を持たない2以上の整数です。みなさんは、素数のことを耳にしたことがあるでしょうし、また、素数は不思議な数だと知っておられるでしょう。本書は、そんな素数の魅力を余すことなく紹介する本です。

本書のウリを箇条書きすると次のようになります。素数に敬意を表し、番号は素数としました。

2.素数の法則を初歩から最先端までありったけ網羅した。

3.素数に挑んだ数学者たちの人となりを紹介した。

5.できるだけ本書内で知識が閉じる(self-contained)ように、必要な数学ツールに初歩からのわかりやすい解説を付けた。

7.素数のナゾを解き明かしながら、高校・大学の数学を自習できるようにした。だから、数列・場合の数・対数・三角関数・無限和・微分積分虚数合同式の参考書としても使える。

11.ゼータ関数について、これ以上簡単に説明するのはムリというぎりぎりの解説に挑戦した。

13.素数定理ベルトラン予想の証明を書ききった

17.素数を使う数理暗号について、わかりやすい紹介をした。

さて、あなたも是非、本書で、「素数名人」まで昇りつめて下さい。そうすれば、素数に恋するワクワク・ドキドキの豊かな人生を送れること請け合いです。

「ウリ」は見ての通り、7項目もあるのだが、今回は、青字で強調した二つの項目について補足的な売り込みをしたい。

まず、「素数のナゾを解き明かしながら、高校・大学の数学を自習できるようにした」という点。前回にエントリーした目次を見てもらえばわかるのだけど、本書には素数との関連で、高校数学の多くの単元が現れている。二段編では数列(等差数列、2次の数列、等比数列)、三段編では対数関数(log)、四段編では合同式、五段編では順列・組合せ、六段編では極限・無限和、七段編では複素数、八段編では微積分という具合だ。だから、高校数学のほとんどの単元が素数と関連づけられることになったわけだ(残念ながら、ベクトルだけは結び付けられなかった)。そういうわけで、本書を使って、高校数学をおさらいできる(あるいは予習できる)ように仕組まれている。高校数学の無味乾燥さに耐えられなくて数学アレルギーを発症した人も、もしも素数に惹かれる人なら、素数を愛でながら高校数学にリベンジできてしまうかもしれない。また、高校以上の数学を先取りしたいけど、教科書とか参考書はつまらないから嫌、という中学生も、わくわくしながら高校数学を先取りできるようになっている。そういう隠れたニーズも踏まえて、本書では高校数学の単元についてもできるだけ初歩から丁寧に解説した。本書は二人の友人に査読してもらったのだけど、そのうちの一人には、「小島くん、この本を読み通せるような人に、こんな初歩の解説は無用なんじゃない?」という疑問を投げかけられた。けれどもぼくは、その人が思っているよりも、数学と一般の人との関係性は多様だと思っている。実際中学生のときのぼくは、高校数学を知らなかったけど、本書を読み通せたと思う。つまり、すぐ上に書いたタイプの中学生だったのだ。そういう意味では、本書は、中学生のときのぼくが欲しただろう本として執筆したつもりだ。

 さらには、本書は、大学数学の自習に使えるようにもなっている。例えば、テイラー展開とか広義積分とかガンマ関数とかを解説している。とりわけ、微分の解説では、高校数学の定義に加えて、ランダウ記号を使った定義をメインに据えたのが特徴だ。関数のランダウ記号表現(f(x)=1+x+O(x^2)みたいなやつ)は、素数についての専門書を読むと必ずふんだんに登場するが、どの本でもこの概念を丁寧には解説していない。これは、専門家でない人たちを素数の魅力から遠ざける障壁になっていると思う。だから本書では、ランダウ記号について、ものすごく丁寧な解説をすることにした。

 もうひとつ、大学でも、数学科や物理学科などの理学分野でしか教わらないであろう複素関数微分積分」についても初歩からの解説を導入した。例えば、コーシーの積分定理(正則関数を閉経路でぐるっと積分すると0になる)とか留数定理(積分値が1位の極のところで決まる)などだ。ただ、ページ数の関係で厳密な扱いができないので、かなり乱暴で大胆な解説をしているけど、それでも定理の急所・本質が伝わるように紹介したつもりだ。

 「ウリ」の中でもう一つ強調しているのは、「ベルトラン予想の証明を書ききった」という点だ。「ベルトラン予想」というのは、「任意の自然数nに対して、nより大きく2n以下の素数が必ず存在する」というものだ。ベルトランが予想して、チェビシェフが証明したので、「ベルトラン=チェビシェフの定理」とも呼ばれる。本書では、九段編で「ラマヌジャンによる証明」を解説した。しかも、この証明はほとんど省略をしてない完全版だ。ラマヌジャンのアクロバットのような証明が理解できてしまうと、彼がいかに時代を超越した数学の天才だったか思い知らされる。皆さんも是非、本書でラマヌジャンのファンになってほしい。

 ラマヌジャンと言えば、ぼくはつい最近、映画『奇跡がくれた数式』をHuluで観た。

 

 

これはラマヌジャンの生涯を描いた物語だ。この映画では、ラマヌジャンの天才性がわかるだけではなく、20世紀初めのインドとイギリスの文化や歴史もみごとに描き出されていて、映画として十分に堪能できる。ただし、ラマヌジャンケンブリッジに招聘した数学者ハーディについて、その複雑な性格をきちんと描いているものの、最終的にはちょっと良い人と持ち上げてる感が否めない。

 数学者の黒川信重さんは、ハーディとラマヌジャンの関係について、黒川信重ラマヌジャン ζの衝撃』現代数学社で詳しく論じているので、是非読んでほしい。ぼくの昔のエントリー

ラマヌジャンの印象が衝撃的に変わる本 - hiroyukikojima’s blog

でも紹介しているので、これも参照のこと。

今回は黒川さんの本から、ハーディとラマヌジャンの関係について書いている部分を引用しよう。(ぼくの新著では、黒川さんのもう一冊ラマヌジャン探検』岩波書店から同じような評価を引用している)。

一番残念なことは、ハーディは最初から最後までラマヌジャンを真に信用し理解することができなかったことです。それは数学の専門家として、他人を疑ってかかるのが当然、という体質が染みついていたせいでしょう。ハーディによれば、ラマヌジャン複素関数論を全く知らなかったそうです。それが本当だとしたら、適切な教科書を教えてあげれば良いのに、と思うのが人情ですが、ハーディはそうではなかったようです。

そして、次のようにハーディの気持ちを分析する。

 人間のやっかいな感情に「ジェラシー(焼き餅。嫉妬)」というものがあります。とくに、数学ではどんどん発見を行う人にジェラシーを感じないわけには行かないものでしょう。実際、別のすっきりした道を通って、ずっと先まで行き着いているのを見たら、そうなるでしょう。ラマヌジャンにハーディが持った感情の底には、それもあったことでしょう。

映画で見る限り、ラマヌジャンへの評価は、ハーディの相方リトルウッドのほうが高かった感じがある。リトルウッドが、当時、第1次大戦のせいで軍部に出向していたのが、ラマヌジャンの不運の一因だったかもしれない。

そんなこんなで、ぼくの新著の九段編を、ラマヌジャンの追悼にも使ってほしいと思う。